神の摂理は、キリスト教信仰全体の中でも最も慰めに満ち、しかも最も誤解されている教えの一つです。 それは、神が世界を造ってから時計職人が時計のねじを巻いて立ち去るように世界を自らに委ねてしまったのではなく、あらゆる瞬間に世界を存在の中に保ち、統治し、造られた善い目的へと導き続けていることを断言します。第1バチカン公会議はこれを厳粛な信仰の真理としました。「神は、造られたすべてのものを、その摂理によって保護し統治する」[1]。
それをよく理解するには、人間の精神が対立させがちな二つの断言を共に保たなければなりません。神は実際にすべてのものを導く、しかも私たちの行為、私たちの原因、私たちの自由は実際に私たちのものです。教義の困難のすべて、そして豊かさのすべては、この結び目の中にあります。それは神学の最大の問いの数々を貫いています。神にとって偶然は存在するのか。神は私を強制することなく、どうしてすべてを予見できるのか。神の恵みが有効であるなら、私はなお自由なのか。そして神がすべてを統治するなら、なぜ悪があるのか。
本稿はこの問いを教義的な形で扱います。子どもや初学者向けの、易しいイメージや実例を用いた教育的な入門については、隣接する記事 摂理を分かりやすく説明するには? を参照してください。ここで求めるのは正確さです。教会が正確に何を教えているか、神学が何を練り上げてきたか、そして義務的な信仰、許された意見、退けるべき誤りとの境界がどこにあるかです。
教会が教えること:信仰の真理としての摂理
学派の区別に先立って、啓示された所与を確定しなければなりません。摂理は信仰に付け足された信心深い慰めではなく、ドグマ、すなわちカトリック者が信じる義務を負う真理です。
教義的定義:第1バチカン公会議とカテキズム
第1バチカン公会議は、憲章 Dei Filius(1870年4月24日)において、知恵の書そのものの言葉で神の摂理的統治を定義しました。
「神は、造られたすべてのものを、その摂理によって保護し統治し、一方の端から他方の端まで力強く届き、すべてのものを穏やかに整える。」、第1バチカン公会議、Dei Filius、第1章[2]
カテキズムはこの定義を取り上げ、覚えやすい短い定式に凝縮しました。
「神の摂理とは、神が知恵と愛をもってすべての被造物をその究極の目的へと導く諸々の配慮のことである。」、カトリック教会のカテキズム、§ 321[3]
この文の四つの言葉が教義的な重みのすべてを担っています。諸々の配慮(気まぐれではなく、意志された秩序)、知恵(神は自分が何をしているかを知っている)、愛(神は私たちの善のためにそれを望む)、究極の目的(ゴールは快適さではなく至福である)。したがって摂理は、盲目的な運命でも、単なる受動的な予知でもありません。それは統治、すなわち神が造られたものに対する神の主権の現実的かつ恒常的な行使です。
摂理、存在における保持、そして世界の統治
摂理は孤立した行為ではなく、創造の延長です。カテキズムは、創造は*「創造主の手から完成したものとして出てきた」のではなく、「なお到達すべき究極の完成へ向かう途上の状態(in statu viae)において造られた」*と明言します[4]。したがって神は世界を存在させるだけでは満足せず、世界を存在の中に保ち、そのゴールへと導きます。
古典神学はここで、神の単純性においては一つである神の三つの行為を区別します。創造(無から存在を与えること)、保持(あらゆる瞬間に存在を保つこと、これがなければ被造物は無に落ちてしまいます)、そして統治すなわち固有の意味での摂理(各存在をその目的へ導くこと)です。聖トマス・アクィナスは『神学大全』の二つの大きな論考をこれに捧げました。摂理そのものについての第22問と、世界の統治についての第103問から第105問です[5]。保持は繰り返される創造ではなく、継続的な依存です。被造物は*「その起源から切り離されれば何もできず、創造主なしには被造物は消え去ってしまう」*のです[6]。
語彙:摂理、計画、予定
議論を混同しないために、近接する三つの言葉を区別しなければなりません。摂理は、神の知性の中にあらかじめ存在するものとして、すべてのものをその目的へ秩序づけることを指します。計画(あるいは神の構想)は、その歴史の中で展開される具体的な内容です。予定は、自由な被造物の超自然的な目的、すなわち救いに特別に適用された摂理です。したがって予定は摂理の一部であり、その同義語ではありません。この語彙の精確さは、恵みと自由の問題に取り組む際に多くの誤解を避けさせてくれるでしょう。神が*「予見する」と言うことは、運命論的な意味で神が「あらかじめ決定する」*と言うことではなく、本稿はこの点に戻ります。
一般的摂理、特別な摂理、最も特別な摂理:神の配慮の諸段階
神学の伝統は、摂理の行使におけるいくつかの段階を区別します。神が不平等に愛するからではなく、神の統治が各被造物の尊厳に適応するからです。聖トマスとスコラ学から受け継がれたこれらの区別が、主題全体を構造化しています。
一般的摂理:全宇宙の統治
第一の段階では、神は宇宙全体を、そこに刻み込んだ法則を通して統治します。星々の運行、季節の移り変わり、自然の法則です。これは一般的摂理であり、哲学的理性でさえ世界の秩序を観想することによって垣間見ることができます。聖書は留保なくこれを断言します。「私たちの神は天におられ、望むことは何でも行われる」(Ps 115, 3)[7]。最大のものから最小のものまで、何もそこから逃れません。
特別な摂理:各存在への配慮
第二の段階では、摂理は単一のものにまで降りてきます。カテキズムによれば、聖書の証言は*「一致しています。神の摂理の配慮は具体的で直接的であり、最も小さい事柄から世界の歴史の大事件に至るまで、すべてのものを世話します」*[8]。イエス自身、この断言を目がくらむほどの点まで推し進めました。
「二羽の雀は一アサリオンで売られているではないか。その一羽でも、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。」、聖マタイによる福音書、10, 29-31[9]
価値のないもの(雀)と数え切れないもの(髪の毛)をあえて選ぶことによって、キリストは父のまなざしにとって小さすぎるものは何もないことを教えます。特別な摂理は冷淡な監視ではなく、子らを一人ひとり取り上げる父の配慮です。
義人と教会に対する摂理
第三の段階では、伝統は、永遠の命へ召された霊的被造物、とりわけ神の教会と神を愛する人々に対する、神のいっそう注意深い配慮を認めます。これが、かくも頻繁に引用される聖パウロの約束の意味です。
「神を愛する者たち、つまり、ご計画どおりに召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、私たちは知っています。」、聖パウロ、ローマの信徒への手紙 8, 28[10]
万事という言葉が決定的です。幸福な出来事だけでなく、試練、失敗、そして悔い改めた罪までもが、神を愛する者たちの善へと秩序づけられるのです。これは、起こることすべてが善いと言うことではありません。起こることの何一つとして、導かれることを受け入れる者にとって救いの計画から逃れることはできない、と言うことです。
通常の摂理と異常な摂理:奇跡の位置
最後の区別は、自然的原因を通して統治する通常の摂理(麦を育てる雨)と、自然の通常の経過を超えて神が働く異常な摂理、すなわち奇跡を分けます。奇跡は摂理に対する違反ではなく、神が機械の調節を誤った証拠でもありません。それはしるしであり、自然の主が自らその主権者であることを公然と示す瞬間です。通常の摂理が規則であり、異常な摂理は意味を持つ例外です。
神は直接働くのか、それとも仲介者を通して働くのか? 第一原因と第二原因
ここに問題全体の神学的な核心があり、摂理についての現代の誤解のほとんどが決着する地点があります。神がすべてを行うなら、被造物は何をするのか。そして被造物が本当に働くなら、神に何が残るのか。
トマス主義の区別:神は第一原因、被造物は第二原因
カトリックの答えは、聖トマス・アクィナスによって定式化された、非常に実り豊かな区別の中にあります。神は存在するすべてのものの第一原因です。しかし神は、被造物もまた真の第二原因であり、その結果を実際に生み出すことを望まれました。農夫は実際に種を蒔き、火は実際に燃え、自由意志は実際に選びます。しかも、これらの原因のそれぞれの背後で、神は存在と成長と働きを与えます。カテキズムは率直にこう述べます。
「神は、その計画の主権的な主である。しかし、その実現のために、神は被造物の協力も用いる。これは弱さのしるしではなく、全能の神の偉大さと善さのしるしである。なぜなら神は、被造物に存在を与えるだけでなく、自ら働き、互いに原因となり原理となる尊厳をも与えるからである。」、カトリック教会のカテキズム、§ 306[11]
誤りは、神と被造物を、仕事を分け合う二つの競合する原因として想像することでしょう。神が90%、被造物が10%を行う、二人が同じ綱を引くようなものです。そうではありません。神と被造物は同じ面の上で働くのではありません。神は被造物に、全体として、自らによって働かせます。神は原因の原因であり、原因の競合者ではありません。
「神は被造物のあらゆる働きの中で働く」
聖トマスは『神学大全』の有名な項でこのテーゼを提示します。「神はあらゆる作用者の中で働くか」、そして*「一つの同じ行為が第一の作用者と第二の作用者から生じることを妨げるものは何もない」*がゆえに、答えは然りです[12]。カテキズムはまさにこの教義を取り上げます。
「神が被造物のあらゆる働きの中で働かれていることは、創造主である神への信仰と切り離せない真理である。神は、第二原因の中で、第二原因を通して働く第一原因である。[…]この真理は、被造物の尊厳を損なうどころか、それを高める。」、カトリック教会のカテキズム、§ 308[13]
古典的なイメージは、師と弟子のイメージです。良い師は弟子の代わりに宿題をするのではなく、弟子に自らそれをさせ、弟子が自らの力で成功することこそ師にとってより大きな栄光です。同様に、摂理は被造物の代わりをするのではなく、被造物に働かせます。神は私たちの自由の競合者ではなく、その源です。
働くことの尊厳:摂理は被造物を高める
ここから、しばしば見落とされる重大な霊的帰結が生じます。摂理を信じることは人を消極的にするのではなく、責任ある者にするのです。神は*「人間が神の摂理に自由に参加する力をも与え」、その結果「神の意志にしばしば無自覚な協力者である人間は、その行為により、その祈りにより、しかもその苦しみによっても、神の計画に自覚的に入ることができる」*のです[14]。被造物は歯車ではなく、協力者です。だからこそ、古い霊的格言は求められる態度を的確に要約しています。すべてが私たちにかかっているかのように行動し、すべてが神にかかっているかのように信頼せよ。
理神論でも汎神論でもない:カトリックの道
この区別は、教義を常に脅かしてきた二つの対称的な誤りを避けることを可能にします。理神論は分けすぎます。神は世界を造ってから身を引いて、機械を回転させ続けたというのです。不在の時計職人であり、後でまた取り上げます。汎神論は混同しすぎます。神と世界は一つであり、被造物は神の一様態にすぎず、それ自体の堅固さを持たないというのです。第二原因の教義はこの二つの間の正確な稜線を保ちます。神は働くすべてのものに親密に現存し(理神論に反して)、しかも被造物は真の堅固さと真の働きを保ちます(汎神論に反して)。
神にとって偶然は存在するか?
繰り返し戻ってくる異議があります。かくも多くのことが偶然に起こる(予期せぬ出会い、事故、くじ引き)のなら、神がすべてを統治するとどうして言えるのか。トマス主義の答えは非常に精確であり、今日ますます時宜にかなっています。
私たちにとっては偶然、神にとっては予見されたもの
聖トマスは二つの視点を区別します。出来事は、それを生み出す個別的原因との関係では偶然でありえます(二人の友人が、それぞれ自分の用事で来て、予期せず市場で出会う)。しかし普遍的原因である神との関係では、少しも偶然ではありません。
「結果が個別的原因の秩序を逃れる限りにおいて、それはその原因との関係で偶然あるいは偶発的であると言われる。しかし、それを、その外では何も起こりえない普遍的原因に帰するなら、それは予見されたものであると言われる。」、聖トマス・アクィナス『神学大全』Ia, q. 22, a. 2 による[15]
言い換えれば、私にとって偶然であるものは、神にとっては決して偶然ではないのです。偶然は私たちの水準では現実です(二つの自由が予期せず交差する)。しかしそれが神の統治における裂け目であることは決してありません。さいころを振る者はどの目が出るか知りませんが、すべての原因を持つ方はそれを知り、ご自分の秩序の中に含めています。
実際の偶然性であって、運命論ではない
しかし、早急な結論には注意しなければなりません。神がすべてを予見すると言うことは、すべてが必然的に起こるという意味ではありません。聖トマスは、摂理は*「すべてのものに必然性を課すのではない」と固く主張します。神はある結果は必然的に起こるよう秩序づけ、他の結果は偶然的に起こるよう、「その近接原因の本性に応じて」*秩序づけます[16]。石は必然によって落ち、人間は自由に選びます。摂理は相対的な偶然も、偶然性も、自由も廃止しません。それらを包み込みます。まさにこの点が、教義全体の最も手強い問題を開きます。
神は私の自由を破壊することなく、どうしてすべてを予見できるのか?
これが主要な異議であり、ボエティウスからライプニッツまで最大の精神たちを占めてきた問題です。神が永遠の昔から私が明日何をするかを知っているなら、私がすることはすでに固定されている、したがって私は自由ではない、というのです。問題は現実であり、キリスト教の答えは繊細で光に満ちています。
真の問題:予知と未来の偶然的なもの
運命論的な議論は、すでにという言葉についての混同に基づいています。それは、神が私の行為について持つ知識が行為に先行し、それを引き起こす、あたかも出来事を強制する予言であるかのように想定しているのです。しかし神の予知はそのような性質のものではありません。神は、預言者が水晶玉を読むように、それをあらかじめ推測することによって未来を知るのではありません。時間的なものの何一つとして神のまなざしを逃れないがゆえに、神はそれを見ることによって知るのです。
ボエティウスとトマスの答え:神はその永遠の現在の中で見る
6世紀にボエティウスによって定式化され、次いで聖トマスによって取り上げられ深められた古典的な解決は、神の永遠性の本性の中にあります。神は時間の中にはいません。神は物事が起こる前に、神にとってなお未来であるような未来において物事を知るのではありません。神は、見下ろす視点からであるかのように、唯一の永遠の現在の中でそれらすべてを見ます。伝統的なイメージは旅人と観察者のイメージです。道を歩く者は自分が踏む一歩しか見ません。山の頂上から一つのまなざしで道全体を抱擁する者は、出発点、旅人、ゴールを同時に、しかも旅人の歩みを強制することなく見ます。自由な行為が成し遂げられるのを見ることは、その行為を少しも自由でなくしません。 神は、明日の私の選択を、強制するような未来として見るのではありません。神はそれを、観想する現在として見、しかも同じ行為において、それを自由なものとして存在させます。
詩編の書はすでに、時間を押しつぶすことなく時間を包むこの知識を歌っています。
「主よ、あなたは私を調べ、私を知っておられる。[…]言葉が私の舌に上る前から、主よ、あなたはそれをことごとく知っておられる。[…]私の日々はすべて、まだその一日も始まらない前から、あなたの書物に記されていた。」、詩編 138(139)、1-4.16[17]
「摂理は必然性を課さない」
だからこそカトリック神学は運命論を断固として退けます。カテキズムはこの精確さを摂理の定義そのものの中に挿入しています。神はすべてのものを保護し統治します、「被造物の自由な働きが生み出すものさえも」[18]。自由は、神がその計画の周縁で容認する例外ではありません。それは計画の一部です。神は、被造物が本当に選ぶ世界を望まれ、その自由を含めてその世界を統治します。したがって矛盾なくこう言うことができます。私が自由に行う善のすべてを、神は望まれ、しかも私はそれを自由に行う。 他方、悪を神は望みません。後述するように、神は悪を許すだけです。
教会が断言すること、退けること
この滑りやすい地盤の上で、教会は明確な境界石を設定しました。教会は、神が私たちの自由な行為を含め、未来を誤りなく知り、それを主権的に整えることを断言します。教会はまた、人間が本当に自由であり、その行為について本当に責任を負うことも断言します。教会は二つの易しい還元を退けます。全能の名において自由を否定する運命論と、自由を救うために摂理を受動的な予知に還元する道徳的理神論です。神の全面的な主権と人間の実際の自由という両端を保つことは、矛盾ではなく神秘です。まさにこの二つの真理の連結が、教会史上最も有名な神学論争を引き起こしました。
恵みと自由:偉大な De auxiliis 論争
この神秘は、通常の行為ではなく超自然的な行為に適用されるとすぐに燃え上がります。私が善を行うとき、私の中で働いているのは神の恵みです。しかし神の恵みがそれ自体で有効であるなら、私の同意はなお自由なのか。そして私の同意が必要とされるなら、恵みは私に依存するのか。この結び目が、16世紀から17世紀への変わり目に、二つの大きな神学学派を有名なままの対立の中で対向させました。De auxiliis 論争(「恵みの助けについて」)です。
問題:有効な恵みは自由意志をどう尊重するか?
すべてのカトリック者は、二つの信仰の真理について一致しています。一方ではルターとカルヴァンに反して、他方ではペラギウスに反して定められたものです。恵みは絶対的に必要であり第一であること(誰も自らの力だけで救われない)、そして人間の意志は恵みの下でも自由なままであること(意志は強制されない)です。争われている問題は、これらの二つの真理が真であるかどうかではなく、それらがどのように結び合うかです。それは学派の議論であり、信仰と異端の間の選択ではありません。
トマス主義者:物理的先行運動
第一の学派はドミニコ会の学派であり、スペインの神学者ドミンゴ・バニェス(1528-1604)に率いられ、神は意志を物理的先行運動によって動かすと主張します。実際の、内面的な運動であり、意志を働くよう適用し、行為へと移行させます。この運動は本質的に有効です。それは、意志を強制することによってではなく、自由な能力としての意志の本性に応じて意志を動かすことによって、その効果を誤りなく得ます。なぜなら自由の作者そのものである神ご自身がゆえに、自由な原因を自由に動かすことができるからです。この立場の利点は、神の優位と主権を完全に守ることです。善を意志させ始めるのは、第一に神です。その困難は、誤りなく有効な運動が拒絶の自由をいかに無傷に保つかを示すことにあります。
モリナ主義者:中間知
第二の学派はイエズス会の学派であり、神学者ルイス・デ・モリーナ(1535-1600)の著作 Concordia liberi arbitrii cum gratiae donis(「自由意志と恵みの賜物との調和」、1588年)に依拠しています。モリーナは新しい概念を導入します。中間知(scientia media)です。それによって神は、あらゆる命令に先立って、各自由な被造物がこれこれの可能な状況において何をするであろうかを知ります。有名な未来条件文、自由の条件文です。この知識で武装して、神は、自由なままの意志が恵みに同意するであろうことを神が知っている状況に、各人を置くことを選びます。恵みは有効ですが、その有効性は予見された同意を考慮に入れます。この立場の利点は、人間の自由を輝かしく守ることです。その困難は、神の命令が被造物に依存するように見せることなく、この未来条件文の知識の根拠を説明することにあります。
これら二つの構成は、その対立にもかかわらず、同じ信仰の真理を守ろうとしています。次のように要約できます。
| 比較のポイント | トマス主義者(バニェス、ドミニコ会士) | モリナ主義者(モリーナ、イエズス会士) |
|---|---|---|
| 恵みは意志をどう動かすか | 実際の内面的な物理的先行運動によって | 予見された自由な同意を考慮することによって |
| 恵みの有効性 | 本質的:それ自体で有効 | 神が私たちが同意すると知っている状況と結びついている |
| 鍵概念 | 神の運動、物理的予定 | 中間知、未来条件文の知識 |
| とりわけ守られる真理 | 神の主権と優位 | 人間の実際の自由 |
| 避けるべき危険 | 自由を強制するように見えること | 神が被造物に依存するように見えること |
ローマの判決:二つの学派が許され、どちらも断罪されていない
衝突はあまりにも激しくなったので、ローマは裁断しなければならなくなりました、むしろ、裁断しないことを決定しました。教皇クレメンス8世は1598年に特別委員会 Congregatio de Auxiliis を設置し、それはほぼ10年間にわたり、教皇の臨席の下での会議を含め、数十回の会議を開きました。クレメンス8世の死(1605年)の後、後継者パウルス5世は1607年に公式に議論を終結させました。両方の立場を支持可能であると宣言し、各学派が他方を異端と呼ぶことを禁じ、後日の裁定を自らに留保しましたが、それはついに行われませんでした[19]。ドミニコ会士はカルヴァン主義から遠いと認められ、イエズス会士はペラギウス主義から遠いと認められました。
この結末は示唆に富んでいます。教会は、有効な恵みと自由の間の一致のあり方は開かれた神学的な神秘のままであると判断しました。いくつかの説明が許され、どれも課されません。カトリック者は、二つの境界の真理、すなわち第一で主権的な恵みと、実際の自由を、どちらかの学派の統合を採用するよう義務付けられることなく保たなければなりません。それは教義的な節度の教訓です。啓示された所与が止まるところで、神学は提案しますが、義務付けません。
摂理と悪:神は悪を許すのか?
これより重大で、しかもより正当な異議はありません。神が知恵と善さをもってすべてを統治するなら、悪はどこから来るのか。カテキズム自体、その力を認めています。「いかなる性急な答えも十分ではない」[20]。ここではその教義的な連結だけを示し、異議の完全な扱いは専用の記事に留保します。
意志することと許すこと:決定的な区別
第一の鍵は、伝統全体が維持してきた区別です。神は善を意志しますが、悪は許します。神は決して、「直接的にも間接的にも、道徳的悪の原因ではない」[21]。罪は被造物の自由意志から来るのであって、神から来るのではありません。しかし神は、自ら与えた自由への尊重ゆえに、そして悪からより大きな善を引き出すのに十分なほど力強く善であるがゆえに、悪を許します。許すことは意志することではありません。息子に成長の危険を冒させる父は、息子の転落の作者ではありませんが、より大きな善、すなわち自由な成熟を見てそれを容認します。
何も逃れない:悪そのものから引き出される善
聖アウグスティヌスはこの確信を、カテキズムが逐語的に引用する一文に要約しました。
「全能の神は[…]、この上なく善であるがゆえに、悪そのものから善を引き出すほど力強く善でなければ、その業の中にいかなる悪の存在も決して許さなかったであろう。」、聖アウグスティヌス、『エンキリディオン』第11章[22]
これは、兄弟たちに売られたヨセフの物語があらかじめ示していることです。「あなたたちは私に悪をたくらんだが、神はそれを善に変えられた」(Gen 50, 20)[23]。摂理はあらゆる悪を妨げることにあるのではなく、神が善を引き出すことができない悪を何一つ残さないことにあります。悪がそれ自体で善であったからではなく、神が悪を善へ秩序づけるほど力強いからです。
十字架、摂理の頂点
この論理の頂点は十字架です。カテキズムは大胆さの極みまで行きます。
「今までに犯された最大の道徳的悪、すなわち神のひとり子の拒絶と殺害から、神は、ますます満ちあふれた恵みによって、最大の善、すなわちキリストの栄光化と私たちの贖いを引き出された。しかし、だからといって悪が善になることは決してない。」、カトリック教会のカテキズム、§ 312[24]
最も怪物的で不当な不正から、神が世界の救いを湧き出させることができたのであれば、人間のいかなる十字架も、原則として希望なしではありません。これが摂理が与える究極の保証です。悪が存在しないということではなく、悪が最後の言葉を持たないということです。
📖 詳細記事を見る:悪のつまずきをどう説明するか?、大きな異議の完全な扱いについては、そして摂理が不在であるように見えるときは なぜ神は沈黙しているように見えるのか?。
摂理に対する現代の異議
悪の問題のほかに、近代は、それ自体の異議を、しばしば暗黙のうちに生み出しました。それらは、必ずしも明確に定式化されることなく、摂理への信仰を掘り崩します。
理神論:立ち去る時計職人
第一の異議は、17世紀に生まれた理神論の異議です。神は世界を造り、時計職人が時計を組み立てるようにその法則を定め、それから身を引いて、機械を自ら回転させ続けたというのです。世界は介入なしに「自ら」動くというのです。このイメージは、神と自然の法則の両方を尊重するように見えるがゆえに魅力的です。しかしそれは保持の教義と真っ向から矛盾します。「自らに委ねられた」世界は、まさにその瞬間に、存在することをやめてしまうでしょう。なぜなら、いかなる被造物も自らの力によって存在の中に自らを保たないからです。キリスト教の神は不在の時計職人ではなく、聖アウグスティヌスの言葉で*「私自身よりも私に親密な」働く現存です。第二原因は神を無用にするのではありません。それらは神の作用様式そのもの*です。
科学的決定論と進化の偶然
第二の異議は科学から来ます。ある人々にとっては、すべては物理法則によって決定されており、自由にも神の働きにも余地がありません。他の人々にとっては逆に、すべては偶然であり、生命は「偶然に生まれた」ものであり、進化は方向のない盲目的な選別であるというのです。互いに対立するこれら二つのテーゼは、トマス主義の区別を忘れています。自然の法則こそが神の通常の統治であり、科学が「偶然」と呼ぶものは、第二原因との関係における偶然でしかなく、第一原因との関係における偶然では決してありません。科学は第二原因がどのように連鎖するかを記述します。神がその第一の作者であることを証明することも反証することもできません。摂理と自然的因果性は競合者ではありません。それらは二つの異なる水準で作用します。
「神が備えるなら、なぜ祈り、なぜ行動するのか?」
第三の異議はより親密で、ほとんど霊的です。神がすでにすべてを予見し整えたなら、祈って何の役に立つのか。闘って何の役に立つのか。ここで第二原因の区別に戻ります。祈りと行動は、神の手を強制する試みでも、神の見落としを補う試みでもありません。それらは、神がその計画を実現しようと望んだ手段そのものです。神は、ある善を子らの祈りを通して与え、ある業を子らの労働を通して行うことを決定しました。祈り、行動することは、摂理を補うことではなく、摂理の中へ入ることです。
📖 詳細記事を見る:神がすでにすべてを知っているなら、なぜ祈るのか?、祈りが神の計画にどう入るかについては、そして試練に適用された神の許容については なぜ神は誘惑を許すのか?。
摂理を生きる:信頼に満ちた委ね
摂理を理解することは、この教義が生き方へとつながらなければ、学問的な演習にすぎません。これまでの神学全体には実践的な結論があります。神が知恵と愛をもってすべてを統治するがゆえに、私は自らを神に委ねることができます。これが、聖書と聖人たちが委ねと呼ぶ態度です。
委ねは消極性ではない
まず誤解を取り除かなければなりません。摂理への委ねは、*「何の役に立つのか」*と言って腕を組む運命論者の諦めではありません。まさにその逆です。運命論者は、すべてがあらかじめ決まっていると信じるがゆえに行動を諦めます。自らを委ねる者は全力を尽くして行動し、それから、もはや自分に依存しないもの、すなわち結果、未来、予見できないものを神に委ねます。委ねは積極的な信頼であり、辞退ではありません。キリスト自身、それを指示としています。
「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」、聖マタイによる福音書、6, 34[25]
そしてカテキズムは、聖ペトロを引用して、これを摂理の教義全体の実践的な結論としています。「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」(1 Pet 5, 7)[26]。
コサードと「現在の瞬間の秘跡」
この委ねの霊性は、18世紀の小さな論考『神の摂理への委ね』の中で最も有名な表現を見出しました。長らくイエズス会士ジャン=ピエール・ド・コサード(1675-1751)に帰せられてきました。その帰属は今日、専門家の間で議論されています。本文は1861年にアンリ・ラミエール神父によって写本から初めて出版され、ミシェル・オルフ=ガリアールの批判版がその伝承の複雑さを示したのです[27]。しかし、この書の中心的な直観は、フランス霊的伝統の頂点として残っています。現在の各瞬間は、神の意志が私たちに自らを与える場所であり、「現在の瞬間の秘跡」です。その時間の務め、起こる出来事、出会う人、これらすべては、信仰を持つ者にとって、神がここ今においてその恵みを伝える「秘跡」です。夢見た未来を追いかける必要も、過ぎ去った過去をかみしめる必要もありません。聖性は、神が今日求めるものへの忠実さの中に賭けられています。
自分が支えられていることを知る者の平安
この委ねの実りは、外的なものは何も与えず、外的なものは何も完全には奪うことができない平安です。すべてがうまくいくからではなく、すべての底で、眠ることのない愛が見守っているからです。カテキズムは、摂理についての考察を、すべての異議に一文で答える信仰の行為で締めくくります。
「私たちは、神が世界とその歴史の主であると固く信じる。しかし、神の摂理の道はしばしば私たちには知られていない。私たちの部分的な知識が終わり、神を『顔と顔を合わせて』(1 Cor 13, 12)見るようになる終わりの時に初めて、悪と罪の悲劇を通してさえ、神がその被造世界を、天地を創造された究極の安息日の休み(Gen 2, 2 参照)へと導かれた道を、私たちは完全に知るようになる。」、カトリック教会のカテキズム、§ 314[28]
結局、摂理を理解することは、すべてを理解することではありません。信頼するのに十分なほど理解することです。信者はまだ全体の構想を見ていません。言われてきたように、タペストリーの裏側で生きています。しかし、糸を誰が握っているかを知っており、その主が父であることを知っています。
さらに深く知るために
- 摂理を分かりやすく説明するには?、同じ真理を、易しい言葉とイメージで説明したもの。
- 悪のつまずきをどう説明するか?、摂理に対する大きな異議の完全な扱い。
- なぜ神は沈黙しているように見えるのか?、摂理が不在であるように見えるとき。
- 神がすでにすべてを知っているなら、なぜ祈るのか?、祈りが神の計画にどう入るか。
- なぜ神は誘惑を許すのか?、試練に適用された神の許容。
- 聖化の恵みとは何か?、摂理が伝えようとする神の命。
注と参考文献
第1バチカン公会議、教義憲章 Dei Filius(1870年4月24日)、第1章(De Deo rerum omnium creatore)、Denzinger-Schönmetzer 3003。ラテン語本文:「Universa vero, quae condidit, Deus providentia sua tuetur atque gubernat, attingens a fine usque ad finem fortiter, et disponens omnia suaviter」(Sg 8, 1 の引用)。カテキズムは § 302 でこの公会議を引用している。
1 2カトリック教会のカテキズム、§ 321(摂理についての節 § 302-314 を結ぶ「要約」の定式)、公式本文(vatican.va):「神の摂理とは、神が知恵と愛をもってすべての被造物をその究極の目的へと導く諸々の配慮のことである。」
3カトリック教会のカテキズム、§ 302(vatican.va):「創造は、それに固有の善さと完全さを持っているが、創造主の手から完成したものとして出てきたのではない。それは、神がそれに定めた、なお到達すべき究極の完成へ向かう『途上の状態(in statu viae)』において造られた。私たちは神の摂理を、神がその創造をこの完成へ導く諸々の配慮と呼ぶ。『神は摂理によって、造られたすべてのものを保護し統治する[…]被造物の自由な働きが生み出すものさえも』」(Sg 8, 1;Heb 4, 13;第1バチカン公会議:DS 3003 参照)。
4 18聖トマス・アクィナス、『神学大全』、Prima Pars、摂理についての q. 22(De providentia Dei、4項)と、世界の統治と被造物の存在における保持についての q. 103-105(De gubernatione rerum)。
5カトリック教会のカテキズム、§ 308(vatican.va):「神が被造物のあらゆる働きの中で働かれていることは、創造主である神への信仰と切り離せない真理である。神は、第二原因の中で、第二原因を通して働く第一原因である[…]。この真理は、被造物の尊厳を損なうどころか、それを高める。無から引き出された被造物は、その起源から切り離されれば何もできず、『創造主なしには被造物は消え去ってしまう』(GS 36, § 3)。」
6 13カトリック教会のカテキズム、§ 303(vatican.va):「聖書の証言は一致している。神の摂理の配慮は具体的で直接的であり、最も小さい事柄から世界の歴史の大事件に至るまで、すべてのものを世話する。」 この項は Ps 115, 3;Rev 3, 7;Prov 19, 21 を引用している。
7 8聖マタイによる福音書、10, 29-31:「二羽の雀は一アサリオンで売られているではないか。その一羽でも、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」
9聖パウロ、ローマの信徒への手紙、8, 28:「神を愛する者たち、つまり、ご計画どおりに召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、私たちは知っています。」
10カトリック教会のカテキズム、§ 306(vatican.va):「神は、その計画の主権的な主である。しかし、その実現のために、神は被造物の協力も用いる。[…]なぜなら神は、被造物に存在を与えるだけでなく、自ら働き、互いに原因となり原理となり、神の計画の達成に協力する尊厳をも与えるからである。」
11聖トマス・アクィナス、『神学大全』、Ia, q. 105, a. 5(「神はあらゆる作用者の中で働くか」):「一つの同じ行為が第一の作用者と第二の作用者から生じることを妨げるものは何もない。」 『カトリック信仰の弁証』第III巻、第67章および第70章、あらゆる第二原因における第一原因としての神の働きについても参照。
12カトリック教会のカテキズム、§ 307(vatican.va):「人間に対して、神は神の摂理に自由に参加する力をも与える[…]。神の意志にしばしば無自覚な協力者である人間は、その行為により、その祈りにより、しかもその苦しみによっても、神の計画に自覚的に入ることができる」(Col 1, 24;1 Cor 3, 9 参照)。
14聖トマス・アクィナス、『神学大全』、Ia, q. 22, a. 2, ad 1:「結果が個別的原因の秩序を逃れる限りにおいて、それはその原因との関係で偶然あるいは偶発的であると言われる。しかし、それを、その外では何も起こりえない普遍的原因[神]に帰するなら、それは予見されたものであると言われる。」(ラテン語からの翻訳:「quod praeter ordinem causae particularis accidit...」)。
15聖トマス・アクィナス、『神学大全』、Ia, q. 22, a. 4(「摂理は、それが予見するものに必然性を課すか」):神の摂理はすべてのものに必然性を課すのではない。神はある結果は必然的に起こるよう、他の結果は偶然的に起こるよう、その近接原因の本性に応じて秩序づける。
16詩編 138(ヘブライ語番号では139)、第1-4節および第16節:「主よ、あなたは私を調べ、私を知っておられる。[…]言葉が私の舌に上る前から、主よ、あなたはそれをことごとく知っておられる。[…]私がまだ形をなさないうちに、あなたの目は私を見ておられた。私の日々はすべて、まだその一日も始まらない前から、あなたの書物に記されていた。」
17De auxiliis 論争(「恵みの助けについて」)。教皇クレメンス8世は1598年に、ドミニコ会士(トマス主義者、ドミンゴ・バニェス、† 1604:物理的先行運動)とイエズス会士(モリナ主義者、ルイス・デ・モリーナ、† 1600:scientia media、Concordia liberi arbitrii cum gratiae donis、1588年所収)の対立を調停するため Congregatio de Auxiliis を設置した。ほぼ10年間の会議の後、パウルス5世は1607年にどちらの学派も断罪することなく議論を終結させ、各学派が他方を異端と呼ぶことを禁じ、ついに行われなかった決定を自らに留保した。
19カトリック教会のカテキズム、§ 309(vatican.va):悪の問題について、「切実であると同時に避けられず、苦痛であると同時に神秘的であるこの問題には、いかなる性急な答えも十分ではない。」
20カトリック教会のカテキズム、§ 311(vatican.va):「神は、直接的にも間接的にも、道徳的悪の原因では決してない。しかし神は、被造物の自由を尊重し、神秘的に悪から善を引き出すすべを知っているがゆえに、悪を許す。」
21聖アウグスティヌス、『信仰・希望・愛についてのエンキリディオン』、第11章3節、カトリック教会のカテキズム § 311 によって逐語的に引用:「全能の神は[…]、この上なく善であるがゆえに、悪そのものから善を引き出すほど力強く善でなければ、その業の中にいかなる悪の存在も決して許さなかったであろう。」
22創世記、50, 20:「あなたたちは私に悪をたくらんだが、神はそれを善に変え、今日のように、多くの民の命を救おうとされた。」 CEC § 312 によって引用。
23カトリック教会のカテキズム、§ 312(vatican.va):「今までに犯された最大の道徳的悪、すなわち神のひとり子の拒絶と殺害から、神は、ますます満ちあふれた恵み(Rm 5, 20 参照)によって、最大の善、すなわちキリストの栄光化と私たちの贖いを引き出された。しかし、だからといって悪が善になることは決してない。」
24聖マタイによる福音書、6, 34:「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」 摂理についてのイエスの説教(Mt 6, 25-34)の結論。
25カトリック教会のカテキズム、§ 322(vatican.va):「キリストは、天の父の摂理への子としての委ねへと私たちを招き、使徒ペトロはこれを受けて言う。『思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです』(1 Pet 5, 7;Ps 55, 23 参照)。」
26『神の摂理への委ね』、フランスのイエズス会士ジャン=ピエール・ド・コサード(1675-1751)に伝統的に帰せられる霊的論考。1861年にアンリ・ラミエール神父によって写本から初めて出版された。その帰属と本文の統一性は、ミシェル・オルフ=ガリアールの批判版(1960年代)以来議論されている。*「現在の瞬間の秘跡」*という表現は、この著作の中心的な直観を要約している。それは特に、キティ・マガリッジによる英訳(1981年)のタイトルである。
27カトリック教会のカテキズム、§ 314(vatican.va):「私たちは、神が世界とその歴史の主であると固く信じる。しかし、神の摂理の道はしばしば私たちには知られていない。私たちの部分的な知識が終わり、神を『顔と顔を合わせて』(1 Cor 13, 12)見るようになる終わりの時に初めて、悪と罪の悲劇を通してさえ、神がその被造世界を、天地を創造された究極の安息日の休み(Gen 2, 2 参照)へと導かれた道を、私たちは完全に知るようになる。」
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