意識からの論証は、現代哲学における最も生き生きとした有神論的論証の一つです。それは人間経験の最も直接的な事実から出発します。私たちは単に情報を処理する有機体ではなく、意識を持つ主体なのです。私たち一人ひとりには内面の生活があります。感じられる痛み、味わわれる喜び、対象に向けられる意図、私のものとして生きられる記憶、自己への現前、「私」と言う能力です。弁証上の問いは単純です。どの世界観が、この内面性の存在を最もよく説明するのでしょうか?
この論証は補完し合う二つの形式で提示されます。第一の形式はカトリックの伝統に由来し、道徳的良心から出発します。その権威ある声、恥と罪悪感の感情は、人格的な神を指し示します。これがニューマンの論証です。第二の形式は現代の分析哲学的議論に由来し、現象的意識から出発します。一人称で生きられる経験(クオリア、志向性、主観性)は、純粋に物質的な還元に抵抗します。これがチャーマーズ、ネーゲル、モアランドの論証です。二つの形式は同じ結論に収束します。無意識の物質しか含まない宇宙は、人間経験のこれら二つの次元を十分に説明できないのです。
唯物論は、存在するすべてのものは根本的に物理的であると主張します。しかし物理的なものは、構造、質量、エネルギー、広がり、機能、因果関係という言葉で記述されます。これに対して意識は、別の秩序に属するデータをもたらします。すなわち一人称の視点です。Internet Encyclopedia of Philosophyが要約するように、ハード・プロブレムとは、なぜある物理的状態が非意識的ではなく意識的であるのかを説明することにあります[1]。『Soyez rationnel, devenez catholique !』の中で、Matthieu Lavagnaは比例的因果性の原理からこの論証を定式化しています。結果は*「ある仕方で原因の中に含まれていなければならない」*のです[2]。説明すべき結果が、内面性、志向性、抽象概念、愛の能力を持つ意識であるなら、その究極の根拠を、完全に無意識で、盲目で、意図を持たない実在の中に求めることはほとんど整合的ではありません。
この論証は、神経科学が無用だと言っているのではありません。逆のことを言っているのです。神経科学が意識の脳内相関物を正確に記述すればするほど、形而上学的な問いは鮮明になります。脳と意識の相関は、まだ生きられた経験の説明ではありません。誰かが赤を見たときにどの領域が活性化するかを知ることは、その主体にとって赤を見ることがどのようなことであるかがなぜ存在するのかを、まだ語ってはいないのです。
ニューマンと道徳的良心:人格的な神の声
道徳的良心の二重の次元
John Henry Newman(1801-1890)は、1845年に英国国教会から改宗し、1879年にレオ13世によって枢機卿に叙任され(San Giorgio in Velabroの枢機卿助祭)、バーミンガムにとどまり、2019年に教皇フランシスコによって列聖されました。彼は意識からの論証に、最も精緻で最も影響力のあるカトリック的定式を与えました。『An Essay in Aid of a Grammar of Assent』(1870年)の中で、彼は日常的な道徳的良心から人格的な神の存在への確信へと至る道筋を展開しています[3]。
ニューマンは正確な観察から出発します。道徳的良心は私たち自身のものではない権威をもって語るのです。それは単なる美的趣味でも、文化的嗜好でも、利害の計算でもありません。それが判断するとき、それは私たちの欲望、世論、さらには市民法にさえ反することがあります。それは義務づけます。しかしニューマンが最も関心を寄せるのは、この抽象的な義務の次元(カントが擁護した側面)だけではありません。それは良心が引き起こす反応の感情的な性格なのです。
重力の法則は、私たちが転んでも恥を感じさせません。数学の定理は後悔を引き起こしません。これに対して、道徳的良心への違反には、非常に正確な感情が伴います。罪悪感、恥、制裁への恐れ、そして償いの後の安堵、平和、感謝です。ところがこれらの感情には避けられない関係的な構造があります。人は誰かの前で恥じ、誰かを恐れ、誰かによって安堵するのです。ニューマンは『Grammar of Assent』の中心的な章で、この点を決定的な仕方で定式化しています。
「実際にそうであるように、私たちが責任を感じ、恥じ、良心の声に違反することを恐れるなら、それは、私たちが責任を負い、その前で恥じ、その要求を恐れる相手である或る方が存在することを意味する。」 John Henry Newman, An Essay in Aid of a Grammar of Assent, Burns, Oates & Co., Londres, 1870, ch. V, §1(本稿筆者による翻訳)[4]
罪悪感から神の人格へ
この論証の力は、その現象学的な正確さにあります。ニューマンは人間の良心の中で実際に起こっていることを記述し、この現象学が一人の人格を指し示していると結論づけます。抽象的な法則(物理的法則、数学的法則、さらにはその規範的側面のみにおける道徳法則)は恥を引き起こしません。恥はまなざしを前提とするのです。道徳的罪悪感の宛先は規則ではなく、私たちを知り、私たちを裁くことができる主体なのです。
「良心は、自然においても恵みにおいても、ベールの背後から私たちに語り、その代理者たちによって私たちを教え、統治する方の使者である。良心はキリストの原初の代理者である。」 John Henry Newman, A Letter Addressed to His Grace the Duke of Norfolk, 1875(本稿筆者による翻訳)[5]
この論証は、神の存在を数学的に証明しようとするものではありません。それはもっと精緻なことを示しています。道徳的良心の現象学は人格的な神の存在と整合的であり、神が存在するなら自然に説明されますが、純粋に物質的な宇宙では奇妙で説明できないままにとどまるのです。ニューマンのこの直観は、カテキズムが取り上げた第二バチカン公会議の教えに直接つながっています。
「人はその良心の奥底に、自分で自分に与えたのではないが従わなければならない法の存在を発見する。その声は、善を愛し行い、悪を避けるよう絶えず人に促しながら、時宜を得て心の奥底に響く。」 『カトリック教会のカテキズム』、§ 1776、『Gaudium et Spes』§ 16を引用[6]
C. S. Lewisと自然主義の自己論駁
C. S. Lewis(1898-1963)は、この論証にさらなる次元を付け加えました。それはしばしば理性からの論証(Argument from Reason, AfR)と呼ばれます。『Miracles』の改訂版第III章(Fontana、1960年;初版Geoffrey Bles、1947年では、この章は*「The Self-Contradiction of the Naturalist」と題されていました)で、ルイスは彼が「自然主義の根本的困難」*と呼ぶものを提起しています[7]。自然主義が真実なら、私たちの推論能力そのものが純粋に物質的で非合理的な原因の産物であることになります。しかし、ある推論の物理的原因を特定するだけでは、その推論を検証することはできないのです。
ルイス自身、エッセイ「Is Theology Poetry?」の中で、この論証を簡潔に要約しています。
「もし精神が完全に脳に依存し、脳が生化学に依存し、生化学が(結局のところ)原子の無意味な流れに依存するなら、これらの精神の思考が、木々の中の風の音以上の意味を持つはずだと私には理解できない。」 C. S. Lewis, « Is Theology Poetry ? »(1944年)、The Weight of Gloryに再録(本稿筆者による翻訳)[8]
この論証には正確な射程があります。結論の真理性は、その結論への信念を生み出した原因に依存するのではなく、その結論が実在や他の真理と結ぶ関係に依存します。二つの脳が数学の問題について意見を異にする場合、電気的ポテンシャルを測定して決着をつけることはしません。推論そのものを評価するのです。この合理的評価の能力は、理性が盲目的な因果連鎖に還元できないことを前提としています。
ルイスはそこから、自然主義者は逆説的な立場にあると結論づけます。彼は、論理的妥当性を主張する合理的な行為である論証を用いて、すべての合理的な行為を疑わしいものにしてしまうテーゼを擁護しているのです。自然主義が真実なら、その反対の信念も同じく非合理的なメカニズムから生じる以上、自然主義をその反対よりも信頼する理由はまったくないことになります。
カトリックの答えは直接的です。人間の理性が(論理的、数学的、道徳的、形而上学的な)真理に実際に到達できるなら、それは人間の精神が脳のメカニズム以上のものだからです。こうしてルイスの論証はニューマンの論証に合流します。道徳的良心と理性はどちらも超越的な源、すなわち被造物の合理性を根拠づける創造主なるロゴスを指し示しているのです[9]。
現象的意識:説明すべき事実
還元できない自己への現前
Lavagnaは意識を、自分自身を存在する主体としてみなす能力、言い換えれば*「自己への現前」*と定義しています[10]。この定義が目指すのは現象的意識です。単なる生物学的な覚醒でも、刺激に応答する能力でもなく、経験が内側から生きられるという事実なのです。
この区別は決定的です。ロボットは色を識別し、軌道を計算し、文法的に正しい文を生成し、エラーを知らせることができます。しかし問いは残ります。その操作が現れる相手である誰かがいるのでしょうか?痛み、驚き、悲しみ、理解があるのでしょうか、それとも機能的処理しかないのでしょうか?まさにこれを哲学者たちは精神の主観的あるいは現象的次元と呼ぶのです。
Thomas Nagelは古典となった定式を与えました。その存在であることが*「どのようなことであるか」*があるときに、意識があるのです[11]。コウモリは客観的に記述できます。超音波、神経系、狩りの行動です。しかしこの三人称の記述は、内側からコウモリであることが何であるかを伝えてはくれません。ネーゲルはこの点を正確に定式化しています。
「しかし根本的に、有機体に意識的な心的状態があるのは、その有機体であることがどのようなことであるか、その有機体にとってどのようなことであるかが存在する場合に限る。私たちはこれを経験の主観的性格と呼ぶことができる。」 Thomas Nagel, « What Is It Like to Be a Bat? », The Philosophical Review, vol. 83, n° 4, octobre 1974, p. 436(本稿筆者による翻訳)[12]
ネーゲルはキリスト教の弁証家として書いているのではありません。彼は反対に、科学的対象化の内的な限界を示そうとしています。有機体を外側から記述すればするほど、経験のまさに主観的なものを取り逃がす危険が増すのです。これが彼の論文を弁証にとってこれほど有益にしています。それは唯物論者に、この問題が単に宗教的なものではなく哲学的なものであることを認めるよう迫るのです。
この論証が目指す三つの次元
意識からの論証は、少なくとも三つの異なる心的実在を目指しています。
| 次元 | 例 | なぜ唯物論にとって難しいのか |
|---|---|---|
| クオリア | 痛み、赤、コーヒーの味 | 物理的記述は生きられた経験そのものを与えない。 |
| 志向性 | ローマについて考える、神が存在すると信じる | 心的状態は対象や真理に向けられる。粒子は、それ自体としては何にも向けられない。 |
| 人格的主体 | 私と言う、自分と同一であることを知る | 主体は複数の行為を一つの連続した内面生活に統一する。 |
Stanford Encyclopedia of Philosophyは、心の哲学における物理主義の問題はとりわけクオリアと志向性に集中すると強調しています[13]。したがってこれは弁証家がでっち上げた困難ではなく、現代の哲学的議論の実際の中心の一つなのです。
しばしば忘れられる第四の次元を付け加えることができます。合理的な規範性です。思考は単なる脳内イベントではありません。それは真であったり偽であったり、正当化されたりされなかったりします。*「2 + 2 = 4」*と言うことは、単に神経状態を引き起こすことではありません。真理を把握することです。この問いは、意識からの論証を自由意志からの論証や、とりわけVictor Reppert、James Ross、William Haskerが展開した理性からの論証に近づけます[14]。
論証の論理形式
Lavagnaの三段論法
Lavagnaはこの論証を単純な形で提示しています。
- 人間は知性と意識を持つ。内省、自己への現前、抽象的思考である。
- 純粋に物質的で、知的でなく、意識を持たない原因は、意識的で知的な結果を十分に生み出すことはできない。
- したがって、この結果に比例した原因が必要である。私たちに先立つ、意識的で知的な原因、すなわち神と呼ばれるものである[15]。
このバージョンは意図的に形而上学的なものです。それは科学研究における一時的な空白を埋めようとするものではありません。外的な物理的記述と内的な主観的経験の間には性質の違いがあると主張するのです。
比例的因果性の原理
Lavagnaが動員する原理は、トマス主義の形而上学において古典的なものです。原因は結果を形式的に、潜在的に、あるいは卓越的に含まなければならないのです[16]。これは、原因が物質的に結果に似ていることを意味しません。建築家は自分の精神の中にレンガを含んでいるわけではありません。しかし彼は、レンガを秩序づける設計図を潜在的かつ意図的に含んでいるのです。
意識に適用すると、この原理は次のようになります。宇宙が真理、愛、美、数学、決断、祈りの能力を持つ存在を生み出すなら、宇宙の究極の根拠は、これらの完全性を説明できるものを自らのうちに持たなければならないのです。絶対的に無意識で、あらゆる志向性を欠いた実在は、それ自体によって意識的な主体を生み出すために必要な説明資源を持っていないのです。
なぜ有神論的仮説のほうが自然なのか
神が存在するなら、意識は精神に無縁な宇宙に現れた、遅れて現れた説明できない偶然ではありません。反対にそれは理解可能になります。創造主なる精神は、真理を知り、真理と関係に入ることができる有限な精神を創造できるのです。Lavagnaはこれを簡潔に定式化しています。神が存在するなら、神が自分と関係できる意識的な存在を創造しようとしたことは、ありそうもないことではないのです[17]。
この点は、神の像として創造された人間に関するカトリックの教えに直接つながっています。カテキズムはこの一体性を、困難な問題に哲学的に答える仕方で記述しています。
「霊魂と身体の一体性は非常に深いので、霊魂を身体の「形相」とみなさなければならない。すなわち、物質から構成された身体が人間的で生きている身体であるのは、霊的霊魂によるのである。人間において、精神と物質は結合した二つの本性ではなく、その結合が単一の本性を形成する。」 『カトリック教会のカテキズム』、§ 365[18]
したがって意識からの論証は、カトリック信仰にとって外から持ち込まれたものではありません。それはキリスト教的人間学の中心的な直観を哲学的な言語で表現したものなのです[19]。
心の哲学における現代の議論
還元的唯物論
還元的唯物論は、心的状態は結局のところ脳の物理的状態であると主張します。このテーゼには、私たちの心的生活が神経系に大きく依存していることを真剣に受け止めるという利点があります。損傷、睡眠、麻酔、薬物、疲労、病気は、意識経験を実際に変化させます。キリスト者はこれらの事実を否定する理由をまったく持ちません。
しかし意識からの論証は別のことを求めています。経験の身体的条件だけでなく、その主観的な現れを説明することです。ある理論は痛みの回路を特定し、電気的ポテンシャルを測定し、神経伝達物質を記述できます。しかしそれは、生きられた痛みそのものをまだ生み出してはいません。英米の著者たちがexplanatory gap、すなわち説明の溝と呼ぶのは、まさにこの違いなのです。
創発とその曖昧さ
創発はしばしば解決策として提示されます。意識は十分に複雑な神経組織から創発するだろうというのです。しかし弱い創発と強い創発を区別しなければなりません。
| 立場 | それが主張すること | 哲学的な代償 |
|---|---|---|
| 弱い創発 | 精神は原理的に物理的組織に還元できる。 | クオリアの問題に答えない。機能を記述するのであって、生きられた経験を記述しない。 |
| 強い創発 | 精神は真に新しく、還元できない。 | 基本的な心的性質を導入することで、厳密な唯物論を放棄する。 |
| 言葉だけの創発 | 創発という語が結論の役割を果たす。 | 困難を説明せずに、名前を付け替えるだけである。 |
したがって水の流動性の類比は不十分です。流動性は分子の観察可能な振る舞いを記述します。それは公的な物理的性質の領域に完全にとどまります。痛み、生きられた色、自分であるという感覚は、単なる集合的振る舞いではありません。それらは主体に与えられるのです。
困難の告白としての汎心論
現代のもう一つの答えは汎心論です。意識が完全に無意識の物質からは容易に出現しないなら、基本的な物質に初歩的な形式の精神を帰属させるべきかもしれません。このテーゼは奇妙に聞こえるかもしれませんが、近年の分析哲学におけるその復活は意味深いものです。キリスト者でない思想家でさえ、還元的唯物論が主観的経験を説明するのに苦労していることを認めているのです。
しかし汎心論は高い代償を払います。それは、分散した微小経験がどのようにして統一された人格的主体を形成するのかを説明しなければなりません。これが結合の問題です。何十億もの小さな視点を足し合わせても、記憶、責任、愛の能力を持つ単一の私が自動的に得られるわけではありません。これに対して有神論は、精神を実在の根底にとって異質なものにする必要がありません。有神論は、創造主なる精神が物質に先立ち、有限な主体を創造できると主張するのです。
錯覚主義
錯覚主義は、強い意味での現象的意識は実際には存在しないと主張します。私たちは質的な内面生活を持っているという錯覚を持っているだけだというのです。この立場には唯物論的な一貫性という長所がありますが、自己破壊的であるように思われます。錯覚はすでに一つの経験だからです。錯覚が錯覚として現れる相手である誰かが、どうしても存在しなければなりません。生きられた経験を否定して理論を救うことは、理論が説明しなければならなかった最も直接的な事実を取り除くことになるのです。
意識の困難な問題
「易しい問題」と真の問題
David Chalmersは1995年に、意識の易しい問題と困難な問題の区別を広めました[20]。易しい問題は実際には簡単ではありません。神経科学と認知心理学の膨大な作業を必要とします。それらは注意、記憶、情報の統合、言語的制御、睡眠のメカニズム、神経相関物に関わります。チャーマーズ自身、その違いを鋭く定式化しています。
「経験の周辺にあるすべての認知的・行動的機能(知覚的識別、カテゴリー化、内的アクセス、言語報告)の遂行を説明した後でさえ、さらに答えられていない問いが残ることがある。これらの機能の遂行に、なぜ経験が伴うのか、という問いである。」 David Chalmers, « Facing Up to the Problem of Consciousness », Journal of Consciousness Studies, vol. 2, n° 3, 1995, p. 201(本稿筆者による翻訳)[21]
困難な問題は別のものです。なぜこれらのメカニズムに生きられた経験が伴うのか? なぜある種の物理的組織は行動だけでなく内面性を生み出すのか? IEPはこの点を正確に要約しています。機能的、動的、構造的な性質を説明した後でも、なぜ意識があるのかをまだ問うことができるのです[22]。
なぜ相関は説明ではないのか
自然発生的な唯物論的答えは、*「意識は脳に依存する」*と言うことです。それは真実ですが不十分です。脳の損傷は記憶を変えることがあります。麻酔は意識経験を中断させることがあります。スキャナーは知覚に関連した活性化を特定できます。これらすべては密接な機能的依存を示しています。
しかしLavagnaが指摘するように、何かに依存することは、それに還元されることではありません。画家は絵を描くために筆に依存しますが、彼は筆そのものではありません[23]。この論証は、人間の意識が脳によって表現されることを否定しません。それは、この依存が一人称の経験とは何であるかを説明するのに十分であることを否定するのです。
困難は次のように定式化できます。神経記述は公的で、測定可能で、客観的です。生きられた痛みは私的で、質的で、主観的です。痛みの神経相関物を地図化することはできますが、その地図は痛みではありません。一方から他方への移行には、さらなる実験的正確さ以上のものが必要です。別の秩序に属する説明原理が必要なのです。
黒い部屋の中のメアリーの例
哲学者Frank Jacksonは、Mary's Roomという思考実験でこの問題を有名にしました。メアリーは色覚に関するすべての物理的真理を知っている神経科学者ですが、ずっと白黒の部屋で暮らしてきました。彼女が初めて赤を見たとき、何か新しいことを学ぶのでしょうか?
もしそうなら、完全な物理的知識は生きられた経験の知識を与えるのに十分ではないことになります。Stanford Encyclopedia of Philosophyはこの論証を、まさにクオリアを狙うため、物理主義に対する古典的な反論の一つとして提示しています[24]。この論証は議論の対象ですが、少なくとも意識が通常の科学的問題ではないことを示しています。
還元主義に反対する脳科学者たち
唯物論への反論は、宗教的な哲学者だけから来るのではありません。『Dieu, la science, les preuves』は、20世紀の神経学者や生物学者によるいくつかの立場表明を集めています。それらだけでは神を証明するのに十分ではありません。しかし、脳と精神の還元主義が科学によって押しつけられた結論ではないことを示しています。
John Eccles(1903-1997、1963年ノーベル医学賞)は、精神の世界を神経活動に還元することは人間の神秘を根本的に損なうと判断し、唯物論的な*「迷信」*とまで語りました[25]。Wilder Penfield(1891-1976、モントリオールにおける脳神経外科のパイオニア)は、数十年にわたる脳刺激の後、二元論的仮説が最終的に最も合理的であるように思われると書きました[26]。Roger Sperry(1913-1994、1981年ノーベル医学賞)もまた、人間精神に関する唯物論的で還元主義的な理解に異議を唱えました[27]。
この点は重要です。これらの著者は、実験室や手術室の内側から脳を知っていました。彼らの批判は神経学的データを否定することではなく、それらのデータが人格的主体の実在を汲み尽くすことを拒否することなのです。
反論1:「意識は脳の創発的性質である」
答え: 創発という語は問題に名前を与えることはできますが、それを解決しません。意識が脳から創発すると言うことは、非常に異なる三つのことを意味しうるのです。
| 「創発」という語の意味 | 例 | 説明的な価値 |
|---|---|---|
| 弱い創発 | 流動性はH₂O分子から創発する | 原理的に基本的な物理的性質に還元できる。 |
| 強い創発 | 還元できない新しい性質が現れる | それはすでに還元的唯物論を放棄している。 |
| 言葉だけのラベル | 意識は創発する、それだけだ | 語が説明を提供するのではなく、説明に取って代わる。 |
弱い創発は十分ではありません。流動性はなお客観化可能で構造的な性質だからです。それは分子の集合的振る舞いを記述します。これに対して意識は単なる集合的振る舞いではありません。それは視点の出現なのです。一方、強い創発は、自然の中に還元できない心的性質があることを認めます。しかしそうなると、厳密な唯物論はその中心的な論点をすでに失っています。すべてが物理的なものだけで説明できるわけではなくなるのです。
したがって困難は、通常の人間の意識に脳が必要かどうかを知ることではありません。脳は必要なのです。困難は、どれほど複雑であっても、なぜ物質的組織に主観性が伴うのかを知ることなのです。Lavagnaはこの点を強調します。脳構造のより精密な記述はどれも、これらの構造と主観的印象の間の論理的必然性のつながりを現れさせることはないのです[28]。
反論2:「それは単なる無知への訴えである」
答え: この論証が単に*「今日、私たちは意識をどう説明するか知らない、だから神である」*と言うだけなら、それは弱いものになるでしょう。しかしそのような構造ではありません。この論証は、問題は単に一時的なものではなくカテゴリー的なものであると主張します。物理的方法は構造、機能、関係を記述します。意識は主観的な現れをもたらすのです。
チャーマーズ自身はキリスト教の弁証家ではありません。ネーゲルに至っては明示的に非有神論者です。それでも二人とも、意識が唯物論に圧力をかけていることを認めています。ネーゲルは、この診断を避けがたいものにする鮮明さで定式化しています。
「意識は、物理科学の資源だけに依拠する包括的な自然主義に対する最も明白な障害である。」 Thomas Nagel, Mind and Cosmos : Why the Materialist Neo-Darwinian Conception of Nature is Almost Certainly False, Oxford University Press, New York, 2012, p. 35(本稿筆者による翻訳)[29]
彼はそこから、唯物論が意識や実在の他の心的側面を受け入れることができないなら、自然に関する純粋に唯物論的な理解を放棄しなければならないと結論づけています[30]。
言い換えれば、この論証は、まだ説明されていない病気や未解決の生化学的段階のような、局所的な無知に依存しているのではありません。それは安定した区別に依存しています。物理科学は世界を三人称で記述します。意識は一人称に与えられます。三人称をいくら積み重ねても、単なる加算によって一人称が存在するという事実は得られないのです。
反論3:「二元論は解決するよりも多くの問題を生む」
答え: 二元論が困難な問い、とりわけ精神と身体の相互作用に関する問いを提起するのは確かです。しかし、説明コストを比較しなければならず、一つの立場にだけもはや何の神秘もないことを要求してはなりません。唯物論は、無意識がどのように意識を生み出すのかを説明しなければなりません。二元論は、精神と身体がどのように相互作用するのかを説明しなければなりません。問いは、どちらの神秘のほうがより深いのかということです。
カトリックの伝統は、霊魂が機械に閉じ込められたパイロットであるような単純なデカルト的二元論を擁護しません。それは人間の実体的一体性を主張します。身体と霊魂は単一の本性を形成します。カテキズムは、霊魂は身体の形相であり、身体の傍らに付け加えられた対象ではないと言っています[31]。しばしば**形質質料説(ヒュレーモルフィズム)**と呼ばれるこの立場は、二つの誤りを避けます。人間を物質に還元することと、身体を霊魂の単なる牢獄として軽蔑することです。
したがって人間の意識は有機体に根ざしていますが、物質的組織だけを超える次元を現しています。だからこそキリスト教は三つの真理を共に保持できるのです。脳は本当に重要であること、霊的霊魂は両親によって生み出されるのではないこと、人間人格は身体の復活へと召された一体性であること[32]です。
反論4:「汎心論は神よりも意識をよく説明する」
答え: 汎心論は真の困難を正しく見ています。精神が実在の根底に完全に不在なら、その出現は神秘的になるのです。しかし汎心論は、精神をあらゆるところに拡散させることでこの困難を解決しますが、人格的一体性を明確に説明しません。分散した初歩的な心的性質は、私と言い、真理を判断し、約束し、悔い改め、祈ることができる主体をまだ与えてはくれません。
有神論は比例的因果性の原理により直接的に答えます。有限な意識は、人格を持たない原初経験の塵からではなく、卓越した意識的な源から来るのです。第一原因は宇宙の中にある意識の一つではありません。それは、物質的世界における有限な主体の存在を可能にする創造行為なのです。
反論5:「人工知能は思考が機械的であることを示す」
答え: 人工知能は、物質的システムが言語的な出力を生み出し、課題を解決し、推論をシミュレートできることを示します。それは、内面の経験が存在することを証明しません。機械はシンボルを操作し、赤についての質問に答え、痛みを記述し、良心の糾明を模倣できます。しかし問いは残ります。何かを感じている誰かがいるのでしょうか?
したがってAIは、問題を取り除くのではなく、問題をより目に見えるものにします。それは機能的遂行と生きられた主観性を区別するよう迫るのです。システムが内面の視点をまったく持たずに課題を達成するなら、機能的成功はまさに意識を説明するのに十分ではないことになります。反対に、AIが意識的になりうると主張するなら、計算構造が行動だけでなく生きられた経験を生み出すために、何がその一人称を出現させるのか、なぜそうなるのかを、なお説明しなければなりません。
この論証の弁証的な力
最も身近な明証から出発する論証
意識からの論証には特有の力があります。それは最も疑いえないものから出発するからです。科学理論、歴史的証言、道徳的解釈を疑うことはできます。しかし、疑っているまさにその間に何かを感じているという事実そのものを疑うことは、はるかに困難です。意識は仮説ではありません。それはあらゆる仮説が現れる場所そのものなのです。
だからといって、この論証が自動的になるわけではありません。唯物論者は錯覚主義、汎心論、非還元的物理主義、創発主義的理論を選ぶことができます。しかしこれらの選択肢はどれも高い形而上学的な代償を払います。錯覚主義は、なぜ意識の錯覚そのものが生きられるのかを説明しなければなりません。汎心論は、基本的な物質に何らかの形式の精神を帰属させます。非還元的物理主義は、還元できない心的性質を付け加えますが、その起源を常に説明するわけではありません。
他の有神論的証明との累積的な論証
意識からの論証は孤立して機能するわけではありません。それは収束の中に位置づけられます。
| 論証 | 出発点となる事実 | それがより理解可能にするもの |
|---|---|---|
| 宇宙論的論証 | 偶然的な存在者の存在 | 必然的な第一原因 |
| ファインチューニング | 宇宙の数学的秩序 | 秩序づける知性 |
| 道徳的論証 | 善の客観的な義務 | 道徳法の超越的な源 |
| 自由意志 | 責任と選択 | 自由で非決定の原因 |
| 意識 | 内面の視点 | 精神を創造できる第一の精神 |
これらの論証を合わせると、同じ方向が描き出されます。宇宙は、知解可能性、価値、自由、内面性を偶然に生み出す盲目的な偶然には似ていません。それはむしろ、意識的な知性に由来する創造に似ています。その知性は、有限な被造物に知識と愛への真の参与を与えることができるのです。
哲学的な結論
この論証は次のように要約できます。唯物論は多くのメカニズムをよく説明しますが、なぜ世界の内側、生きられた内面性が存在するのかを説明するのに苦労します。これに対して有神論は、精神を実在の根底に置きます。有限な意識はもはや異常ではなく、意識的な第一原因に比例した結果となるのです。
これは狭い意味での数学的証明ではありません。それは大きな力を持つ形而上学的論証です。主観的経験、志向性、理性、人格を真剣に受け止めるなら、創造主なる神の仮説は、自ら意識するようになった盲目的な物質の仮説よりも説明力が高くなります。『Confessions』の第一行であるアウグスティヌスの言葉は、生きられた意識の内側からこの動きを語っています。
「主よ、あなたは私たちをあなたに向けてお造りになりました。私たちの心は、あなたの中に憩うまで、安らぎを得ません。」 聖アウグスティヌス, Confessions, I, 1, 1[33]
さらに学ぶために
- 道徳的論証:客観的な道徳法と神
- 自由意志からの論証:自由、責任、唯物論
- 神の存在の証明:概観
- 宇宙のファインチューニング:宇宙の数学的秩序
- 霊魂と人間の進化:霊的霊魂に関するカトリックの教え
主な出典
- Matthieu Lavagna, Soyez rationnel, devenez catholique !, MDN Productions(diffusion Salvator), 1ʳᵉ éd. 2022(éd. citée : avril 2023), p. 110-114.
- J. P. Moreland, Consciousness and the Existence of God: A Theistic Argument, Routledge, 2008.
- Ben Page, « Arguing to Theism from Consciousness », Faith and Philosophy, vol. 37, n° 3, 2020, p. 336-362.
- David J. Chalmers, « Facing Up to the Problem of Consciousness », Journal of Consciousness Studies, vol. 2, n° 3, 1995, p. 200-219 ; The Conscious Mind, Oxford University Press, 1996.
- Thomas Nagel, Mind and Cosmos: Why the Materialist Neo-Darwinian Conception of Nature is Almost Certainly False, Oxford University Press, 2012.
- 『カトリック教会のカテキズム』, §§ 362-366.
注と参考文献
Josh Weisberg, Hard Problem of Consciousness, Internet Encyclopedia of Philosophy, https://iep.utm.edu/hard-problem-of-conciousness/(サイト上のURLの綴りどおり)、2026年10月4日閲覧。この論文はこの問題を、なぜある物理的状態が非意識的ではなく意識的であるのか(*« why any physical state is conscious rather than nonconscious »*)を説明することと定義し、機能的説明と主観的経験の問題を区別している。
1 22Matthieu Lavagna, op. cit., p. 112, note 133. Lavagnaは聖トマス・アクィナスに言及している。結果の中にあるものは、原因の中に形式的に、潜在的に、あるいは卓越的に含まれていなければならない。Edward Feser, Five Proofs of the Existence of God, Ignatius Press, San Francisco, 2017, p. 170-176も参照。
2 16John Henry Newman, An Essay in Aid of a Grammar of Assent, Burns, Oates & Co., Londres, 1870. 道徳的良心からの論証は第V章、« Apprehension and Assent in the Matter of Religion », §1 *« Belief in One God »*で展開されている。ニューマンは2019年10月13日に教皇フランシスコによって列聖された。
3John Henry Newman, An Essay in Aid of a Grammar of Assent, Burns, Oates & Co., Londres, 1870, ch. V, §1. フランス語の参照翻訳:Grammaire de l'assentiment, trad. Marguerite Paris, Bloud, Paris, 1907. 英語原典(Burns, Oates & Co.のテキスト、Project Gutenberg no. 34022で再現されたもので確認):« If, as is the case, we feel responsibility, are ashamed, are frightened, at transgressing the voice of conscience, this implies that there is One to whom we are responsible, before whom we are ashamed, whose claims upon us we fear. » 本文で与えられた翻訳はこの原典に忠実である。この論証は、抽象的な推論からではなく、人格的なまなざしを前提とする道徳的感情(恥、罪悪感、安堵)の現象学から、その力を引き出している。
4John Henry Newman, A Letter Addressed to His Grace the Duke of Norfolk on Occasion of Mr. Gladstone's Recent Expostulation, B. M. Pickering, Londres, 1875, section V « Conscience ». このテキストは、教皇に対するカトリック信者の忠誠をめぐる政治的論争への応答として書かれたもので、ニューマンの良心に関する教会論の最も完全な定式化を含んでいる。フランス語部分版:Conscience et papauté, préf. L. Bouyer, éd. du Cerf. 引用箇所の英語原典(1875年Pickering版、Newman Readerで再現されたもので確認):« [...] it is a messenger from Him, who, both in nature and in grace, speaks to us behind a veil, and teaches and rules us by His representatives. Conscience is the aboriginal Vicar of Christ [...] »(続きは列挙する:その情報による預言者、その権威による君主、その祝福と破門による司祭)。本文で与えられた翻訳はこの原典に忠実である。
5『カトリック教会のカテキズム』, § 1776、第二バチカン公会議, Gaudium et Spes, § 16, 7 décembre 1965を引用。公式フランス語テキストはvatican.vaにある。
6C. S. Lewis, Miracles : A Preliminary Study, Geoffrey Bles, Londres, 1947(1ʳᵉ éd. ; ch. III : « The Self-Contradiction of the Naturalist »);éd. révisée, Fontana, Londres, 1960(ch. IIIはElizabeth Anscombeの批判を受けて書き直された:« The Cardinal Difficulty of Naturalism »)。タイトルと引用は改訂版による。フランス語訳:Les Miracles, trad. Marguerite Faguer, Desclée de Brouwer, Paris, 1964. この論証は、Victor Reppert, C. S. Lewis's Dangerous Idea : In Defense of the Argument from Reason, InterVarsity Press, Downers Grove, 2003、およびAlvin Plantinga, Warrant and Proper Function, Oxford University Press, 1993, ch. 11-12(evolutionary argument against naturalism)によって深化された。
7C. S. Lewis, « Is Theology Poetry ? », exposé lu à l'Oxford Socratic Club le 6 novembre 1944 (publ. dans The Socratic Digest, vol. 3, 1945), repris dans The Weight of Glory and Other Addresses, éd. Walter Hooper, Macmillan/Collier Books, 1980. 英語原典の引用:« If minds are wholly dependent on brains, and brains on bio-chemistry, and bio-chemistry (in the long run) on the meaningless flux of the atoms, I cannot understand how the thought of those minds should have any more significance than the sound of the wind in the trees. »
8Matthieu Lavagna, op. cit., p. 114. Lavagnaは*« variante : la preuve par la raison »*を指摘し、とりわけVictor Reppert, « The Argument from Reason », in William Lane Craig et J. P. Moreland (dir.), The Blackwell Companion to Natural Theology, Wiley-Blackwell, 2009, p. 344-390 ; James Ross, « Immaterial Aspects of Thought », The Journal of Philosophy, vol. 89, 1992, p. 136-150 ; William Hasker, The Emergent Self, Cornell University Press, 1999に言及している。
9 14Matthieu Lavagna, Soyez rationnel, devenez catholique !, MDN Productions (diffusion Salvator), 1ʳᵉ éd. 2022 (éd. citée : avril 2023), p. 110. *« La preuve par la conscience »*の節の冒頭(著者の経歴紹介によれば初出は2022年)。
10Thomas Nagel, « What Is It Like to Be a Bat? », The Philosophical Review, vol. 83, n° 4, octobre 1974, p. 435-450. 意識経験の主観的性格に関する古典的な論文。
11Thomas Nagel, « What Is It Like to Be a Bat? », The Philosophical Review, vol. 83, n° 4, octobre 1974, p. 436. 英語原典の引用:« But fundamentally an organism has conscious mental states if and only if there is something that it is like to be that organism—something it is like for the organism. We may call this the subjective character of experience. »
12Daniel Stoljar, Physicalism, Stanford Encyclopedia of Philosophy, https://plato.stanford.edu/entries/physicalism/(1ʳᵉ publication 13 février 2001 ; révision substantielle du 16 septembre 2026)、2026年10月4日閲覧。閲覧した版には確かに*« Qualia and Consciousness »および« Intentionality »*の節があり、そこから本文の主張が導かれる。
13Matthieu Lavagna, op. cit., p. 112. 意識からの論証の三つの前提による定式化。
15Matthieu Lavagna, op. cit., p. 111. 意識的な存在の存在に関する有神論的説明と唯物論的説明の比較。
17『カトリック教会のカテキズム』, § 365. このパラグラフは、魂を身体の実体的形相とするトマス主義の形質質料説の教えを取り上げ、デカルト的二元論と区別している。公式フランス語テキストはvatican.vaにある。
18『カトリック教会のカテキズム』, §§ 362-366、第一部、第二セクション、第一章、第一項、パラグラフ6 « L'homme ». 公式フランス語テキストはvatican.vaにある。
19David J. Chalmers, « Facing Up to the Problem of Consciousness », Journal of Consciousness Studies, vol. 2, n° 3, 1995, p. 200-219. David J. Chalmers, The Conscious Mind: In Search of a Fundamental Theory, Oxford University Press, 1996で展開されている。
20David Chalmers, « Facing Up to the Problem of Consciousness », Journal of Consciousness Studies, vol. 2, n° 3, 1995, p. 201. 英語原典の引用:« even when we have explained … there may still remain a further unanswered question: Why is the performance of these functions accompanied by experience? »
21Matthieu Lavagna, op. cit., p. 112. 創発からの反論と、筆に依存する画家のアナロジー。
23Howard Robinson et Ralph Weir, Dualism, Stanford Encyclopedia of Philosophy, https://plato.stanford.edu/entries/dualism/, section 4.1 « The Knowledge Argument »(1ʳᵉ publication 19 août 2003 ; révision substantielle du 17 octobre 2025)、2026年10月4日閲覧。この固定版では、この論証は、生まれつき耳が聞こえず聴覚の専門家になった科学者Harpoの変形を通して提示されており、専門項目qualia: the knowledge argumentへの参照と、Jackson 1982(メアリーに関する原論文)の引用がある。
24Michel-Yves Bolloré et Olivier Bonnassies, Dieu, la science, les preuves, Trédaniel, 2021、参照したローカルPDF、PDFのp. 246:John C. Ecclesの引用。注でEvolution of the Brain: Creation of the Self(1ʳᵉ éd. Routledge, 1989 ; éd. brochée 1991、二次資料が引用)およびフランス語訳Évolution du cerveau et création de la conscience, Flammarion, 1994, p. 322に言及している。初版年は確認済み(Princetonのカタログ;ペーパーバック版の奥付:« First published in 1989, First published in paperback in 1991 »)。
25Michel-Yves Bolloré et Olivier Bonnassies, Dieu, la science, les preuves, Trédaniel, 2021、参照したローカルPDF、PDFのp. 248:脳刺激に関する研究の後の二元論的仮説に関するWilder Penfieldの立場の提示。一次資料:Wilder Penfield, The Mystery of the Mind : A Critical Study of Consciousness and the Human Brain, Princeton University Press, 1975。著者は脳神経外科医としてのキャリアの終わりに、二元論的仮説が最も合理的であると結論づけている。
26Michel-Yves Bolloré et Olivier Bonnassies, Dieu, la science, les preuves, Trédaniel, 2021、参照したローカルPDF、PDFのp. 250;本書の書誌注はRoger Sperry, Science and Moral Priority, Columbia University Press, 1983, p. 28に言及している(二次資料の注99は誤植で*« 1982 »*としている;1983年は確認済み:Sperryの公式書誌、Columbia University Pressのカタログ)。
27Matthieu Lavagna, op. cit., p. 114, note 135. Lavagnaは、いかなる神経科学的記述も、脳の微細構造と主観的印象の間の論理的必然性のつながりを現れさせることはないと明言している。
28Thomas Nagel, Mind and Cosmos : Why the Materialist Neo-Darwinian Conception of Nature is Almost Certainly False, Oxford University Press, New York, 2012, p. 35. 英語原典の引用:« Consciousness is the most conspicuous obstacle to a comprehensive naturalism that relies only on the resources of physical science. » ネーゲルは(p. 12で)自分自身は信者ではないと明示的に述べており、それが彼の診断の哲学的な射程を強めている。
29Thomas Nagel, Mind and Cosmos: Why the Materialist Neo-Darwinian Conception of Nature is Almost Certainly False, Oxford University Press, New York, 2012、Oxford Academicの編集要約:唯物論が意識や実在の他の心的側面を受け入れることができないなら、自然に関する純粋に唯物論的な理解を放棄しなければならない。
30『カトリック教会のカテキズム』, § 365:霊魂と身体の一体性は非常に深いので、霊魂を身体の形相とみなさなければならない。
31『カトリック教会のカテキズム』, § 366:各霊的霊魂は神によって直接創造され、両親によって生み出されるのではない。
32聖アウグスティヌス, Confessions, I, 1, 1. ラテン語テキスト:« Fecisti nos ad te et inquietum est cor nostrum, donec requiescat in te. » 紀元後397-401年頃に書かれた。参照翻訳:trad. Arnauld d'Andilly (1649), rééd. dans les Œuvres de saint Augustin, Bibliothèque augustinienne, vol. 13-14, Desclée de Brouwer, Paris.
33