毎年12月になると、同じ反論が繰り返されます。「クリスマスは変装した異教の祭りにすぎない。キリスト教徒は12月25日を太陽崇拝から盗んだのだ。」あまりに広まった主張であるため、歴史的事実であるかのように受け取られています。しかし、それは事実ではありません。ラテン教会がなぜキリストの誕生を12月25日に祝うのかという問いには、正確な歴史があり、日付を特定できる資料があり、今も論争が続く二つの学説があります。そのどちらも「異教の盗作」という決まり文句には収まりません。
12月25日は福音書によって啓示された日付ではありません。聖ルカも聖マタイも降誕の日を示していません[1]。この日付は、3世紀から4世紀にかけて形作られた神学的な推論と典礼の実践の結果です。この日がどのように選ばれたのかを理解すれば、初期のキリスト教徒たちが異教を真似しようとしたのではなく、まことの太陽であるキリストが、一年で最も長い夜のただ中に世を照らすために来られたことを告げようとしたことが分かります。
最古の資料が実際に語ること
学説を評価する前に、文書そのものを見る必要があります。クリスマスの日付はある日突然現れたのではありません。3世紀の最初の年代計算の試みから、4世紀に初めて確認できる典礼の祝いまで、資料を一つずつたどることができます。
354年の年代記:最も古い典礼上の証し
決定的な文書は354年の年代記、別名フィロカルスの暦です。キリスト教徒の貴族のために編まれた、美しい挿絵入りのローマの暦です[2]。その中の『殉教者安息日録』(Depositio Martyrum)、つまりローマ教会の典礼上の記念日の一覧の冒頭には、こう記されています。
「1月のカレンダエの8日前:キリストはユダヤのベツレヘムでお生まれになった。」 354年の年代記『殉教者安息日録』[3]
「1月のカレンダエの8日前」とは、ローマの暦の数え方では12月25日を指します。これが、12月25日の降誕の祝いについて、日付を特定できる最も古い明示的な言及です。歴史家の一部は、基礎となるリストを336年のローマの慣行にまでさかのぼらせます。付属する司教の一覧(Depositio episcoporum)がもともとその年のものであるように見えるからであり、ローマにおけるこの祝いの*終限(terminus ad quem)*が得られることになります。しかし、このさかのぼりには異論があり、一致した見解ではありません[4]。疑いのないのは、354年の写本による証しだけです。注目すべき細部として、『殉教者安息日録』では、リストの冒頭に立っているのがキリストの降誕なのです[5]。
ヒッポリュトスと3世紀の最初の言及
より早く、3世紀初めに、ローマのヒッポリュトスに帰される『ダニエル書注解』(204年ごろ)には、一部の写本がキリストの誕生を「1月のカレンダエの8日前」、すなわち12月25日に置く箇所があります[6]。本文批評は慎重です。この箇所は後世の挿入である可能性があり、その本文は議論の対象となっています。それでも、この箇所は、降誕の日付についての考察が4世紀よりずっと前からすでに行われていたこと、そしてそれが皇帝による太陽の祭りに依存していなかったことを示しています。
聖ヨハネス・クリュソストモス:東方では「生まれたばかり」の祝い(386年)
東方では、降誕は長く1月6日の公現祭と重なっていました。12月25日が導入されるのは、ようやく4世紀末になってからです。最も明確な証言は聖ヨハネス・クリュソストモスによるもので、386年12月25日にアンティオキアで説教しました[7]。彼は信徒たちに、この祝いは「西方の人々の間では古くから知られていた」ものであり、自分たちのところに届いてからまだ10年もたっていないこと、そしてローマ教会がこの日を主の誕生の真正な日付とみなしていたことを説明しています[8]。進展の向きは明らかです。12月25日はローマと西方から出発して東方へ広がったのであり、東方の太陽崇拝をそのまま輸入したとする説明に必要な向きとは正反対です。
よく知られた学説:クリスマスは「無敗の太陽」に取って代わったのか
最もよく知られた理論は、「宗教史」説と呼ばれるものです。19世紀末にドイツの学者ヘルマン・ウーゼナー[9]が提唱し、英語圏ではスコットランドの人類学者ジェームズ・ジョージ・フレイザーが『金枝篇』[10]で広めました。この説によれば、教会は太陽の異教の祭りを押しのけ、異教徒の改宗を容易にするために、クリスマスを12月25日に定めたのだといいます。
アウレリアヌスと『無敗の太陽の誕生日』:神殿は274年、祭りは354年
その支えとなるのは皇帝アウレリアヌスです。彼は274年にSol Invictus(「無敗の太陽」)の国家崇拝を創設し、ローマにその神殿を捧げました[11]。しかし、決定的な区別として、アウレリアヌスが太陽の祭りを12月25日に定めたことを証する古代資料は一つもありません。その日付の*Dies Natalis Solis Invicti*(無敗の太陽の誕生日)が知られるのは、354年の年代記そのものによってのみであり、クリスマスの最初の証しと同じ年です。それがクリスマスより古いことを証明するものは何もありません[12]。12月25日はユリウス暦では冬至に当たり、最も長い夜の後に昼が再び長くなり始める時であるため、よみがえる太陽の象徴は格好のものでした。実際、354年の年代記は、その市民暦の部分で、12月25日に戦車競走を伴う*「Natalis Invicti」(無敗の者の誕生日)を記しています[13]。これが、その日付における無敗の者の誕生日*に関する古代唯一の証しであり、キリスト教の祝いと同時代のものであって、それより古いものではありません。
サートゥルナーリア祭と冬至
サートゥルナーリア祭も引き合いに出されます。12月17日から23日まで祝われたサートゥルヌスの祭りであり、宴会、贈り物、社会的秩序の陽気な逆転を特徴としました[14]。暦の近さが、ローマの祝祭の土台の上に築かれたキリスト教のクリスマスという考えを育んできました。
この学説が今日では弱体化している理由
魅力的ではあっても、借用説は、近年の歴史家たちが繰り返し指摘する深刻な反論に直面しています。
第一に、12月25日の選択を説明する古代キリスト教の著者のうち、サートゥルナーリア祭にも、太陽の祭りを取り戻そうとする意図にも触れている者は一人もいません[15]。教父たちがこの日付を正当化するとき、彼らが語るのは暦の計算、受胎、受難、春分と冬至であって、宣教上の便宜の計算では決してありません。
次に、歴史家スティーヴン・ハイマンスは、キリスト教以前に12月25日に定められた太陽の大きな祭りについての確かな証拠は存在しないことを示しました。その日を*「natalis Invicti」*と呼ぶ唯一のテクストは、まさにすでにキリスト教化した354年の年代記そのものであり、その言及が降誕の祝いより古いことや、より重要であることを証明するものは何もありません[16]。そもそも冬至の日付は古代において一定せず、12月25日に置かれることもあれば、別の日に置かれることもありました。
最後に、この理論の年代順は逆説的です。ローマ人がまず274年に太陽崇拝を創り、50年後にそれをキリスト教徒に譲り渡し、しかもその間、キリスト教徒に対抗してそれを守り続けたと想定するからであり、ハイマンスが指摘する矛盾です[17]。長く確立した事実のように紹介されてきた借用説は、こうして今日の研究では少数派であり、異論のある仮説となっています。
計算説:3月25日から12月25日へ
対抗する説明は**「計算」説**、すなわち「暦計算(comput)」説と呼ばれるもので、カトリックの歴史家ルイ・デュシェーヌが1889年にすでに提唱し[18]、典礼学者トマス・タリーが1986年にしっかりと再評価しました[19]。この説は異教から出発するのではなく、救いの時の整合性についてのキリスト教徒固有の確信から出発します。
「完全な生涯」:受胎の日と死の日が重なる
古代ユダヤ教と幾人かの教父の間で、一つの考えが広まっていました。偉大な義人たちは、その受胎または誕生の記念日に死ぬのであり、その生涯は完全な循環をなすという考えです[20]。キリストに当てはめると、この「完全な生涯」の直観は、キリストの死と受胎を同じ日付に結びつけます。そこで全ては、受難に与えられた日付にかかってきます。
テルトゥリアヌスとユリウス・アフリカヌス:3月25日の日付
ところが西方では、受難は3月25日に定められていました。テルトゥリアヌスは、198年から203年ごろ、「キリストは4月のカレンダエの8日前に苦しみを受けられた」、すなわち3月25日、双子のゲミニの執政官職の年に、と書いています[21]。一方、セクストゥス・ユリウス・アフリカヌスは、221年ごろに編んだ『年代記』の中で、キリストの受胎を3月25日に置き、その日を世界の創造の日であり春分の日でもあるとみなしました[22]。推論は明快になります。キリストが3月25日に受胎したのであれば、その誕生は9か月後の12月25日に当たります。これはまさに、今日、受胎告知の祝日(3月25日)とクリスマス(12月25日)の間に保たれている典礼上の間隔そのものです[23]。
東方では、同じ計算がわずかに異なる受難の日付、4月6日から出発し、1月6日に至りました。その日、公現祭は長く降誕をも含んでいました[24]。二つの伝統は、異なる復活祭の計算から出発しながら、同じ論理を適用しているのです。
| 伝統 | 受難/受胎の日付 | +9か月 | 降誕の祝い |
|---|---|---|---|
| 西方(ローマ) | 3月25日 | 12月25日 | クリスマス、12月25日 |
| 東方(アジア、エジプト) | 4月6日 | 1月6日 | 公現祭、1月6日 |
聖アウグスティヌス:受胎、受難、誕生
この論理の最も明示的な証人は聖アウグスティヌスです。5世紀初め、『三位一体論』の中で彼はこう書いています。
「キリストは3月25日に受胎し、その同じ日に苦しみを受けられたと信じられている。こうして、キリストがそのうちに受胎し、いかなる人間もそのうちに宿らなかった処女の胎は、いかなる者もそのうちに置かれたことのなかった新しい墓に対応する。キリストより前にも後にも、誰もそこに置かれたことはなかった。しかしキリストは、伝承によれば、12月25日にお生まれになった。」 聖アウグスティヌス『三位一体論』IV, 5[25]
アウグスティヌスはここで、受胎、死、誕生という三つの時を、一つの神学的構造の中に結びつけています。マリアの胎の処女性は墓の新しさに対応し、3月25日が12月25日を導くのです。その説明のどこにも、キリスト教化すべき太陽の祭りへの言及はありません。
『至点と分点について』:分点と至点
4世紀後半の北アフリカの匿名の論考『至点と分点について』(De solstitiis et aequinoctiis)は、この直観をさらに体系化しています[26]。聖書に基づいて、この論考は、洗者ヨハネは秋分に受胎し、夏至(6月24日)に生まれ、一方キリストは春分(3月25日)に受胎し、冬至(12月25日)に生まれたと主張します。太陽の四つの転換点、二つの分点と二つの至点が、こうして先駆者の神秘と救い主の神秘を囲むのです。太陽の象徴は確かに存在しますが、それが聖書の内側で読まれているのであって、外来の崇拝から借りられたものではありません。
霊的意味:キリスト、まことの「正義の太陽」
日付が計算に由来するにせよ、冬至にも応えていたにせよ、信仰にとって本質的なのは、その数字の物質的な起源ではなく、その意味です。教父たちは12月25日に見事なふさわしさを見ました。冬の最も深い時、夜が最も長く、光が敗れたかに見える時に、世のまことの光である方がお生まれになるのです。
「あの方は栄え、わたしは衰えなければなりません」
伝統はこの象徴を、聖洗者ヨハネのキリストについての言葉に結びつけています。
「あの方は栄え、わたしは衰えなければなりません。」 ヨハネによる福音書 3・30[27]
教父たちはそこに宇宙的なふさわしさを読みました。夏至に生まれたヨハネは、昼が短くなり始める時に現れ、冬至に生まれたキリストは、光が再び長くなり始める時に現れるのです[28]。先駆者は衰え、救い主は栄える。太陽のリズムそのものに至るまで、です。
正義の太陽
この解釈は、典礼がメシアに当てはめる旧約聖書の預言に根ざしています。
「しかし、わたしの名を畏れるあなたたちには、正義の太陽が昇る。その翼にはいやしがある。」 マラキ書 3・20(ウルガタと英語の聖書では4・2)[29]
キリストはまことの*「正義の太陽」(ウルガタでSol iustitiae*)であり、この称号は3世紀以来、ヒッポリュトス、アレクサンドリアのクレメンス、オリゲネスによって用いられてきました[30]。待降節の典礼は、今も12月21日の偉大な対唱「O Oriens」の中でこれを歌い、キリストを「暁の光、永遠の光の輝き、正義の太陽」として呼び求めます[31]。教会は太陽を異教から借りたのではありません。あらゆる星は、唯一のまことの太陽、すなわち肉となられたみ言葉の姿にすぎないと告げたのです。
聖レオ1世:被造物ではなく創造主を礼拝する
教父たち自身、混同の危険を十分に自覚していました。5世紀、聖レオ1世は、聖ペトロ大聖堂に入る前に振り返って昇る太陽に挨拶するローマの信徒たちを戒めなければなりませんでした。
「彼らは高い台地へ上る階段を上り終えると、体を転じて、昇る太陽に向かって身をかがめる。」 聖レオ1世『説教』27, 4[32]
別のクリスマスの説教で、レオ1世は、「この祭りの誉れは、キリストの誕生よりも、彼らによれば、新しい太陽の昇ることに由来する」と考える者たちを激しく非難しています[33]。教皇は太陽崇拝を取り戻しているのではありません。創造主と被造物を混同する誘惑と戦っているのであり、この祭りが星ではなくキリストをたたえるものであることを思い起こさせているのです。これは、公認された混合主義とは正反対です。
今日、何を考えるべきか
二つの学説、資料によって裁かれる
現在の研究の状況は、絶対的な一致はないものの、計算説、あるいは二つの論理の組み合わせへと明瞭に傾いています。その論拠は次のように要約できます。
| 基準 | 借用説(ソル・インヴィクトゥス) | 計算説(3月25日) |
|---|---|---|
| 学説の提唱者 | ウーゼナー(1889年)、フレイザー(1890年) | デュシェーヌ(1889年)、タリー(1986年) |
| その動機に言及する古代キリスト教資料 | なし | テルトゥリアヌス、アフリカヌス、アウグスティヌス、『至点と分点について』 |
| キリスト教以前の12月25日の太陽の祭りの証拠 | きわめて脆弱(ハイマンス) | 対象外 |
| 3月25日/受胎告知との整合性 | なし | 完全(9か月の間隔) |
| 現在の研究における位置 | 少数派、異論あり | 広く支持される |
議論が100パーセント決着したわけではないことを、率直に認めるべきです。歴史家の中には、二つの要因がともに働いたと考える者もいます。計算が日付を与え、太陽の象徴がその好機を強めたというのです[34]。しかし、いかなる場合にも、資料が「クリスマスは異教の祭りにすぎない」と断言することを許すものではありません。
ラッツィンガー枢機卿の判断:模写ではない神学的な日付
ヨーゼフ・ラッツィンガー枢機卿、後のベネディクト16世は、教理省長官であった当時、『典礼の精神』(ドイツ語原版2000年、フランス語版2001年)の中で、借用に関する古い理論を退けています。これは個人的な神学の著作であり、教権的行為ではありません。
「かつては、12月25日はミトラスの神話への対抗として、あるいは無敗の太陽の崇拝へのキリスト教の応答として発展したと言われていた。(…)しかし、これらの古い理論はもはや維持できない。決定的な要因は、創造と十字架、創造とキリストの受胎との結びつきであった。」 ヨーゼフ・ラッツィンガー枢機卿(後のベネディクト16世)『典礼の精神』(英語版からの翻訳。原典は注に引用)[35]
教会は12月25日を、イエスの誕生の正確な日についての歴史的教義とはしていません。教会はそこに、神学的に意味のある伝統的な日付を見ています。その日は待降節の待ち望む時の後に喜びの時を開き、受肉の中心的な神秘を祝います(『カトリック教会のカテキズム』522から526項)[36]。
イエスは本当に12月25日に生まれたのか
率直に言えば、私たちは知りません。福音書は日付を与えておらず、羊飼いたちが「冬に野外で群れを守ることはできなかったはずだ」(ルカ2・8)としばしば繰り返される議論は何も証明しません。ユダヤの冬は温暖であり、冬の放牧はそこで証しされているからです[37]。したがって、12月25日は天文学的な確実性ではありませんが、嘘でもありません。それは霊的な真実のために選ばれた日付であり、キリスト教の暦計算と、よみがえる光との出会いの点に位置しています。大切なのは星ではなく、星を昇らせた方です。12月25日は、その仕方で、クリスマスの本質を語っています。「光は暗闇の中で輝いている」(ヨハネ1・5)。
さらに知るために
- 待降節はなぜあるのか:クリスマスを準備する待望の時。
- 受肉を分かりやすく説明するには:降誕が祝う神秘。
- マリアはなぜ神の母と呼ばれるのか:クリスマスの中心にある神の母性。
- 復活祭の日付はなぜ変わるのか:キリスト教暦のもう一つの大きな日付。
- 公現祭:1月6日の祝い、東方の古い降誕祭。
- 旧約聖書におけるイエスを告げる預言:待ち望まれたメシア、正義の太陽。
注と参考文献
降誕の物語(ルカによる福音書2・1から20、マタイによる福音書1・18から2・12)は、イエスの誕生の日も月も記していない。新約聖書のいかなる書も日付を与えていない。Bible de Jérusalem、Cerf、Paris、1998年。
1354年の年代記(別名フィロカルスの暦)。書家フリウス・ディオニュシウス・フィロカルスが、キリスト教徒ワレンティヌスのためにローマで編んだ挿絵入りの暦。基準版:Theodor Mommsen『Chronica Minora saec. IV. V. VI. VII.』第1巻、Monumenta Germaniae Historica, Auctores Antiquissimi IX、Berlin、1892年。オンラインの紹介と翻訳:R. Pearse 編『The Chronography of 354』、tertullian.org。
2354年の年代記『殉教者安息日録』:「VIII Kal. Ian. natus Christus in Betleem Iudeae」。Mommsen『MGH Chronica Minora』第1巻(1892年)、71から72ページ。12月25日の降誕の祝いについての最も古い明示的な証し。
3 5基礎リストを336年ごろとする年代決定は、付属する司教の一覧(Depositio episcoporum)に基づく。その原形は354年に更新される前に336年のものであるように見える。そのため、この年はしばしばローマにおける祝いの*終限(terminus ad quem)*として引用される。C. P. E. Nothaft「The Origins of the Christmas Date: Some Recent Trends in Historical Research」『Church History』(Cambridge University Press)を参照。W. Simmons『Journal of the Evangelical Theological Society』58/2(2015年)、299から324ページ(336年のローマの証しは、12月25日の降誕についての争いのない最初の証拠として提示されている)。しかし、この推論にはなお議論がある。ハイマンス自身が、この推論だけでは日付の起源を決するには不十分であることを強調している(Nothaft、前掲論文を参照)。疑いのないのは、354年の写本による明示的な言及のみである(「VIII Kal. Ian. natus Christus in Betleem Iudeae」、Mommsen『MGH Chronica Minora』第1巻、71から72ページ)。
4ローマのヒッポリュトス『ダニエル書注解』IV, 23、204年ごろ。一部の写本には、キリストの誕生を「1月のカレンダエの8日前」(12月25日)とする言及がある。この箇所の真正性には議論がある。注釈または挿入である可能性がある。M. Lefèvre 編『Sources chrétiennes』14、Cerf、Paris、1947年。
6聖ヨハネス・クリュソストモス『我らの救い主イエス・キリストの誕生の日に関する説教』(In diem natalem D. N. Iesu Christi、CPG 4334)。12月25日にアンティオキアで語られ、一般に386年とされる(J. N. D. Kelly の年代決定、T. J. Talley が引き継ぐ)。386年から388年の間の正確な年代決定は専門家間でなお議論がある。Patrologia Graeca 49、351から362欄。
7この説教の中で、クリュソストモスは12月25日の祝いを、「西方に住む人々」の間では古くから知られ、アンティオキアに導入されてから10年もたっていないものとして紹介し、それがキリストの誕生の真の日付であることを立てる論拠によるものだとしている。PG 49、351から362欄。
8Hermann Usener『Das Weihnachtsfest(クリスマスの祝い)』、Bonn、1889年(第2版1911年)。クリスマスは太陽の異教の祭りに取って代わったとする、いわゆる「宗教史」説の創始者。
9James George Frazer『The Golden Bough(金枝篇)』、初版、London、Macmillan、1890年。引用箇所は抄訳版(Macmillan、1922年)、第XXXVII章「Oriental Religions in the West」、359ページによる。フレイザーはそこで、教父たちが祭りを1月6日から12月25日へ移したのはこの理由によるとするシリアの著者を引用しながら、教会が「正義の太陽」であるキリストへ異教の太陽への信心を移すために降誕を12月25日に定めたと主張している。
10皇帝アウレリアヌスは274年にSol(太陽)の国家崇拝を創設し、ローマのカンプス・マルティウスにその神殿を捧げた。他方、アウレリアヌスが12月25日に太陽の祭りを制定したことを証する古代資料はない。その日付のNatalis Invictiが知られるのは354年の年代記によってのみである。この崇拝について:『Historia Augusta』「アウレリアヌス伝」。Gaston H. Halsberghe『The Cult of Sol Invictus』、Brill、Leiden、1972年。354年以前の12月25日の祭りの証拠がないことについて:S. Hijmans「Sol Invictus, the Winter Solstice, and the Origins of Christmas」『Mouseion』47/3(2003年)、377から398ページ。T. J. Talley『The Origins of the Liturgical Year』、Pueblo、New York、1986年。
11Steven Hijmans「Sol Invictus, the Winter Solstice, and the Origins of Christmas」『Mouseion』第IIIシリーズ、第3巻(47/3号)、2003年、377から398ページ。ハイマンスは、キリスト教以前に12月25日に定められた太陽の祭りの証拠は存在せず、その日付のnatalis Invictiの唯一の証しは354年の年代記そのものに由来することを示している。
12 16その市民暦の部分(『殉教者安息日録』とは別の暦本体)において、354年の年代記は12月25日に「N·INVICTI · CM · XXX」、すなわち30回の戦車競走を伴うNatalis Invictiを記している。Mommsen『MGH Chronica Minora』第1巻(1892年)。
13サートゥルナーリア祭。12月17日から23日までローマで祝われたサートゥルヌスの祭りであり、宴会、贈り物の交換(sigillaria)、社会的役割の一時的な逆転を伴った。Macrobe『Saturnales』I, 7から10を参照。H. H. Scullard『Festivals and Ceremonies of the Roman Republic』、London、1981年。
14Andrew McGowan「How December 25 Became Christmas」『Bible Review』、2002年12月(『Biblical Archaeology Review』に再録)。マゴワンは、12月25日を正当化する古代キリスト教の著者のうち、サートゥルナーリア祭にも太陽の祭りを取り戻す計画にも触れている者はいないことを強調し、借用説が想定することと異なることを示している。
15Steven Hijmans、前掲論文『Mouseion』47/3(2003年)。借用説は、ローマが270年代に東方の新しい太陽崇拝を推進し、50年ほど後にそれをキリスト教徒に譲り渡し、しかもその間、キリスト教徒に対抗してそれを守ったと想定する点で矛盾している。
17Louis Duchesne『Origines du culte chrétien. Étude sur la liturgie latine avant Charlemagne』、Paris、Thorin et fils、1889年(1925年まで増補再版)、第VIII章。デュシェーヌは、キリストの受胎と死を3月25日に結びつけ、そこから12月25日の誕生を導く計算説を初めて提唱した。
18Thomas J. Talley『The Origins of the Liturgical Year』、Pueblo Publishing、New York、1986年(第2版 The Liturgical Press、Collegeville、1991年)。タリーは、西方と東方の復活祭の計算から出発して、計算の仮説を再評価し、精密化した。
19ユダヤ教と教父における「完全な生涯」の観念(預言者たちはその受胎または誕生の日に死ぬ)については、T. J. Talley『同書』91から99ページ、および A. McGowan、前掲論文を参照。この確信が、受難の日付を受胎の日付へ移すことを導いている。
20テルトゥリアヌス『ユダヤ人駁論』(Adversus Iudaeos)8、18節、198年から203年ごろ。テルトゥリアヌスはキリストの受難を、ユダヤの過越の時である3月、双子のGeminiの執政官職の年(29年)に定めている。ラテン語本文(抜粋):「[...] mense Martio temporibus paschae, die octavo Kalendarum Aprilium [...]」(すなわち3月25日)。『Corpus Christianorum, Series Latina』2所収。英語訳付きオンライン本文:bkv.unifr.ch(Bibliothek der Kirchenväter)および R. Pearse、tertullian.org。
21Sextus Julius Africanus『Chronographiae(年代記)』、221年ごろ、断片が保存されている。アフリカヌスはキリストの受胎を3月25日に置き、その日を世界の創造の日であり春分の日でもあるとみなした。誕生はそこから9か月後に導かれる。M. Wallraff 編『Iulius Africanus Chronographiae』、『Die Griechischen Christlichen Schriftsteller』N. F. 15、De Gruyter、Berlin、2007年。
229か月の間隔は、主の受胎告知の祭日(3月25日)とクリスマス(12月25日)の間の典礼暦に保たれている。『カトリック教会のカテキズム』484から486項(受胎告知と処女受胎)を参照。
23東方では、この計算は受難の日付を4月6日に定めることから出発し、そこから1月6日の誕生(公現祭)に至った。この祭りは東方諸教会で長く降誕をも含んでいた。T. J. Talley『The Origins of the Liturgical Year』、1986年、91から103ページを参照。
24聖アウグスティヌス『三位一体論』(De Trinitate)IV, 5、5世紀初め。ラテン語本文:「Octavo enim calendas aprilis conceptus creditur, quo et passus : [...] Natus autem traditur octavo calendas januarias.」。『Corpus Christianorum, Series Latina』50所収。フランス語訳『Bibliothèque augustinienne』15、Desclée de Brouwer、Paris。ラテン語本文オンライン:catholiclibrary.org(アウグスティヌス『三位一体論』)。英語訳:newadvent.org/fathers/130104.htm。
25『De solstitiis et aequinoctiis conceptionis et nativitatis Domini nostri Iesu Christi et Iohannis Baptistae』(CPL 2277)。4世紀後半の北アフリカの匿名の論考。聖書(ルカ1章、出エジプト23・16、ゼカリヤ8・19)から出発して、洗者ヨハネは秋と夏の転換点に受胎し生まれ、キリストは春(3月25日)と冬(12月25日)の転換点に受胎し生まれたと立てる。B. Botte 編『Les Origines de la Noël et de l'Épiphanie』、Louvain、1932年、93から105ページ。
26ヨハネによる福音書3・30。キリストについての洗者ヨハネの言葉:「Illum oportet crescere, me autem minui.」。典礼訳 AELF、aelf.org/bible/Jn/3。
27ヨハネ3・30を暦に結びつける至点の解釈(洗者ヨハネは夏至の6月24日に生まれ、キリストは冬至の12月25日に生まれた)は、『至点と分点について』(4世紀)で展開され、洗者ヨハネの誕生に関する説教の中で聖アウグスティヌスが引き継いでいる。B. Botte『Les Origines de la Noël et de l'Épiphanie』、1932年を参照。
28マラキ書3・20(ウルガタと英語の聖書の番号付けでは4・2)。ウルガタ本文:「orietur vobis timentibus nomen meum sol iustitiae, et sanitas in pennis eius」。キリスト教の伝統はそこにキリスト、「正義の太陽」の告知を読む。Bible de Jérusalem、Cerf、Paris、1998年。
29マラキ3・20から取られたキリスト論的称号「正義の太陽」(Sol iustitiae)は、3世紀以来、ヒッポリュトス、アレクサンドリアのクレメンス、オリゲネスによって用いられ、その後、ラテン教父(アンブロシウス、アウグスティヌス)の間で古典的なものとなった。M. Wallraff『Christus verus Sol. Sonnenverehrung und Christentum in der Spätantike』、Aschendorff、Münster、2001年を参照。
30待降節の典礼における12月21日の偉大な「O」の対唱:「O Oriens, splendor lucis aeternae et sol iustitiae : veni et illumina sedentes in tenebris et umbra mortis.」(「おお、暁の光よ、永遠の光の輝き、正義の太陽よ。来て、闇と死の陰に座る者たちを照らしてください。」)『ローマ・ミサ典礼書』と『聖務日課』、待降節。
31聖レオ1世『説教』27(In Nativitate Domini VII)、4、450年ごろ。レオは、聖ペトロ大聖堂の階段の頂上で振り返り、昇る太陽の前に身をかがめるローマのキリスト教徒たちを戒めている。ラテン語本文:「cum (...) gradus quibus ad suggestum areae superioris ascenditur, conscenderint, converso corpore ad nascentem se solem reflectant」。『Sources chrétiennes』22 bis。翻訳:newadvent.org/fathers/360327.htm。
32聖レオ1世『説教』22(In Nativitate Domini II)、6。この祭りの誉れは、キリストの誕生よりも、彼らによれば、新しい太陽の昇ることに由来すると考える者たちを非難している。『Sources chrétiennes』22 bis。翻訳:newadvent.org/fathers/360322.htm。
33数人の歴史家(例えば Susan K. Roll『Toward the Origins of Christmas』、Kok Pharos、Kampen、1995年)は、計算説と太陽の象徴が結びついた可能性があると考えている。暦計算が日付を定め、その日付が冬至と一致したことが、その射程を強めたというのである。しかし、異教の祭りからの単純な借用は、依然として証明されていない。
34Joseph Ratzinger『L'Esprit de la liturgie(典礼の精神)』、Genève、Ad Solem、2001年(ドイツ語原版『Der Geist der Liturgie』、Freiburg im Breisgau、Herder、2000年。英語訳『The Spirit of the Liturgy』、San Francisco、Ignatius Press、2000年、105から107ページ)。教理省長官による個人的な神学の著作であり、教権的行為ではない。クリスマスに関する箇所は、借用に関する「古い理論」(ミトラスの神話、無敗の太陽の崇拝)を退け、「決定的な要因」として、創造、十字架、キリストの受胎との結びつきを保持している。英語の逐語引用(107ページ):「The claim used to be made that December 25 developed in opposition to the Mithras myth, or as a Christian response to the cult of the unconquered sun promoted by Roman emperors in the third century in their efforts to establish a new imperial religion. ... However, these old theories can no longer be sustained. The decisive factor was the connection of creation and Cross, of creation and Christ's conception.」。本文のフランス語引用はその翻訳である。Ad Solem 版翻訳の正確な本文をページごとに検証できなかったため、そのように提示されている。
35『カトリック教会のカテキズム』522から526項(イエスの幼年時代の神秘、降誕とキリスト教生活におけるその意味)。524項は、クリスマスの祝いを準備する待降節の時について。
36ルカ2・8(「羊飼いたちが夜、野外で群れの見張りをしていた」)から引き出された反論は、それだけでは冬の日付を退けることを許さない。真冬の夜の放牧は、ベツレヘムの羊飼いの野で証しされているからである。聖書学者 Jack Finegan は、新約聖書の教授 Harry Mulder(当時ベイルート駐在)の1967年1月16日付の手紙をこう伝えている。Mulder はクリスマス・イブに現地に居合わせ、子羊を含む幾つもの群れがそこで草を食んでいた。そのため、イエスが12月に生まれることは決して不可能ではないと結論した。J. Finegan『Handbook of Biblical Chronology』第2版、569番、W. Hendriksen『New Testament Commentary: Matthew』、Baker、Grand Rapids、1973年、第1巻、182ページを引用、を参照。しばしば持ち出されるこの議論は、したがって12月25日に対する証明力を持たない。
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