天のために生きる人は、この世でもはるかに幸せである

キリストは弟子たちに「今の時代に百倍」を約束されます(マルコ 10, 30)。聖アウグスティヌスから聖アルフォンソ・デ・リグォリとカテキズムに至る、義人の幸福に関するカトリックの伝統は、聖人たちの一致した証言によって裏付けられています。

Ignispedia

キリストは弟子たちに明確な約束をなさいました。キリストに従う者は*「今の時代に百倍を受ける」*というのです[1]。カトリックの伝統はこの言葉を常に真剣に受け止めてきました。遠い比喩としてではなく、この生涯ですでに手の届く経験としてです。世の財の中に幸福を求めることをやめ、神のためだけに生きれば生きるほど、人はここで、今、実際に深く幸せになります。

この主張は単なる霊的な楽観主義ではありません。明確なキリスト教人間学に基づいています。人間の心は無限の善のために造られ、その善だけが心を満たすことができるのです。聖アウグスティヌスは有名な言葉でこれを要約しました。「わたしたちの心は、あなたのうちに安らうまで、不安です」[2]。この思想は聖ベルナルド、聖ヴィンセント・フェラー、聖ボナヴェントゥラ、聖トマス・アクィナスによって展開され、聖アルフォンソ・デ・リグォリの『死の準備』[3]に凝縮され、『カトリック教会のカテキズム』によって確認されています。「この[幸福への]望みは神に由来します。神は、人を、ご自分だけが満たすことのできるご自身へと引き寄せるために、この望みを人間の心に置かれたのです」[4]。

本稿はこの伝統をたどります。なぜ世は心を満たせないのか、なぜ*「悪人には平和がない」(イザヤ 48, 22)のか、神の平和がどのように「すべての思いを超える」*(フィリピ 4, 7)のかを示し、聖人たちの一致した証言を紹介します。踊るほどに幸せで、神に慰めを控えてくださるよう懇願するほどに幸せで、幸福のために眠れなくなるほどに幸せな聖人たちです。そこから、あまりに忘れられがちな真理を思い起こします。キリスト者の生活は幸福を後回しにすることではなく、永遠の至福がすでに目に見える形で始まることなのです。

福音における「今すぐ百倍」の約束

義人の幸福に関するカトリックの霊的教えは、3つの共観福音書(マタイ 19, 29、マルコ 10, 29-30、ルカ 18, 29-30)に伝えられる出来事に根ざしています。「百倍」という言葉はマルコとマタイにあり、ルカは「何倍も」(pollaplasiona)と書いています。*「わたしたちはすべてを捨ててあなたに従いました」*とペトロがキリストに語ったとき、イエスは答えられました。

「はっきり言っておく。わたしのため、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。」 — 聖マルコによる福音書 10, 29-30[5]

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この表現は印象的です。キリストは2つの異なる賜物を約束されます。*「後の世」における永遠の命と、「今の時代に」百倍(hekatontaplasiona nyn en tô kairô toutô)です。神に自分を委ねる人の幸福は、死まで保留されるのではありません。今の生活の中で、「迫害も受けながら」*始まります。これは、百倍が安易な物質的補償ではなく、別の次元の充実であることのしるしです。

伝統が文字どおりに受け止めた約束

『死の準備』の著者、聖アルフォンソ・デ・リグォリ。出典:Wikimedia Commons、パブリックドメイン。

教会の倫理霊性の師の一人である聖アルフォンソ・デ・リグォリ(1696-1787)は、この聖句に基づいて、義人の幸せな生活についての教えを展開しました。

「神が約束を忘れることがあるでしょうか。ご自分の愛のために世の財を捨てた人々に、この世ですでに、平和と喜びの百倍を与えるという約束を。」 — 聖アルフォンソ・デ・リグォリ『死の準備』第21考察[6]

伝統の一貫した解釈は、この約束の成就を、義人がこの世ですでに享受する*「平和と良心の安らぎ」*のうちに見ています[7]。聖トマス・アクィナスは『神学大全』で、完全な至福は天に保留されるものの、不完全な至福は、神を知り愛することによって、主に恵みと愛徳によって、この世ですでに可能であることを示しました[8]。この始まった至福は単なる道徳的な保証ではなく、神の命への実際の参加です。

百倍とは、物質的な財ではなく、平和と喜びと深さにおける百倍

約束された百倍は、霊的な投資に対する量的な見返りではありません。伝統は、聖アルフォンソに倣って、物質主義的な読み方を退けます。神のために家を捨てた人が100軒の家を受けるのではなく、比べものにならないほど大きなものを受けるのです[9]。百倍とは、平和、霊的な喜び、教会における兄弟的な交わり、神の内的な経験であり、捨てたものよりも本質的に優れた財です。

人間の無限の心と、有限な財のむなしさ

神のために生きることが人を幸せにする理由を理解するには、まず、なぜ世が心を満たせないのかを理解しなければなりません。これが根底にある人間学的な議論であり、聖書以来存在し、教父たちによって受け継がれ、聖トマス・アクィナスによって体系化され、聖アウグスティヌスと聖アルフォンソ・デ・リグォリによって広められました。

わたしたちは有限な財のために造られていない

議論は単純です。世の財、すなわち金、快楽、栄光、権力は、有限であり、魂の外にあります。一方、人間の心は無限の善、すなわち神ご自身のために造られています。有限な財をいくら積み重ねても、無限への望みを満たすことはできません。詩編の著者はこれを積極的に表現します。

「主を喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」 — 詩編 36 (37), 4[10]

聖アルフォンソはこう説明します。

「世は、そのすべての財をもってしても、人間の心を満たすことはできません。人間はこれらの財のためではなく、神のためだけに造られたからです。感覚の快楽のために造られた動物は、地上の物の中に満足を見いだします。馬に一握りの干し草を、犬に一切れの肉を与えれば、それで満足し、それ以上望みません。しかし、神を愛し、神との一致のうちに生きるためだけに造られた魂は、感覚の快楽をすべて持ったとしても、決してそこに安らぎを見いだすことはありません。神だけが魂を完全に満たすことができるのです。」 — 聖アルフォンソ・デ・リグォリ『死の準備』第21考察[11]

『カトリック教会のカテキズム』は、その冒頭でこの人間学を繰り返しています。

「神への望みは人間の心に刻まれています。人間は神によって、神のために造られたからです。神は人を絶えずご自身へと引き寄せておられます。人間が絶えず求めている真理と幸福を、人間が見いだすのは神においてだけです。」 — 『カトリック教会のカテキズム』 §27[12]

さらに、至福への招きに関する教えの中でも述べています。

「至福は、幸福への自然な望みに応えます。この望みは神に由来します。神は、人を、ご自分だけが満たすことのできるご自身へと引き寄せるために、この望みを人間の心に置かれたのです。」 — 『カトリック教会のカテキズム』 §1718[13]

この議論は道徳的な説教ではありません。形而上学的な議論です。魂は無限を受け入れる能力であるため、無限だけが魂を満たすことができるのです。

飽くことのない飢えの4つの姿

クレルヴォーの聖ベルナルドは、その名で伝えられてきた寓意的な物語(批判的研究によれば、おそらくオセールのジョフロワの作とされる。注参照)において、この不可能性を、聖アルフォンソが第21考察で取り上げた文学的な場面で描きました。語り手は、4つの根本的な悪徳に従って、*「大きな飢えに苦しむ」*さまざまな狂人に出会ったと語ります。

寓意的な姿表す悪徳空しく取り入れるもの
土で腹を満たそうとする人々貪欲物質的な富
空気で腹を膨らませようとする人々野心・虚しい栄光名誉、評判
炉の火花を吸い込もうとする人々復讐心、怒り復讐、恨み
臭い湖の水を飲もうとする人々不品行肉の快楽

そして聖人は彼らに向かって言いました。

「愚かな人々よ。飢えを鎮めるどころか、かえって飢えを刺激していることが分からないのか。」 — クレルヴォーの聖ベルナルドに帰せられる(聖アルフォンソが引用したテクスト)『Declamationes de colloquio Simonis cum Iesu』[14]

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この印象的なイメージは本質を語っています。幸福を間違った場所に求めれば求めるほど、欠乏は深まります。これはすべての罪人の経験そのものであり、アウグスティヌスの主張を否定的な側面から裏付けるものです。

聖ベルナルドは、格言となった短い言葉で結論を述べました。

「人は世の財で腹を膨らませることはできても、満たされることはありません。」 — クレルヴォーの聖ベルナルド『回心についての説教』第14章、26節[15]

貪欲と名誉の煙についての聖アウグスティヌス

聖アウグスティヌスは説教の中で同じことを指摘し、地上のあらゆる享受は、望みを鎮めるのではなく、かえって望みを養うことを示しました。

「貪欲は財宝を多く持てば持つほど、もっと多くを叫び求めます。」 — 聖アウグスティヌス『説教』50、第4章、6節[16]

この観察はすべての悪徳に当てはまります。蓄えれば蓄えるほど飢えます。楽しめば楽しむほど望みます。支配すれば支配するほど、失うことを恐れます。罪人は際限なく前へ逃げ続ける状態にあり、決して満たされません。

持っていない王国を嘆くアレクサンドロス大王

アレクサンドロス大王、ポンペイのファウヌスの家のモザイクの細部、紀元前100年ごろ。出典:Wikimedia Commons、パブリックドメイン。

ローマの歴史家ウァレリウス・マクシムス(1世紀)は有名な逸話を伝え、聖アルフォンソはそれを自分の議論に取り入れました。

世界が複数あるという話を聞いて、アレクサンドロスは、まだ1つの世界の征服さえ終えていないことを嘆き悲しんだ[17]。

このイメージは雄弁です。古代世界で最も強力な人、マケドニアからインダスにまで及ぶ帝国の主が、自分がまだ手に入れていないものの広大さの前で泣きました。すでに手に入れたものを確保することさえ終えていないにもかかわらずです。異教の知恵自体が、この物語を通して、所有によって人間の望みを満たすことの不可能性を認めていました。

ソロモンの意図せざる告白

聖書で最も印象的な証人はソロモンです。彼は自分の心が望む快楽を何一つ拒まなかったと自ら語ります。

「わたしの目が欲したものは、何一つ拒まなかった。」 — コヘレトの言葉 2, 10 (AELF)[18]

しかし、結論は同じ書物の第1章ですでに下されています。

「空の空、コヘレトは言う。空の空、すべては空である。」 — コヘレトの言葉 1, 2 (AELF)[19]

王ダビデにも同じイメージがあります。罪の状態では、彼の庭園、祝宴、宮廷が皆、一つの声で彼に答えました。「あなたの神はどこにいるのか」(詩編 41 (42), 4)[20]。聖アルフォンソはこの場面を言い換えます。「あなたはわたしたちの中に満足を見いだそうとしているが、わたしたちにはあなたを満たす力はない。あなたを満たすことのできる唯一のお方、あなたの神のもとへ行きなさい。」[21]

預言者ハガイはさらに強く言います。「食べても、満たされなかった」(ハガイ 1, 6)[22]。伝統は、15世紀のドミニコ会士、聖ヴィンセント・フェラーに、同じ考えを凝縮したイメージを帰しています。地上の財は魂の外にあるため、渇きの内的な座に届かない水のようなものである、というものです。これは聖アルフォンソの第21考察によって伝えられた言い換えであり、説教集の版(ヴェネツィア、1573年)の確認を待つため、直接の引用は取り下げられています[23]。

このイメージはよく語っています。渇きは内面にあります。渇いた人に差し出される水は、唇にとどまり、欠乏が感じられる場所には届きません。同様に、世の財は外にとどまり、心の奥まで入り込むことはありません。レバノンの隠修士で1977年に列聖された聖シャルベル・マクルーフ(1828-1898)は、同じ精神で繰り返し語りました。要するに、わたしたちの幸福は人間からは来ません。人間は幸福を持っておらず、持っていないものを与えることはできないからです。幸福はイエスだけから来ます(『聖シャルベルの言葉』説教2の一節の忠実な言い換え)[24]。

「悪人には平和がない」

以上の人間学には否定的な帰結があります。幸福がありえない場所に幸福を求める限り、人は根本的に不安であり続けます。聖書と伝統は、この不安を4通りに語ります。平和の欠如、良心の呵責、条件付きの喜びのはかなさ、そして荒れる海のイメージです。

条件付きでつかの間の平和

罪人、あるいはより広く言えば、神を人生の目的としていない人は、快楽や満足を知ることはできても、その平和は外部の条件に依存します。健康、仕事、銀行口座、評判、悲劇がないことなどです。聖アルフォンソは印象的なイメージでこれを解剖します。

「音楽と踊りと飲み物のある楽しみの場に誰かを連れて行き、そこで足でつるして頭を下に向けさせたら、その人は一瞬でも楽しめるでしょうか。魂が混乱している人は、そのようです。世の財に満たされているとしても、神を失った人は、そのようです。食べ、飲み、踊り、優雅に豊かな服を着て、名誉を受け、この地位を得、あの財産を手に入れるでしょう。しかし、平和は決して得られません。」 — 聖アルフォンソ・デ・リグォリ『死の準備』第21考察[25]

財産の喪失、解雇、病気、車の小さな傷一つで、建物は崩れます。状況に依存する平和は平和ではありません。不安定な均衡であり、遅かれ早かれ、死がその基盤を溶かしてしまうでしょう。

聖アルフォンソは、苛立った罪人の生理的な肖像をそこから描きます。

「罪人は、豊かに着飾り、指に貴重なダイヤモンドをはめ、おいしい祝宴を楽しんでも、その貧しい心には茨と胆汁しかありません。そのため、すべての富、快楽、娯楽をもってしても、絶え間ない不安にさいなまれ、わずかな矛盾でも、怒り、激怒し、狂った犬のようになってしまいます。」 — 聖アルフォンソ・デ・リグォリ『死の準備』第21考察[26]

この観察はよく語っています。内的な平和が欠ければ欠けるほど、わずかな苛立ち、一言、遅れ、壊れた物が、不釣り合いな反応を引き起こします。魂が神と調和していないとき、苛立ちは増します。これは怒りっぽいすべての人の日常的な経験です。ここでは道徳的な例として当てはまり、特定の人の反応に対する「正確な霊的診断」として当てはまるものではありません。

良心の呵責、容赦ない虫

この不安の第2の顔は内面にあります。道徳的な良心は、抑えつけられていない限り、魂にその無秩序を知らせます。聖アルフォンソは、長い教父の伝統に従って、*「容赦ない虫」*について語ります。

「罪は、良心の呵責を引き連れています。心をかじり続ける、この容赦ない虫です。」 — 聖アルフォンソ・デ・リグォリ『死の準備』第21考察[27]

良心は黙らされ、そらされ、騒音や日常によって麻痺させられることはありますが、深い不快感のつぶやきは消えません。多くの人々は、この呵責から逃れるために自ら命を絶つところまで行く、と聖アルフォンソは観察します。古代の人々の中から、絶望して首をつったユダ[28]と、ヨハネス・モスコスの『霊の牧場』にある、良心を黙らせるために自ら囚人となった犯罪者の物語[29]を挙げています。聖書の診断は簡潔です。

「荒廃と不幸が彼らの道にあり、平和の道を彼らは知らなかった。」 — イザヤ書 59, 7-8[30]、聖パウロが『ローマの信徒への手紙』3, 16-17 で取り上げた

荒れる海という聖書のイメージ

最も印象的な比喩は、イザヤの比喩です。神を失った魂は、静まることのできない海にたとえられます。

「しかし、悪人は、静まることのできない荒れる海のようであり、その水は泥と汚物をかき混ぜる。」 — イザヤ書 57, 20 (AELF)[31]

このイメージは的確です。嵐の海は命令では静まりません。海を乱しているのは意志ではなく、風に持ち上げられたその性質です。同様に、情熱に身を委ねた魂は、自分の気分を支配できません。出来事、出会い、失望があれば、魂を騒動に投げ込むのに十分です。そして、この絶え間ない揺れとの対比によって、穏やかな日の山の湖にもたとえられる、聖人たちの驚くべき安定が理解できるでしょう。

イザヤ 48, 22 の短い宣言

聖書の診断全体は、イザヤ書で2回繰り返される簡潔な言葉(48, 22 と 57, 21)に要約されます。

「悪人には平和がない、と主は言われる。」 — イザヤ書 48, 22[32]

これは、聖アルフォンソ・デ・リグォリが第21考察の冒頭に置いた言葉です。これは神が宣告した呪いではありません。人間学的な事実確認です。悪人は、平和が生まれる根を断ち切ったため、平和を持つことができません。

神を愛する魂の平和

不安が、神の外に幸福を求める人の運命であるなら、深く持続する平和は、神に向かう人の運命です。この平和はもはや状況に依存せず、別の源から来ます。これは聖アウグスティヌスの印象的な経験であり、聖パウロの明確な約束です。

「わたしたちの心は、あなたのうちに安らうまで、不安です」

仕事場の聖アウグスティヌス、サンドロ・ボッティチェリ、1480年ごろ。出典:Wikimedia Commons、パブリックドメイン。

『告白』の冒頭で、聖アウグスティヌスはすべての回心の経験を一文で表現しました。

「あなたは、わたしたちがあなたを賛美することを喜ぶよう、わたしたちを駆り立てられます。あなたはわたしたちをあなたに向けて造られたからです。わたしたちの心は、あなたのうちに安らうまで、不安です。」 — 聖アウグスティヌス『告白』第1巻、第1章[33]

これが彼の経験全体の鍵です。彼は快楽、野心、哲学の学派の中で何年も過ごし、恵みに身を委ねたときに初めて平和を見いだしました。聖アルフォンソは、アウグスティヌスが発見したことを、自分の言葉で要約します。

「わが神よ、今わたしには分かります。すべては空であり、すべては心の苦しみです。あなただけが魂の真の安らぎです。」 — 聖アウグスティヌスを要約した聖アルフォンソ・デ・リグォリ『死の準備』第21考察[34]

そして彼は、キリスト教霊性の主要な言葉となった忠告を述べるに至ります。

「哀れな被造物よ、なぜあらゆる種類の財を求めてさまようのか。すべての財がそのうちにある、唯一の善を求めなさい。」 — 聖アウグスティヌスに帰せられる『Manuale』第34章[35]

すべての財を含む唯一の善、これが聖書の神に対するアウグスティヌスの表現です。それを見いだした者は、すべてを見いだしました。これは聖アウグスティヌスの言葉の意味です。「富者が愛徳を持たなければ、何を持っているのでしょうか。そして、貧しい人が愛徳を持てば、何が不足しているのでしょうか。」[36]

「疲れた者、重荷を負う者は、わたしのもとに来なさい」

満たすことのない有限な財の圧力と、絶えることのない不安に対して、キリストは明確な招きをもって応えられます。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」 — 聖マタイによる福音書 11, 28[37]

聖アルフォンソはこれを第21考察の軸とします。「では、わたしたちはまだ何を求めているのでしょうか。わたしたちを呼んでおられるイエス・キリストのもとへ行きましょう。」[38] この約束は終末論的なものだけではありません。「休ませてあげよう」(kagō anapaúsō hymas)は未来形であり、約束の未来で、期限は明示されていません。ギリシャ語の動詞は、積極的に安らぎを与えることを指します。この聖句の上に、聖心の霊性は後にその聖書的基盤の一つを見いだすでしょう。

すべての思いを超える平和

聖パウロは、牢獄からフィリピのキリスト者へ手紙を書き、別の次元の平和について語ります。

「そして、すべての思いを超える神の平和が、キリスト・イエスにおいて、あなたがたの心と思いを守るでしょう。」 — フィリピの信徒への手紙 4, 7[39]

ギリシャ語の表現(hyperéchousa panta noun)は、この平和が通常の範疇では測れないことを示しています。これは困難の欠如ではありません(パウロは牢屋から書いています)。これは内的な賜物であり、状況から独立しています。聖アルフォンソは、パウロを言い換えて、その具体的な意味を与えます。

「神を愛する魂の平和は、何という平和でしょうか。その魂は神ご自身の平和を味わうからです。その平和はすべての思いを超えます。すなわち、感覚と世が与えることのできるすべての快楽と満足を超えます。」 — 聖アルフォンソ・デ・リグォリ『死の準備』第21考察[40]

今日手の届く、天の前味

この平和は、財の中の一つではありません。永遠の至福の前味です。聖トマス・アクィナスは、至福は本質的には神を見ることにあり、それは天で完全なものとなると説明します。しかし、*「始まった至福」は、「栄光の始まり」*である恵みによって、この世ですでに与えられています[41]。詩編の著者は、それを体験するよう招きます。

「味わい、見よ、主の恵み深さを。主を頼みとする人は、いかに幸いなことか。」 — 詩編 33, 9[42]

個人的な経験が、その最も直接的な証拠です。味わったことのない人は理解が難しく、味わった人はもはや説得を必要としません。キリスト者の生活の大部分は、この*「味わい、見よ」*の上に成り立っています。外部の議論だけではなく、神との実際の接触の上に成り立っています。これは、それを信じるに足る合理的な理由をなくすものではなく、その理由は理性的な探究が別途確立します(聖トマス、II-II、q. 45、a. 2、認識の様式について参照)。

聖人たちの目に見える幸福

神学的な議論は、聖人たちを観察することによって、最終的な試練を受けます。聖人たちは神話の英雄ではありませんが、その生涯の記録のされ方は一様ではありません。自伝的な著作(アビラのテレジア、ファウスティナ)、列聖調査で集められた証言(フィリポ・ネリ)、そして時にはかなり後の伝記(1582年のリスボンのマルク、1594-1606年のトルセリーニ、1686年のバッチ、1681年のバルトリ、1725年のガルッツィ)があり、ここでは聖アルフォンソの第21考察を通して伝えられています。彼らは皆、外部の状況に釣り合わない喜びを証言しており、数人は印象的な言葉でそれを語っています。

アッシジの聖フランシスコと喜びに満ちた貧しさ

聖痕を受ける聖フランシスコ、ジョット、1295-1300年。出典:Wikimedia Commons、パブリックドメイン。

アッシジのフランシスコ(1181-1226)は、自らの選択ですべてを捨て、はだしで歩き、施しで暮らし、石の上で眠りました。しかし、フランシスコ会の伝統は、彼を喜びにあふれた人として描きます。聖アルフォンソは第21考察で、リスボンのマルクとその『小兄弟会年代記』(ヴェネツィア、1582年)を引用しています。これは直接参照されていない古い版です。

「『わが神、わがすべてよ』と叫ぶだけで、彼は天国の喜びを味わいました。」 — リスボンのマルク『小兄弟会年代記』第1巻、第8章[43]

「Deus meus et omnia」(「わが神、わがすべて」)という言葉は、カトリック霊性で最も有名な射祷の一つとなります。射祷とは、心の弾みで神に向けて放たれる短い祈りです。この言葉は、4つの単語でアウグスティヌスの人間学全体を語ります。神がわたしのすべてであるなら、わたしは他に何も必要とせず、したがって、最も極端な貧しさでも、わたしから本質的なものは何も奪われません。

聖フィリポ・ネリと、眠りが逃げる夜

聖フィリポ・ネリ、カルロ・ドルチ、1645-1646年。出典:Wikimedia Commons、CC0 / Metropolitan Museum of Art。

ローマのオラトリオ会の創立者である聖フィリポ・ネリ(1515-1595)は、教会史上最も喜びに満ちた聖人の一人です。彼の伝記作者の一人、ピエトロ・ジャコモ・バッチは、1686年にボローニャで出版された『生涯』(直接参照されていない著作で、ここでは聖アルフォンソの第21考察に従って引用)の中で、印象的な現象を伝えています。聖人は、そのような霊的慰めを受けたため、夜、眠ることができなくなりました。

「聖フィリポ・ネリは神からそのように豊かな慰めを受けたため、夜、眠ることができず、『わがイエスよ、どうか少し眠らせてください』と叫ぶことがありました。」 — G. バッチ『Vita di S. Filippo Neri fiorentino』第2巻、第5章[44]

さらに有名なのは、1544年の聖霊降臨の前夜の出来事です。28歳のとき(1515年7月21日生まれのため29年目)、ローマの聖セバスティアーノのカタコンベで祈っていたフィリポは、自分自身が後に火の球が胸に降りてくるように感じたと述べる経験をしました。この現象は列聖調査の証人によって証言されています。伝記の伝統によれば、そのとき心臓が持続的に拡張し、心臓の上の2本の肋骨が折れたとされています[45]。

聖フランシスコ・ボルジアと、眠りを妨げる喜び

イエズス会の第3代総長で、元ガンディア公である聖フランシスコ・ボルジア(1510-1572)について、聖アルフォンソが取り上げた伝記作者ダニエロ・バルトリは、旅の途中で厩舎の藁の上で眠らなければならなくなったとき、彼は目を閉じることができないほどの喜びを経験したと伝えています。

「修道者となり、旅の途中で寝床としてわずかな藁しか見つけられなくなった聖フランシスコ・ボルジアは、それでも、幸福のために眠れないほどの喜びを経験しました。」 — D. バルトリ『Della vita di S. Francesco Borgia』第4巻、第7章[46]

この観察は、ボルジアにおいて他の多くの人々よりもさらに印象的です。回心前、彼はスペインの皇帝の宮廷のあらゆる贅沢を知っていたからです。したがって、両方の境遇を知った人にとって、この対比は雄弁です。宿屋の藁は、宮殿の絹のクッションよりも大きな喜びを彼にもたらします。これは、何について語っているかを知っている人の霊的な比較であり、測定器による測定ではありません。

聖フランシスコ・ザビエルと「主よ、もう十分です」

インドと日本の宣教師である聖フランシスコ・ザビエル(1506-1552)は、過酷な状況の中で暮らしました。強行軍、灼熱の気候、迫害、孤独です。しかし、聖アルフォンソが伝記作者オラツィオ・トルセリーニ(『生涯』、ミラノ、1606年出版、直接参照されていない古い版)に従って伝える物語によれば、彼には雄弁な振る舞いがあったとされています。

「インドの広大な平原の真ん中で、彼は胸をはだけて神に言いました。『主よ、もう十分です。あなたの慰めを控えてください。わたしの心はそれ以上に耐えることができません。』」 — O. トルセリーニ『Vita del B. Francesco Saverio』第6巻、第5章[47]

これは、異教的で物質主義的な想像力の完全な逆転です。ポルトガル帝国で最も不幸であるはずの人、疲れ果て、病み、孤立した人が、恵みが多すぎるため、それを止めてくださるよう神に懇願します。聖性は欠乏ではなく、あふれ出しです。

イエズス会士となった公子、ロレーヌのシャルル神父と、その小部屋で踊る姿

次の逸話はあまり知られていませんが、同じように雄弁です。ロレーヌ公爵家の公子として生まれたシャルル・ド・ロレーヌは、イエズス会に入り、宮廷から小部屋へ移りました。聖アルフォンソがパトリニャーニ神父(『Menologio』、ヴェネツィア、1730年)とガルッツィ神父(『Vita del P. Carlo di Lorena』、ローマ、1725年)に従って伝える物語によれば、どちらも直接参照されていない古い版ですが、彼は霊的な喜びの影響で、自分の小部屋で踊り始めることがありました。

「公子からイエズス会士となったロレーヌのシャルル神父は、貧しい小部屋で、満ち足りて踊り始めることがありました。」 — F. ガルッツィ『Vita del P. Carlo di Lorena』40頁[48]

アビラの聖テレジアと、一滴に含まれる大洋

『聖テレジアの法悦』、ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ、サンタ・マリア・デラ・ヴィットーリア教会、ローマ。写真:Alvesgaspar、Wikimedia Commons、CC BY-SA 4.0。

教会博士であるアビラの聖テレジア(1515-1582)は、おそらく神の友の幸福について最も正確な証人です。彼女は自伝の中で、神の慰めの一つと、人間の快楽の総和との間の根本的な不釣り合いを述べています。

「天の慰めの一滴は、世のすべての快楽と娯楽よりも大きな喜びを与えます。」 — アビラの聖テレジア『生涯の書』第27章、12節より、聖アルフォンソが伝えた言い換えによる[49]

別の箇所で、彼女はこの一滴を、*「すべての財がそのうちに含まれる広大な大洋」*の一片として述べています[50]。これが決定的な表現です。「霊的な慰め」と呼ばれるものは、至福そのものではありません。その一滴にすぎません。しかし、その一滴がすでに、世全体が与えることのできるすべてを超えています。不釣り合いは、比べものにならないほどです。

現代の聖人たち:ファウスティナ、フラッサーティ、シャルベル

この証言は、昔の時代だけのものではありません。20世紀の聖人たちは、より分かりやすい言葉で同じことを証言しています。

聖ファウスティナ・コワルスカ(1905-1938)、神の慈しみの使徒は、『日記』の中でこう表現しています。

「わたしの魂は、神を味わったため、神なしでは生きることができません。魂の最も大きな渇きの中で、祭壇の足元で過ごした1時間は、世における100年の喜びよりもわたしにとって心地よいものです。わたしは、世の女王であるよりも、修道院で取るに足らない苦しみの種であることを望みます。」 — 聖ファウスティナ・コワルスカ『日記』§254[51]

2025年9月7日にレオ14世によって列聖されたトリノの青年、聖ピエル・ジョルジョ・フラッサーティ(1901-1925)は、1923年7月29日のポッローネのカトリック青年の集いでの演説で述べました。

「真の幸福は、世俗的な快楽や地上の物の中にあるのではなく、良心の平和の中にあります。わたしたちが心と精神において清いときにだけ、わたしたちはそれを持つことができます。」 — 聖ピエル・ジョルジョ・フラッサーティ、1923年7月29日、ポッローネのカトリック青年への演説[52]

そして、世が真の幸福を与えることができないことについての教えが先ほど思い起こされた聖シャルベル・マクルーフは、同じ何世紀にもわたる経験をこう繰り返しました。イエスだけが幸福を与えます。イエスだけがそれを持っているからです[53]。

十字架の中心における喜び

手ごわい反論が残ります。聖人たちが苦しむときはどうでしょうか。実際、彼らは苦しみます。火刑のジャンヌ・ダルク、日本のフランシスコ・ザビエル、アウシュヴィッツのマキシミリアノ・コルベ、24歳で急激なポリオで亡くなったピエル・ジョルジョ・フラッサーティ。しかし、伝記作者たちの一致した経験は、喜びは苦しみの中でも消えず、かえって苦しみの中で深まるというものです。聖ボナヴェントゥラ(1221-1274)は、そのイメージを定めました。

「蜂蜜のように、神の愛は、最も苦いものを甘く心地よいものにします。」 — 聖ボナヴェントゥラ『Vitis mystica』第44章、付加6、154節[54]

このイメージは正確です。蜂蜜は薬の苦味を取り除くのではなく、全体が望ましくなるまで、苦味を和らげます。聖パウロは、これを印象的な人間学的な言葉で表現します。「わたしは、苦難の中で喜びにあふれています」(コリント二 7, 4)、「今の時の軽い苦難は、比べものにならないほど重い永遠の栄光を、わたしたちにもたらします」(コリント二 4, 17)。したがって、キリストが約束された「百倍」には、逆説的ですが、愛をもって担う十字架さえも含まれます。十字架はそれ自体が喜びの源となります。

この喜びは、感じられる慰めがなくても存続します。魂は、真剣に祈りたいと望む人々についてカテキズムが述べるように、渇きの中でも忠実であり続け、神と一致し続けることができます[55]。ファウスティナ自身の言葉がそれを示しています。「魂の最も大きな渇きの中で、祭壇の足元で過ごした1時間は、世における100年の喜びよりもわたしにとって心地よいものです」。したがって、キリストの約束は霊的な夜によって否定されるのではなく、感情ではなく忠実さにおいて、別の形で検証されるのです。

罪人たちの欠陥のある判断

これまでの主張に対する一般的な反論は、主観的なものです。「霊的な生活は悲しそうに見える」、「信者は退屈そうだ」、*「犠牲しかない」*というものです。この反論は非常に古くからあります。クレルヴォーの聖ベルナルドは、決定的なイメージでこれを扱いました。

「彼らは十字架を見るが、塗油を見ない」

「多くの人々が十字架を嫌い、苦行から逃げる理由はここにあります。彼らは十字架は見ても、塗油を見ないからです。」 — クレルヴォーの聖ベルナルド『教会の献堂についての説教1』5節[56]

このイメージは洗礼と堅信に由来します。聖なる香油を塗られた信者にとって、十字架は香りのよい油の塗油と結びついています。罪人は、霊的な生活を外から観察するため、犠牲(「十字架」)だけを知覚し、それらを耐えられるだけでなく望ましいものにする内的な喜び(「塗油」)を知覚しません。その判断は、現象の目に見える半分だけに基づいているため、必然的にゆがんでいます。

避けられない実験的な議論

だからこそ、決定的な議論は弁証法的なものだけではなく、実験的なものでもあります。推論だけでは、味わったことのない人を納得させることは困難です。十分に理解するには、味わうことも必要です。

「味わい、見よ、主の恵み深さを。」 — 詩編 33, 9[57]

聖アルフォンソは、そこから司牧的な結論を引き出します。

「ああ、彼らが、神だけを望む魂が享受する平和を味わうことができれば。[…]それを経験したことのない人は、神がご自分を愛する魂をどれほど喜びで満たすことができるかを理解できません。」 — 聖アルフォンソ・デ・リグォリ『死の準備』第21考察(第3点の離れた2つの文を、切り取りを明示してここにまとめたもの)[58]

ここで gustate(「味わいなさい」)という動詞は専門的な意味を持ちます。思弁的な知識とは異なる、内的な経験による知識を指します。聖トマスはこれを聖霊の*「知恵の賜物」と同一視します。この賜物は、音楽家が、計算ではなく、培われた習慣によって間違った音を認識するように、神的な事柄を「同質性によって」*、すなわち内側から知らせます[59]。

「霊的な生活は退屈だ」という反論

この反論は、今日、支配的な文化によって広く繰り返されているため、明確な回答に値します。3つの要素がこれに応えます。

  1. この反論は、外からは検証できません。 聖ベルナルドが言ったように、人は十字架は見ても塗油を見ません。聖人が何を生きているかを知るには、聖人本人になるか、自分自身が聖人のように生き始める必要があります。

  2. この反論は、確立された歴史的な証言と矛盾します。 世から神へ移った数人の聖人は、逆のことを証言しています。『告白』のアウグスティヌスや、その伝記作者によるボルジアは、すべてを持っていたときよりも、神だけを保ったときの方が喜びに満ちていました。他の人物(イグナチオ、アンニーバレ・マリア・ディ・フランチア、フラッサーティ)については、そのように明確な比較の証言はまだ確立されていません。したがって、この主張は、実際に記録された事例に限られます。

  3. この反論は、キリストの明確な約束と対峙させることで有益です。 マルコ 10, 29-30 は、弟子が永遠の命を持つことだけを述べているのではなく、*「今の時代に百倍を受ける」*ことを述べています。霊的な生活を退屈だと感じることは、判断する前に味わうよう招く、現実の困難です。それ自体はイエスの言葉の拒否ではなく、読者の困難が示していない、キリストへの反対を読者に帰するべきではありません。

教会の教義:幸福への望みから、始まった至福へ

聖トマス・アクィナス、カルロ・クリヴェッリ、1476年。出典:Wikimedia Commons、パブリックドメイン。

教会は、この伝統を公式の教えの中に集め、体系化しました。『カトリック教会のカテキズム』は、その第3部全体を*「人間の招き:霊における生活」*に捧げており、それは幸福への自然な望みから始まります。

福音の至福

キリストは山上の説教を、すべて*「幸いである」*(makarioi)で始まる9つの文で開始されました。これは山上の説教の最初の言葉であり、彼の公的な教え全体の最初の言葉ではありません。彼の宣教はすでにマタイ 4, 17 に伝えられているからです。これは一つのプログラム全体です。キリスト者の生活は、初めから幸せな生活として定義されています。カテキズムは、これをすべてのキリスト教倫理の母体と見ています。

「至福は、イエスの宣教の中心にあります。その告知は、アブラハム以来、選ばれた民になされた約束を取り上げます。それは、その約束を、もはや土地の享受だけにではなく、天の国に向けることによって、その約束を成就します。」 — 『カトリック教会のカテキズム』 §1716[60]

したがって、至福は、十戒に加えられた厳しい倫理規則ではありません。キリストに従う人々に今から提供される真の幸福の記述です。逆説的な幸福(貧しい人々、悲しむ人々、迫害される人々が幸いであると宣言されます)ですが、キリストご自身によって保証された真の幸福です。

幸福への望み、至福への招き

カテキズムは続けて、この望みが、矯正すべき弱さではなく、尊重すべき招きであることを示します。

「至福は、幸福への自然な望みに応えます。この望みは神に由来します。神は、人を、ご自分だけが満たすことのできるご自身へと引き寄せるために、この望みを人間の心に置かれたのです。」 — 『カトリック教会のカテキズム』 §1718[61]

さらに次のように述べます。

「至福は、神がわたしたちを呼んでおられる究極の目的をわたしたちに教えます。国、神を見ること、神の性質にあずかること、永遠の命、子であること、神のうちに安らうことです。」 — 『カトリック教会のカテキズム』 §1726[62]

このように教導職は、霊的な伝統を一つ一つ裏付けています。幸福への望みがあり、それは神から来て、神ご自身を目指しています。他のあらゆる道は、人間学的に失敗する運命にあります。

聖トマス・アクィナス:ここでは恵み、後には栄光

聖トマス・アクィナスは、『神学大全』でこの教義を要約しました。完全な至福は、神ご自身を直接、顔と顔を合わせて、天で見ることにあります。これは神学者たちが「神の本質の直観」と呼ぶものです。これが*「本質的な至福」です。しかし、「始まった至福」*(beatitudo inchoata)は、栄光の芽である聖化の恵みによって、この世ですでに与えられています。

「恵みは、わたしたちのうちにある栄光の始まりにほかなりません。」 — 聖トマス・アクィナス『神学大全』II-II、q. 24、a. 3、ad 2[63]

彼は I-II、q. 3 でさらに詳しく述べます。この世で持つことのできる不完全な至福は、第一に、そして主には観想にあり、第二に、人間の行為と情熱を整える実践的な知性の働きにあります(a. 5 の忠実な要約であり、逐語的な引用ではありません)[64]。

聖トマスにとって、この始まった至福は現実のものであり、単に道徳的あるいは比喩的なものではありません。これは恵みの生活の実りであり、聖人たちはその明らかな模範です。

今日から天のために生きる:古典的な手段

聖体礼拝:神の平和を味わうために聖アルフォンソが勧める実践的な手段の一つ。出典:Wikimedia Commons、CC BY-SA 3.0。

これまでの主張が真実であるなら、すなわち、神のために生きることが、この世ですでに人を実際に幸せにするなら、実践的な問いはすぐに生じます。どのように始めるかという問いです。カトリックの伝統は、昔から、単純で手の届く道を示してきました。

聖アルフォンソ・デ・リグォリは、第21考察の終わりで、4つの実践的な指示を与えています。

「あなたは、わが兄弟よ、これからは毎日黙想し、頻繁に聖体を受け、聖体を訪問し、神と共に生きるために世を離れ始めなさい。そうすれば、神と語り合う短い時間の中でさえ、神は、世がそのすべての快楽によってあなたに与えたものよりも大きな慰めを、あなたに感じさせてくださるでしょう。」 — 聖アルフォンソ・デ・リグォリ『死の準備』第21考察[65]

したがって、4つの手段があります。

  1. 毎日の黙想、すなわち、定期的な観想の祈り、*「神と語り合う短い時間」*です。
  2. 頻繁な聖体拝領、キリストとの実際の一致を実現します。
  3. 聖体の礼拝、聖体拝領の静かな延長です。
  4. 世からの漸進的な離脱、すなわち、心を神のために解放する単純な修徳です。

これらの手段に、すべてのカテキズムが思い起こさせる手段が加わります。良心の平和を取り戻す定期的な告解、完全な秘跡生活、イエスの言葉によれば、神への愛と切り離せない双子である隣人への愛徳、そして、魂を主に向けて保つ毎日の良心の糾明です。聖人たちはこれらを厳密に用いました。聖人たちが聖人となったのは、特別な技法によってではなく、これらの手段によってです。

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さらに進むために

注と参考文献

  1. 聖マルコによる福音書 10, 29-30 — 逐語的に確認された一節(公式典礼訳、AELF)。共観福音書の並行箇所も参照:マタイ 19, 29 とルカ 18, 29-30。

    1 5
  2. 聖アウグスティヌス『告白』第1巻、第1章、1節。PL 32, 661。E. Tréhorel と G. Bouissou の翻訳、『Bibliothèque augustinienne』(BA)第13巻、Desclée de Brouwer、273頁。ラテン語原文:「Fecisti nos ad te et inquietum est cor nostrum donec requiescat in te.」

    2
  3. 聖アルフォンソ・デ・リグォリ『死の準備』第21考察:「罪人の不幸な生活と義人の幸せな生活」。イタリア語原著:『Apparecchio alla morte』、ナポリ、1758年。本稿で引用されたすべての一節(馬と犬、足でつるされた魂、ダイヤモンド、呵責の虫、百倍、ダビデ、アウグスティヌス、テレジア、ネリ、ボルジア、ザビエル、ロレーヌ、パウロの平和、手段、味わうこと)は、Lucien Callewaert 神父 C.SS.R. が注釈を付けたフランス語版(『Opere ascetiche』第IX巻、ローマ、1965年、Oreste Gregorio 神父による注に基づく。第21考察:第1、第2、第3点)で逐語的に確認されており、その内容は Eugene Grimm 神父 C.SS.R. の英語訳(『Preparation for Death』、考察 XXI)にも合致しています。

    3
  4. 『カトリック教会のカテキズム』 §1718、Mame-Plon 版、パリ、1992年、376頁 — 逐語的に確認された一節。公式テクストは vatican.va を参照。

    4 13
  5. 聖アルフォンソ・デ・リグォリ『死の準備』第21考察、第3点。

    6 9
  6. トレント公会議のカテキズム(ローマ・カテキズム)、第II部、聖なる聖体についての章、永遠の命の保証としての聖体に関する節:「この秘跡の恵みによって、人々はこの世ですでに最大の平和と良心の安らぎを享受します」(McHugh-Callan 訳、1923年、確認済み。仏訳:M. Doney 神父訳、Vivès 版、パリ、1850年)。トレントの表現は聖体に関するものであり、この秘跡によって、百倍の約束はこの世ですでに内的に成就します。*「Et ne nos inducas in tentationem」*の祈りについての解説(第IV部)に関するものではありません。そこには百倍に関する一節は見いだされませんでした。

    7
  7. 聖トマス・アクィナス『神学大全』I-II、q. 3、a. 2-8、人間の至福の性質について — 確認された箇所。完全な至福は神の本質を見ることでしかありえません(a. 8)が、*「不完全な至福」*は、神を知り愛することによって、この世ですでに与えられています(a. 5-6)。

    8
  8. 詩編 36(ヘブライ語では 37)、4節 — 第21考察の Callewaert 版(第3点)で確認された一節:「主を喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」 このフランス語はアルフォンソのものであり、典礼訳 AELF のものではありません。

    10
  9. 聖アルフォンソ・デ・リグォリ『死の準備』第21考察、第1点。馬、犬、魂のこのイメージは、カトリック霊性の topos となりました。

    11
  10. 『カトリック教会のカテキズム』 §27、Mame-Plon 版、パリ、1992年、13頁 — 逐語的に確認された一節。公式テクストは vatican.va を参照。

    12
  11. 伝統的にクレルヴォーの聖ベルナルドに帰せられてきたテクスト。Glorieux の研究(『Pour revaloriser Migne』、Lille、1952年、184番)によれば、おそらくオセールのジョフロワの作:『Declamationes de colloquio Simonis cum Iesu』第25章、30節。PL 184, 454-456。本稿の本文は、この伝統的な帰属と、確実な個人的証言とを区別しています。これは文学的な性格の物語であり、聖アルフォンソがそのように引用したものです。

    14
  12. クレルヴォーの聖ベルナルド『回心についての説教(Ad clericos de conversione)』第14章、26節。PL 182, 848-849。批判校訂版:『Sancti Bernardi Opera』、J. Leclercq と H.-M. Rochais 編、第IV巻、ローマ、Editiones Cistercienses、1966年。

    15
  13. 聖アウグスティヌス『説教』50、第4章、6節。PL 38, 328。仏訳:Vivès、『Œuvres complètes de saint Augustin』、パリ、第16巻、333頁。

    16
  14. ウァレリウス・マクシムス『Factorum dictorumque mirabilium libri novem』第VIII巻、第14章、ext. 2(「De cupiditate gloriæ」):このテクストは、世界の複数性の前でのアレクサンドロスの嘆きと、彼がまだ1つの世界さえ完全に所有していないという事実を伝えています。以前書かれたように、征服すべき王国がもはや残っていない征服者の涙ではありません。物語はこの源泉に合わせられています。この逸話は、正確にはプルタルコス『心の平静について』(『De tranquillitate animi』、『Moralia』)第4節に見いだされます。アレクサンドロスは、アナクサルコスが世界の無限について論じるのを聞いて泣きました。「世界が無限であるのに、わたしたちがまだ1つの世界の主でさえないことは、涙に値しないでしょうか」。以前主張された『アレクサンドロス伝』への言及は不正確でした。この逸話は『Moralia』にあり、『対比列伝』にはありません。

    17
  15. コヘレトの言葉(伝道の書) 2, 10。典礼訳 AELF、逐語的に確認された、全文引用された最初の文です(以前主張された TOB は、作業中に参照できませんでした)。

    18
  16. コヘレトの言葉(伝道の書) 1, 2。典礼訳 AELF、逐語的に確認された、全文引用された聖句です。「コヘレトは言う」という言及は、以前の版で省略されていましたが、復元されました(TOB は作業中に参照できませんでした)。ヘブライ語の hevel(「空、蒸気、霧」)という言葉は、消え去るはかない現実という考えを示唆します。

    19
  17. 詩編 41(ヘブライ語では 42)、4節。聖アルフォンソはこの聖句を、罪の状態にあった王ダビデに適用します。ダビデは、すべての被造物が同じ問いをもって彼に答えるのを見ました:「あなたの神はどこにいるのか」。『死の準備』第21考察、第3点。

    20
  18. 聖アルフォンソ・デ・リグォリ『死の準備』第21考察、第3点。

    21
  19. 預言者ハガイの書 1, 6。Fillion 訳:過去形(「食べても、満たされなかった」)は Fillion のものであり、ここで現在形(「食べる…」)を用いる TOB のものではありません。帰属は訂正されました。

    22
  20. 聖ヴィンセント・フェラー:『Sermones aestivales』、Dominica XV post festum SS. Trinitatis、説教3(ヴェネツィア版、1573年、436頁)に帰せられるイメージ — 2つの独立した装置(アルフォンソの PDF の装置と Callewaert 版の装置)によって同一の形で伝えられた言及ですが、1573年版では直接確認されていません。この版は作業中にアクセスできず(この版の自由なデジタル化は確認されませんでした)、したがって、直接の引用は本文から取り下げられ、この確認を待つ間、その旨を明示した言い換えに置き換えられました。ヴィンセント・フェラー(1350-1419)、バレンシアのドミニコ会士は、西欧の大シスマの主要な巡回説教者です。

    23
  21. 聖シャルベル・マクルーフ(レバノンのマロン派修道士、アンナヤの隠修士、1977年にパウロ6世によって列聖):『Paroles de saint Charbel』、Hanna Skandar による序文、Artège 版、パリ、2014年(ISBN 9782360407224)、説教2 — 同じ集成の英語版(『Love Is a Radiant Light』、2019年、§ 2、『Words of Saint Charbel』§ 2「And you will achieve the Objective for which God Created You」に再録)で確認された一節:「Your happiness is not found in other humans either, for they cannot offer happiness as they do not own it, and no one can give something one does not own. Only Jesus Christ can give you true happiness.」 本稿の本文のフランス語表現は、その忠実な言い換えです。

    24
  22. 聖アルフォンソ・デ・リグォリ『死の準備』第21考察、第2点。

    25
  23. 聖アルフォンソ・デ・リグォリ『死の準備』第21考察、第2点。*「貴重なダイヤモンド」と「狂った犬」*のイメージは、この著作で最も印象的なものの一つです。フランス語版:『Œuvres complètes du Bienheureux Alphonse-Marie de Liguori』、J.-M. Dujardin 監修の翻訳、Vivès 版、パリ、1879年、第6巻。

    26
  24. 聖アルフォンソ・デ・リグォリ『死の準備』第21考察、第2点。

    27
  25. 聖アルフォンソ・デ・リグォリ『死の準備』第21考察、第2点。絶望して首をつったユダの例(マタイ 27, 5)は、鎮めることのできない呵責の暴力を示すために取り上げられています。

    28
  26. ヨハネス・モスコス『霊の牧場』(『Pratum spirituale』)第X巻、第166章。PL 74, 203 — Callewaert 版『死の準備』の装置によって同一の形で確認された言及です(同じ物語を要約しています:子供の殺害者、修道院への避難、その後の自首)。SC 12 は M.-J. Rouët de Journel の批判校訂版(Cerf、1946年)であり、直接参照されていません。

    29
  27. 預言者イザヤの書 59, 7-8。『ローマの信徒への手紙』3, 16-17 のパウロの表現(「荒廃と不幸が彼らの道にあり、平和の道を彼らは知らなかった」)は、このイザヤの一節を取り上げています。テクスト伝統に関する注意:ヘブライ語テクスト(およびほとんどの現代訳)では、詩編 13(ヘブライ語では 14)、3節は別のテクスト(「皆、迷い出てしまった」)ですが、ラテン語の伝統(ウルガタ、詩編 13)には、不幸と平和の道に関する展開が確かに含まれており、ローマ書から取り上げられています。したがって、以前主張された、詩編への言及の断定的な排除は訂正されました。伝統のこの相違を考慮しながら、イザヤとローマ書との関連は維持されています。

    30
  28. 預言者イザヤの書 57, 20。典礼訳 AELF、逐語的に確認されたテクストです(以前引用された「激しい海…かき混ぜる」という表現は、確認されたどの翻訳にも対応しません。TOB は作業中に参照できませんでした)。

    31
  29. 預言者イザヤの書 48, 22 — 確認された表現:「悪人には平和がない、と主は言われる」(ウルガタ:「Non est pax impiis, dicit Dominus」)、聖アルフォンソが冒頭に掲げた伝統的なフランス語です。この表現はイザヤ 57, 21 でも繰り返されており、その重要性を強調しています。

    32
  30. 聖アウグスティヌス『告白』第1巻、第1章、1節。PL 32, 661。ラテン語原文:「Tu excitas, ut laudare te delectet, quia fecisti nos ad te et inquietum est cor nostrum donec requiescat in te.」 Tréhorel-Bouissou 訳、『Bibliothèque augustinienne』第13巻、273頁。

    33
  31. 聖アルフォンソ・デ・リグォリの表現(『死の準備』第21考察、第3点)であり、聖アウグスティヌスを言い換えたもので、アウグスティヌスの逐語的な言葉ではありません:『告白』第VI巻、第16章は死と裁きへの恐れを扱っており、この文は含まれていません(この文はコヘレトの言葉 1, 14 を想起させます)。言及(PL 32, 732。Tréhorel-Bouissou 訳、『Bibliothèque augustinienne』第13巻、573頁)は、Callewaert 版の装置によって伝えられたものです。

    34
  32. 聖アウグスティヌスに帰せられるテクスト『Manuale』第34章。PL 40, 966。その著作権は今日、批判的研究によって争われています(Glorieux、『Pour revaloriser Migne』、40番 —「作者不明」を参照)が、この表現はカトリックの霊的伝統において正典的であり、19世紀の霊的手引書にまで取り上げられました。

    35
  33. 聖アウグスティヌス『説教』350(『愛徳について』)、2-3節。PL 39, 1534。ラテン語テクスト:「Sectamini caritatem... dulce ac salubre vinculum mentium, sine qua dives pauper est, et cum qua pauper dives est」(「愛徳を追い求めなさい…魂の甘く救いに役立つ絆であり、それなしでは富者は貧しく、それと共に貧しい人は富んでいます」)。本稿の本文のフランス語表現は、その言い換えです。以前の、アレルの聖カエサリウスへの帰属(『説教』112。PL 39, 1968)は、確認されていないため、放棄されました。この表現はアウグスティヌスのものです。

    36
  34. 聖マタイによる福音書 11, 28-30。ギリシャ語テクスト:「Deute pros me pantes hoi kopiōntes kai pephortismenoi, kagō anapaúsō hymas.」 anapaúō という動詞は、「積極的に安らぎを与えること、重荷から解放すること」を意味します。引用されたフランス語(「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」)はアルフォンソのものであり、第21考察の Callewaert 版(第3点)で確認された一節で、典礼訳 AELF のものではありません。

    37
  35. 聖アルフォンソ・デ・リグォリ『死の準備』第21考察、第3点。マタイ 11, 28 の引用は、アルフォンソの、フィリピ 4, 7 と、*「すべての思いを超える」*平和への移行を開きます。

    38
  36. 聖パウロのフィリピの信徒への手紙 4, 7。ギリシャ語からの翻訳:kai hē eirēnē tou Theou hē hyperéchousa panta noun phrourēsei tas kardias hymōn kai ta noēmata hymōn en Christō Iēsou — phrourēsei という動詞は未来形です(「守るでしょう」)。

    39
  37. 聖アルフォンソ・デ・リグォリ『死の準備』第21考察、第3点。

    40
  38. 聖トマス・アクィナス『神学大全』II-II、q. 24、a. 3、ad 2。ラテン語テクスト:「Gratia nihil aliud est quam quædam inchoatio gloriæ in nobis.」

    41 63
  39. 詩編 33(ヘブライ語では 34)、9節。ペトロ一 2, 3 で引用されています(「主の恵み深さを味わったことがあるなら」)。

    42
  40. リスボンのマルク(Marcos de Lisboa)『小兄弟会年代記』第1巻、第8章(第I巻、ヴェネツィア、1582年) — 第21考察の Callewaert 版(第3点)で確認された一節です。古い版は直接参照されていません。*「わが神、わがすべて」*という言葉は、フランシスコ会の公式の源泉によって『Actus beati Francisci』1, 20 に関連付けられています。

    43
  41. Pietro Giacomo Bacci『Vita di S. Filippo Neri fiorentino』第2巻、第5章、4節(ボローニャ、1686年、96頁) — 第21考察の Callewaert 版(第3点)で確認された一節です。古い版は直接参照されていません。Bacci(1575-1656)は、列聖調査の記録に基づいて作業しました(Antonio Gallonio による以前の伝記がすでに存在していました)。

    44
  42. 心臓の奇跡(1544年の聖霊降臨の前夜、聖セバスティアーノのカタコンベで胸に受けた火の球)は、列聖調査の証人に基づいて Pietro G. Bacci が語ったものです(『Catholic Encyclopedia』「St. Philip Neri」の項を参照)。死後(1595年)の遺体の検査 — 異常に拡張した心臓のために折れた2本の肋骨 — は、現代の歴史研究によって裏付けられています:Ponnelle と Bordet、『Saint Philippe Néri et la société romaine de son temps』(1932年)、Bradford A. Bouley、『Pious Postmortems』(University of Pennsylvania Press、2015年)。Bouley は、死後まもなく行われた解剖で、第4と第5の肋骨が折れており、心臓が異常に拡張していたことが確認されたと明示しています。一方、最終的な詳細(検査の正確な日付、1595年5月27日、2人の医師の名前、1622年3月12日の列聖の大勅書における明示的な言及)は、調査の記録でも大勅書でも確認できませんでした(頁数なしの5月の『Acta Sanctorum』への言及では不十分です)。これらは留保付きであり、この確認を待つ間、本稿の本文には含まれていません。

    45
  43. Daniello Bartoli『Della vita di San Francesco Borgia』第4巻、第7章(ローマ、1681年、254頁) — 第21考察の Callewaert 版(第3点)で確認された一節です。古い版は直接参照されていません。これは伝記的な物語であり、ボルジア自身の自伝的な証言ではありません。

    46
  44. Orazio Torsellini『Vita del B. Francesco Saverio』第6巻、第5章(ミラノ、1606年、253頁) — 第21考察の Callewaert 版(第3点)で確認された一節です。古い版は直接参照されていません。

    47
  45. Francesco Maria Galluzzi『Vita del P. Carlo di Lorena』、ローマ、1725年、40頁。Giuseppe Antonio Patrignani『Menologio』第II巻(4月28日)、ヴェネツィア、1730年、260頁も参照 — 第21考察の Callewaert 版(第3点)で確認された一節です。古い版は直接参照されていません。

    48
  46. アビラの聖テレジア『生涯の書』第27章、12節 — 第21考察の Callewaert 版(第3点)で確認された一節であり、テレジア自身のテクストを引用しています(MA、189頁)。本稿の本文のフランス語の文は、テレジアの逐語的な言葉ではなく、アルフォンソの言い換えを再現しています。スペイン語の批判校訂版:『Obras Completas』、Tomás Álvarez 編。

    49
  47. アビラの聖テレジア『生涯』(自伝)第22章、17節 — 前の一節(第27章、12節)とは異なる一節であり、混同してはなりません:「これは、すべての財がそのうちに含まれる広大な大洋の一滴にすぎないことを考えなさい。」 場所は Migne 版によって確認されています(第XXII章:「それは、無限の財の大洋の一滴にすぎません」)。Auclair の頁付けだけが、直接照合されていません。

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  48. 聖ファウスティナ・コワルスカ『日記』§254 — 確認された一節:確かにこの段落にあります(「わたしの魂は、神を味わったため…取るに足らない苦しみの種…」)。フランス語の参照版:ポーランド語の批判校訂版からの翻訳、Mère Élisabeth Skoczek O.L.M. 訳、Hozanna/Téqui 版、パリ、2014年(翻訳によるわずかな異同:「ne saurait / ne saurais」、「délices dans le monde / délices mondains」)。段落は英語の参照版(Stockbridge)でも照合されました:一節は確かに §254 にあります(「Having once tasted God, my soul could not live without Him… lowly drudge… queen in the world」)。Téqui 版は作業中に直接参照できませんでした。

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  49. 聖ピエル・ジョルジョ・フラッサーティ、1923年7月29日日曜日、ポッローネのカトリック青年の会員への演説。同会の旗の祝福の際に述べられたもので、彼はその代父でした。『Lettres』に収録、Luciana Frassati による序文と注、Cerf 版、パリ、2019年(英語版『Letters』、128-130頁、Notre Dame の『Church Life Journal』によって「Address」として引用。英語テクストは usccb.org を参照)。フラッサーティは1990年5月20日に聖ヨハネ・パウロ2世によって列福され、2025年9月7日に、Carlo Acutis と同時に、レオ14世によって列聖されました。

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  50. 聖シャルベル・マクルーフ:前注と同じ一節 — イエス・キリストだけが真の幸福を与えます。イエスだけがそれを持っているからです。言及と確認されたテクストについては、「charbel-paroles」の注を参照。

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  51. 聖ボナヴェントゥラ『Vitis mystica seu Tractatus de passione Domini』第44章、付加6、154節。『Opera Omnia』第VIII巻、Quaracchi、1898年、222頁 — Callewaert 版の装置によって同一の形で確認された言及です(Quaracchi 版は直接参照されていません)。ラテン語原文:「Sicut mel, divinus amor amarissima quæque dulcia et grata reddit.」

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  52. 『カトリック教会のカテキズム』 §2731、祈りにおける渇きについて:それは、*「真剣に祈りたいと望む」*人々にさえ及ぶことがあり、その忠実さが問われることはありません。

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  53. クレルヴォーの聖ベルナルド『教会の献堂についての説教1』5節。PL 183, 520 — Callewaert 版の装置によって同一の形で確認された言及であり、逐語的なフランス語を与えています(「Voilà la raison pour laquelle…」、TZ、815頁)。批判校訂版:『Sancti Bernardi Opera』、J. Leclercq 編、第V巻(直接参照されていません)。

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  54. 詩編 33(ヘブライ語では 34)、9節。「Gustate et videte quoniam suavis est Dominus.」

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  55. 聖アルフォンソ・デ・リグォリ『死の準備』第21考察、第3点。

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  56. 聖トマス・アクィナス『神学大全』II-II、q. 45、a. 2、知恵の賜物と、*「per modum connaturalitatis」*による知識について。

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  57. 『カトリック教会のカテキズム』 §1716 — 逐語的に確認された一節。テクストは vatican.va を参照。

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  58. 『カトリック教会のカテキズム』 §1718 — 逐語的に確認された一節(「cec-1718」の注を参照)。テクストは vatican.va を参照。

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  59. 『カトリック教会のカテキズム』 §1726、Mame-Plon 版、パリ、1992年 — 逐語的に確認された一節です(至福の目的のリストは、確かにこの段落に属します)。テクストは vatican.va を参照。

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  60. 聖トマス・アクィナス『神学大全』I-II、q. 3、a. 5 — 確認された箇所:幸福は、主には神的な事柄の観想にあり、第二に、人間の行為と情熱を整える実践的な知性の働きにあります。

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  61. 聖アルフォンソ・デ・リグォリ『死の準備』第21考察、第3点 — 読者への最後の勧告。

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