十字軍(1095-1291)

十字軍(1095-1291)は、今も教会に対する大きな反論であり続けている。本記事は、事実、正戦、実際の暴力、1204年のコンスタンティノープル、ヨハネ・パウロ2世の赦しの要請を区別する。

Ignispedia

十字軍とは、教皇庁が1095年11月27日から開始した軍事的かつ償いの遠征である。この日、教皇ウルバヌス2世はクレルモン公会議において、西方の騎士たちに東方のキリスト教徒を救援し、聖地へのアクセスを再び開くよう呼びかけた[1]。十字軍は1291年のサン・ジャン・ダクル陥落まで、ほぼ2世紀にわたり、聖地だけにとどまらなかった。再征服されたスペイン、カタリ派のラングドック、バルト諸国にまで及んだ。

この問題は護教上、爆発的である。左派からは、十字軍は宗教的植民地主義の典型、平和な東方に対する根拠のない西方の侵略として描かれる。右派では、一部のカトリック護教論がその逆を戯画化する。汚れのない十字軍、過剰さのない、文明の純粋な防衛である。どちらの物語も誤りである。誠実な読み方は、実際のビザンツ側の要請、正戦の教理、軍事的成功、記録された虐殺、1204年の逸脱、そして聖ヨハネ・パウロ2世が2000年の聖年に求めた記憶の浄化を、共に保持する。

以下の記事は、この問題を一つずつ取り上げる。7世紀から11世紀のキリスト教世界の状況、ウルバヌス2世の呼びかけ、ここで採用する古典的な区分による8回の遠征、1099年7月15日のエルサレム占領、1204年のコンスタンティノープル略奪、カトリックの正戦の教理、強制改宗に対する一貫した非難、現代の10の大反論、そしてヨハネ・パウロ2世の赦しの要請である。一次資料は基準版とともに引用する。フランス語の表現が逐語引用ではなく言い換えによる要約である場合、その旨を注に明示する。

「そこへ向かう者は皆、陸路であれ海路であれ、異教徒と戦うのであれ、途中で命を終えるなら、その場で罪の赦しを得るであろう。」 — シャルトラのフーシェ『エルサレム史』I, 3 の版。1101年頃執筆。1095年11月27日にクレルモン公会議でウルバヌス2世が行った演説の逐語記録ではなく、修辞的な再構成である(注に引くラテン語本文に基づく翻訳)[2]

十字軍問題を再び開く理由

資料に入る前に、根底にある反論を名指ししなければならない。多くの現代の読者にとって、「十字軍」という言葉は、そのまま教会への即時の断罪に等しい。カトリックの答えは、矮小化することでは足りない。区別しなければならない。

まず区別すべきは、教皇庁の制度(教会法によって成文化された、武装した償いの巡礼)と、中世の軍隊の具体的な振る舞い(突撃で占領した都市に入った中世のあらゆる軍隊と同様に、残虐になり得た)である。次に区別すべきは、記録されたビザンツ側の要請に応えた第1回十字軍と、教皇インノケンティウス3世の明示的な意志に反してコンスタンティノープルへ逸脱した第4回十字軍である。最後に区別すべきは戦域である。聖地、イベリア半島、ラングドック、バルト。これらは同じ問題ではなく、一緒に裁けば別々の問題を混同することになる。

1980年代以降、十字軍に関する大学の研究を刷新した英国の歴史家ジョナサン・ライリー=スミスは、学界の立場を要するに次のように要約する。十字軍は正戦の基準に応えていた。なぜなら、キリスト教徒やその教会に対する攻撃への反応として生まれたからである[3]。

この防衛的反応というテーゼは、とりわけライリー=スミスと米国の歴史家トマス・マッデンが擁護している[4]。一般向けには、宗教社会学者ロドニー・スターク(中世史家ではない)が引き継いでいる。これに対してオックスフォードの歴史家クリストファー・タイヤーマンは、十字軍を植民地的とするマルクス主義的な読み方も拒否しつつ、このテーゼには同意しない。十字軍の政治的・領土的動機を強調し、純粋に防衛的であるという読み方に異議を唱えている[5]。以下の記事は前者の歴史学に立ち、実際の暴力については誠実であり続ける。

1095年以前のキリスト教東方

クレルモンの呼びかけを理解するには、4世紀さかのぼらなければならない。十字軍は1095年に空から降ってきたのではない。7世紀以来続く地政学的な崩壊に応えるものである。

7世紀のイスラムによる大征服

632年にムハンマドが死んだ時点で、地中海沿岸は圧倒的にキリスト教徒であった。シリア、パレスチナ、エジプト、キレナイカ、北アフリカ、西ゴートのイスパニア。いずれも福音書、公会議、教父たちの土地であった。聖アウグスティヌスは430年にヒッポで死に、聖ヒエロニムスはベツレヘムでウルガタを翻訳し、アレクサンドリアの聖キュリロスは431年にエフェソス公会議を主宰した。

1世紀も経たないうちに、この世界は軍事的に崩壊する。636年8月に行われた(日にち単位の年代決定は歴史家の間で議論がある)ヤルムークの戦いで、皇帝ヘラクレイオスのビザンツ軍は打ち破られた。ダマスカスは635年頃、アンティオキアは637年末、エルサレムは637-638年、エジプトは639年から642年の間、キリスト教の北アフリカは647年から698年の間、西ゴートのイスパニアは711年に陥落した[6]。拡大は、ピレネー方面では**ポワティエ(732年)で、東方ではコンスタンティノープル(674-678年と717-718年の包囲)**で止まった。

こうしてキリスト教世界は、数世代のうちに、かつての領土の3分の2を失った。この事実は大衆的な物語ではめったに想起されないが、十字軍問題における最初の真実である。

宗教社会学者ロドニー・スタークが要するに書いているように、70年のうちにアラブ人はキリスト教から古代世界の3分の2を奪った。十字軍はキリスト教の侵略の始まりではなく、はるかに大規模な征服の波に対する、遅れてきた限定的な反応である[7]。

脆弱化したキリスト教徒の巡礼

3世紀の間、エルサレムへの巡礼は可能であり続けたが、現地のイスラム政権によって条件は変わった。ウマイヤ朝、次いでアッバース朝、次いでファーティマ朝は、dhimmi(「保護民」)の地位と、非イスラム教徒に特有の税である jizya の支払いと引き換えに巡礼を認めた。平たく言えば、キリスト教徒は信仰を保つことができたが、特別な税を払い、二級市民であり続けた。

2つの重大な出来事がラテン側の記憶に刻まれている。

第一に、1009年、ファーティマ朝のカリフ、アル=ハーキム・ビ=アムル・アッラーが、命令によって聖墳墓を破壊させた。聖堂は取り壊された。アンティオキアのメルキト総主教ヤフヤー・イブン・サイード(1066年頃没)の年代記が、その詳細な記述を伝えている[8]。聖堂は1048年からビザンツ側によって再建されるが、この出来事はトラウマとして残った。イスラム政権による聖地の永続的な保護は保証されないことを証明したからである。

次に、1070年代から、スンナ派のセルジューク・トルコ人が、シーア派のファーティマ朝に代わってパレスチナの支配を握る。この新たな支配者は予測が難しく、巡礼路は危険になり、巡礼の輸送を担っていたイタリアの商人(ヴェネツィア、ピサ、アマルフィ)は不安定さの増大を証言した。

1071年マンジケルトとアレクシオス・コムネノスの呼びかけ

1071年8月26日、マンジケルト(東アルメニア、現在のトルコのマラズギルト)において、皇帝ロマノス4世ディオゲネスのビザンツ軍は、セルジューク朝のスルタン、アルプ・アルスラーンの軍に粉砕された[9]。皇帝は捕虜となった。8世紀以上ぶり(260年のウァレリアヌス以来)の前代未聞の出来事であった。この知らせはキリスト教世界を震撼させた。

ビザンツにとって結果は壊滅的であった。10年のうちにセルジューク人は、ビザンツ帝国の軍事的・農業的・財政的中心であるアナトリアのほぼ全域を奪った。7世紀以来、帝国が被った最も激しい領土の切断であった。

この状況の中で、1081年に即位した皇帝アレクシオス1世コムネノスは、ラテン西方に軍事援助を明示的に要請した。娘のアンナ・コムネナは、1148年頃に書いた『アレクシアス』の中で、ビテュニアにおけるトルコ人の進攻に苦しむ皇帝を描き、一方で隠者ピエールの説教が西方に前例のない規模の運動を巻き起こしたことを記している[10]。ビザンツ側の正式な要請は、ラテン側で記録されている。1095年3月、ピアチェンツァの公会議において、アレクシオスの使節がウルバヌス2世の前で公に、トルコ人に対するラテン人の救援を求めた[11]。

アレクシオス1世コムネノス。西方への軍事援助の要請がクレルモンの呼びかけに先行したビザンツ皇帝。Wikimedia Commons の歴史的画像。

歴史家ジョナサン・ライリー=スミスの読み方によれば、ビザンツからのこの明示的で繰り返された要請がなければ、十字軍は存在しなかった。クレルモンの呼びかけは、帝国主義的な教皇の自発的な発案ではない。軍事援助を求める東方の要請に対するラテン側の応答である[12]。

クレルモン、1095年11月27日。十字軍の誕生

教皇ウルバヌス2世は、元クリュニー修道士で、1088年に選出され、大グレゴリウス改革の直接の継承者であった。教皇権威の再確認、俗世界の君主に対する教会の解放、シモニアとニコライティズムの拒否である。1095年の彼の決断は、騎士道との関係においても、この改革を延長するものである。

公会議とその状況

1095年11月18日から28日まで、ウルバヌス2世はオーヴェルニュのクレルモンで地方公会議を主宰した。会議はまず内部の問題を扱った。神の休戦、姦通によるフィリップ1世の破門、教会の規律である。しかし11月27日、群衆を受け入れるため市外の野原で、ウルバヌス2世は演説を行い、それが歴史を変えた。

逐語記録は伝わっていない。4人の年代記作者が、数年後にそれぞれの版を書いた。

年代記作者地位記述の年代クレルモンにいたか
シャルトラのフーシェ司祭、十字軍参加者、ボードゥアン1世の年代記作者1101年頃おそらく(議論あり)
修道士ロベールスニュクの修道院長1107-1120年頃本人はいたと主張
ドルのボードリ1095年にブルグイユ修道院長、1107年にドル大司教1107年頃はい(非常に可能性が高い)
ノジャンのギベールベネディクト会修道院長1109年頃いいえ(間接証言)

4つの版は正確な表現では異なるが、4点で一致する。(1) 東方のキリスト教徒への救援の呼びかけ、(2) 聖地に対するトルコ人の脅威、(3) 武装した巡礼としての十字を取ること、(4) 罪の赦しである。歓呼の叫び « Deus vult »(「神がそれを望まれる」)は、修道士ロベールだけが伝えている(後述)。2人の出席は今も議論されている。フーシェの出席は一般に認められているが議論があり、ボードリの出席は最近の歴史学では非常に可能性が高いとされている[13]。

4つの物語、1つの同じ核心

シャルトラのフーシェは、騎士の暴力を方向づけることを強調する。

「かつて信徒に対して私的な戦争で邪悪に争うことに慣れていた者たちは、今や不信者に対して戦い、すでに始まっているべきであった戦争を勝利の結末へ導くように。かつて強盗であった者たちは、今や兵士となるように。」 — ウルバヌス2世、シャルトラのフーシェ版『エルサレム史』I, 3[14]

修道士ロベールは、演説の最中に湧き上がったとされる民衆の大歓呼を描く。

「神をまったく知らない民族、心を向けず、霊を神に委ねなかった世代が、それらのキリスト教徒の土地に侵入し、略奪と火によって荒廃させた。では、これらの不正を復讐し、この領土を取り戻す務めは、神が他のどの民よりも多くを与えたあなた方以外に、誰に課せられるのか。」 — ウルバヌス2世、修道士ロベール版『エルサレム史』1107-1120年頃[15]

ロベールによれば、演説の終わりに 「出席者全員が一つの声で叫んだ。“神がそれを望まれる。神がそれを望まれる。”」 — « Deus vult ! Deus vult ! »[16]。ウルバヌス2世は、この歓呼を十字軍参加者の戦いの叫びとするよう命じたとされる。

ドルのボードリは、抑圧された東方のキリスト教徒に対して負う償いの側面を強調する。

「あなた方、子どもたちの抑圧者、未亡人たちの略奪者よ、(……)キリストの騎士として勇敢に進み、東方教会の防衛へ急ぎなさい。」 — ウルバヌス2世、ドルのボードリ版『エルサレム史』1107年頃[17]

最後にノジャンのギベールは、摂理的な側面を強調する。

「全能の神が、あなた方を通してエルサレムをそのような衰退から回復するために、あなた方をこの目的のために取っておかれたのかもしれないことを考えなさい。」 — ウルバヌス2世、ノジャンのギベール版『フランク人を通した神の業』1109年頃[18]

フランスの中世史家ジャン・フロリは、基準となる大著『聖戦。キリスト教西方における十字軍理念の形成』(Aubier、2001年)の中で、これら4つの物語は修辞的な再構成であり、精神においては忠実だが、各著者が読者と神学に応じて手を加えたものであることを示している[19]。ウルバヌス2世の_本当の_演説は保存されていない。しかし4人の証人に共通する核心は確かである。

十字軍の免償。それが何であり、何でないか

クレルモンの大きな神学的革新は、十字軍の免償である。平たく言えば、教会は悔い改めた十字軍参加者に、神に捧げられたこの長く危険な旅が、すでに赦された罪に対してなお値する罰に代わるのだと告げた。それは公会議のカノン2に記されている(Mansi『Sacrorum conciliorum nova et amplissima collectio』XX、col. 815-816 による)。

「ただ信心のためだけに、名誉や金銭を得るためではなく、神の教会を解放するためにエルサレムへ出発する者は皆、その旅があらゆる償いに代えて数えられるであろう。」 — クレルモン公会議カノン2、1095年[20]

このカノンは正確である。「イスラム教徒を殺す者は皆、直ちに天国へ行く」とは言っていない。「純粋な信心によって、教会を解放するためにエルサレムへの巡礼を果たす者は皆、その旅が完全な償いとして数えられるのを見るであろう」と言っている。3つの明確化が必要である。

第一に、条件は「ただ信心のためだけに、名誉や金銭を得るためではなく」である。免償は、戦利品や栄光のために出発する者を対象としない。基準は内面的である。

第二に、免除されるのは、すでに犯され告白された罪の有限の罰であり、将来の罪ではない。免償は告白と悔い改めを前提とする。カトリックの教理は、当時も今も、将来の犯罪に対する予防的な赦しを決して与えたことはない。

第三に、十字軍の免償は、すでに古い制度の適応である。巡礼に転換された教会法上の償いである。8-9世紀以来、教会は一部の重い罪人に対して、定められた罰の代わり、あるいは補完として、サンティアゴ・デ・コンポステーラ、ローマ、エルサレムへの長期の巡礼を課していた。クレルモンはこの論理を武装した巡礼に適用した。エルサレムへの道が今や軍事的に危険になったからである。

用語に注意したい。「全免償」という専門表現は1095年より後のものである。カノン2は「あらゆる償いに代えて数えられる」旅について語っている。この譲歩の中に最初の十字軍免償を認めるのは、現代の歴史学である[21]。

オックスフォードの教授である歴史家クリストファー・タイヤーマンは、この論理を要するに次のように要約する。償いがなければ、十字軍は説明できない。十字軍はまず償いの行為であり、その軍事的側面は聖地の解放に仕える[22]。

より広い教会改革

クレルモンの呼びかけは、グレゴリウス7世(1073-1085年)が開始したグレゴリウス改革の中に位置する。この改革には3つの軸がある。俗世界の君主に対する教会の解放(叙任権闘争)、最高の教導職としての教皇権の再確認、そして 神の休戦 と 神の平和 による騎士の暴力の方向づけである。

十字軍はこの最後の軸を延長する。西方の騎士たちに、農民や聖職者を荒らす私的な戦争で互いに殺し合わせる代わりに、その暴力を、防衛的と判断される大義、すなわち聖地の解放と東方キリスト教徒の救援へ向けるのである。

中世史家ジョナサン・ライリー=スミスは、十字軍参加者の寄進状や遺言状(出発前に財産を売り、勘定を清算したもの)の調査によって、第1回十字軍参加者の大多数が出発で金を失ったことを示している。長旅、高価な装備、膨大な死亡率、戦利品への乏しい希望である。これは、「財産を求める次男たちの捌け口としての十字軍」という古典的なマルクス主義テーゼを否定する[23]。

ジョナサン・ライリー=スミスは要するに、教皇と説教者たちが十字軍を慈愛の行為、すなわち神と隣人への愛として提示し、十字軍参加者は侵略を押し返し、東方教会を回復するよう呼ばれたことを示している[24]。

8回の遠征としての十字軍

Ignispediaオリジナル・インフォグラフィック。1095年から1291年までの十字軍の経路と年表。AIで作成したIgnispediaオリジナル・インフォグラフィック。

歴史学は伝統的に、1095年から1291年の間に聖地への8回の大十字軍を区別する。二次的な遠征(民衆十字軍、歴史的な性格が議論されている1212年のいわゆる「少年十字軍」の企て、バルト十字軍、アルビジョワ十字軍、スペインの十字軍)は数えない。ここで採用する古典的な数え方は次の通りである。エドワード王子(後のエドワード1世)の1271-1272年の遠征は、一部の英語圏の歴史家が「第9回十字軍」と番号づけるが、独立した遠征としては数えず、レヴァント以外の戦域(バルト、ラングドック、スペイン)は別の問題に属する[25]。各遠征には、それぞれの背景、主唱者、評価がある。

第1回十字軍(1096-1099年)

クレルモンで開始され、3つの大きな波で出発し(1096年8月)、バルカン、コンスタンティノープル、アナトリアを横断した。主要な段階は次の通りである。

  • ドリュラエウムの戦い(1097年7月1日)。セルジューク朝のスルタン、クルチ・アルスラーンに対するキリスト教側の決定的な勝利。
  • アンティオキア包囲(1097年10月21日 - 1098年6月3日)。7か月に及ぶ極めて過酷な包囲、飢饉、脱走、次いで聖槍の発見(1098年6月14日)が、ケルボガに対する勝利(1098年6月28日)の前に包囲された者たちを再び奮い立たせた。
  • エルサレム包囲と占領(1099年6月7日 - 7月15日)。後述の専用の節を参照。

西方の主要な王を欠いた遠征が、その目的を達成した。4つのラテン国家が建国された。エデッサ伯国(1098年)、アンティオキア公国(1098年)、エルサレム王国(1099年)、トリポリ伯国(1102年)。

第2回十字軍(1145-1149年)

エデッサ伯国の陥落が引き金となった。1144年12月24日、モースルのザンギーに占領された。聖ベルナルド・ド・クレルヴォーの元弟子である教皇エウゲニウス3世は、1145年12月1日に、厳密な意味での最初の大十字軍教皇勅書『Quantum praedecessores』を公布した。

聖ベルナルド・ド・クレルヴォーは、1146年3月31日(復活祭の日)、ヴェズレーにおいて、フランス王ルイ7世の前で、自ら十字軍を説いた[26]。年代記は、群衆が非常に多くの布の十字架を求めたため、ベルナルドの衣を引き裂いてさらに作らなければならなかったと伝えている。

エミール・シニョール『1146年、ヴェズレーで第2回十字軍を説く聖ベルナルド』ヴェルサイユ美術館。Wikimedia Commons の歴史的画像、パブリックドメイン。

軍事的な評価は、1148年7月のダマスカス前面での惨敗である。準備不足の4日間の包囲の後である。傷ついた聖ベルナルドは、エウゲニウス3世に宛てた『De consideratione』の中で、敗北に対する痛みを表明する。東方のキリスト教徒の民が打たれ、彼自身もその打撃の下に身をかがめている[27]。

第3回十字軍(1189-1192年)

ハッティンの壊滅的な敗北(1187年7月4日)が引き金となった。サラディンが王ギー・ド・リュジニャンの軍を粉砕し、1187年10月2日にサラディンがエルサレムを再征服した。この知らせはヨーロッパを震撼させ、教皇グレゴリウス8世は1187年10月29日に勅書『Audita tremendi』を公布した。

3人の王が出発した。フリードリヒ・バルバロッサ(1190年6月10日、キリキアで溺死)、フランスのフィリップ・オーギュスト、イングランドのリチャード獅子心王である。アッコの再征服(1191年7月12日)、サラディンに対するアルスーフの勝利(1191年9月7日)。しかしエルサレムは再征服されなかった。それでも合意(1192年9月2日のヤッファ条約)は、3年間、街路でも聖墳墓でも、キリスト教徒巡礼者のエルサレムへの自由なアクセスを保証した[28]。

第4回十字軍(1202-1204年)。大きな逸脱

1198年から教皇インノケンティウス3世が開始した。地中海経由でアイユーブ朝のエジプトを狙うはずであった。遠征は道徳的な破局へと変貌した(後述の専用の節を参照)。

第5回・第6回十字軍(1217-1229年)

第5回十字軍(1217-1221年)は再びエジプトを狙った。ダミエッタ占領(1219年11月5日)だが、ナイル川の氾濫のためカイロ前面で惨敗した(1221年8月)。注目すべきは、アッシジの聖フランチェスコが1219年9月にイスラム側の陣営でスルタン、アル=マリク・アル=カーミルと会い、平和的な改宗への働きかけを試みたことである[29]。

第6回十字軍(1228-1229年)は、皇帝フリードリヒ2世ホーエンシュタウフェンが率いた。出発のまさにその時点で、グレゴリウス9世に破門されていた。フリードリヒはアル=マリク・アル=カーミルと外交交渉を行い、1229年2月18日のヤッファ条約によって、エルサレム、ベツレヘム、ナザレのキリスト教王国への平和的な返還を得た。軍事行動を伴わない唯一の十字軍であり、エルサレムの唯一の外交的回復である。

聖ルイと第7回・第8回十字軍(1248-1270年)

フランス王ルイ9世、聖ルイは、1248年8月25日に約15,000人の兵と共に出航した[30]。第7回十字軍(1248-1254年)はダミエッタを占領し(1249年6月)、次いでマンスーラ前面で失敗した。1250年2月8日、十字軍の前衛はそこで粉砕された。ダミエッタへ退却する途中、ルイ9世は1250年4月6日にファリスクールでマムルークに捕らえられ、1250年5月6日に、部下のために500,000リーヴル・トゥルノワ、すなわち100万の金ベザントの身代金と、自身のためにダミエッタの返還と引き換えに解放された。ジョワンヴィルの記述による[31]。

チュニスへ出航する聖ルイ、歴史的な表現。Wikimedia Commons、パブリックドメイン。

第8回十字軍(1270年)はチュニスを狙った。聖ルイはそこで病気で死んだ。1270年8月25日、チュニスの前面である(中世の伝承は「ペスト」と語る。現代の遡及的な診断は赤痢を優先する)[32]。伝承は、彼の最後の言葉はエルサレムのためであったと伝えている[33]。

アッコ陥落(1291年)とラテン国家の終わり

1291年5月18日、6週間の包囲の後、マムルーク朝のスルタン、アル=アシュラフ・ハリールは、時代の資料が最大220,000人と数える膨大な軍でサン・ジャン・ダクルを占領した。現代の歴史家が非常に誇張されていると判断する兵力である。テンプル騎士団の城塞はさらに10日持ちこたえ、5月28日に陥落した。最後のキリスト教側拠点(ティルス、シドン、ベイルート、トルトーザ、シャトー・ペルラン)は、その夏に降伏するか避難した[34]。

1291年のサン・ジャン・ダクル包囲、聖地における最後のラテン側大拠点。Wikimedia Commons の歴史的画像、パブリックドメイン。

これは聖地のラテン国家の終わりである。パレスチナへ向けた大十字軍はもはや開始されず、騎士修道会(テンプル騎士団、聖ヨハネ騎士団)はヨーロッパへ退いた。

1099年7月15日のエルサレム占領

1099年のエルサレム占領を表す中世のミニアチュール。Wikimedia Commons の歴史的画像、パブリックドメイン。

この中心的な出来事には、十字軍に対する最大の否定的な護教上の重みが集中している。同情なく、しかし戯画化もなく、見つめなければならない。

5週間の包囲

十字軍の軍は1099年6月7日にエルサレムの前に到着した。現代の軍事史家(Kostick、France)の推定によれば、都市は約3,000から4,500人のファーティマ朝守備隊(うち400人のエジプト精鋭騎兵)に守られ、約12,000から15,000人の十字軍参加者(歩兵11,000-12,000人、騎士1,200-1,300人)と向かい合っていた[35]。

6月13日の最初の攻撃は失敗した。6月17日、ジェノヴァとイングランドの船がヤッファに到着し、攻城塔の建設に必要な木材をもたらした。十字軍参加者は3週間で2基の移動式攻城塔を建てた。7月8日、断食と城壁の周りを裸足で回る行列が、最後の攻撃に先行した。1099年7月15日、正午頃、ラテン側年代記によれば、トゥルネーのレトルドゥスが最初に城壁に登り、ゴドフロワ・ド・ブイヨンが続いた[36]。

ラテン側年代記作者の物語

3人のラテン側年代記作者が、占領に続く虐殺を証言している。

Gesta Francorum et aliorum Hierosolimitanorum。出来事に近い匿名の資料(1100-1101年頃、ノルマン人部隊の十字軍参加者によって執筆)。

「ソロモンの神殿まで、進みながら殺し続けた。そこでは殺戮が激しく、我々の者たちは彼らの血の中に足首まで足を入れていた。」 — 『Gesta Francorum』第10巻第38章、1100年頃(Hill版に基づき再構成した翻訳。ラテン語本文は注に)[37]

アギレールのレイモン。サン=ジル伯レイモンの従軍司祭、目撃者。

「真実を言えば、それはあなた方の信じる力を超えるであろう。ソロモンの神殿と柱廊では、膝まで、そして馬のくつわまで血の中を騎行した、と言うだけで十分である。」 — アギレールのレイモン『エルサレムを占領したフランク人の歴史』1100年頃[38]

シャルトラのフーシェは、神殿での**「10,000人近くの死者」**に言及している。典型的に中世的な修辞表現(丸い数字、象徴的な価値)である。

これらの物語は誰も容赦しない。イスラム教徒の男も女も子どももである。エルサレムのユダヤ人共同体の一部は、主要なシナゴーグの火災で死んだ(イブン・アル=カラーニスィーによる)。

イスラム側資料とカイロの手紙

12世紀と13世紀のイスラム側資料は、非常に高い数字を与える。1230年頃に書いたイブン・アル=アスィールは、アル=アクサー・モスクで70,000人以上の死者と語っている[39]。この数字は、包囲の現代の専門家、コナー・コスティック[40]もベンヤミン・ケダー[41]も、大幅に誇張されていると判断している。当時のエルサレムの総人口は、田園地帯から流入した避難民を含めても、最大で20,000-30,000人と推定されるからである。

カイロのゲニザ(ベン・エズラ・シナゴーグで発見されたユダヤ人文書の保管庫)に保存された重要な文書が、新たな証言を与えている。包囲の直後に、アシュケロンにいたユダヤ人が書いた手紙で、ユダヤ人とキリスト教徒の捕虜の身代金と都市の占領を記述している。ケダーは、このゲニザの手紙はほぼ同時代の証言(アスカロンの手紙、1100年頃)であると強調する。暴力を裏づけるが、捕虜の買い戻しにも言及し、後のイスラム側年代記作者よりもニュアンスのある像を与えている[42]。

現代の歴史家は何と言うか

現在の推定は、15,000-30,000人と評価される残留人口に対して、3,000から10,000人の死者に収束している。コナー・コスティックは『The Siege of Jerusalem: Crusade and Conquest in 1099』(Continuum、2009年)の中で、中世の数字は修辞的であり、勝利の宗教的意味を増幅するため、あるいはイスラム側の憤慨を動員するために考えられたもので、現代の人口調査として読んでは決してならないことを示している[43]。

ジョナサン・ライリー=スミスも、しばしば忘れられる事実を強調する。突撃で占領した都市の虐殺は、中世の戦争法の規範であり、キリスト教徒、イスラム教徒、ビザンツ人に共有されていた。ハッティンの翌日(1187年7月4日)、サラディン自身、捕虜となったテンプル騎士団員と聖ヨハネ騎士団員を処刑させた[44]。イスラム教徒の手に落ちたビザンツの都市も同じ運命をたどっていた。エルサレムの虐殺は、唯一のものでも、典型的にキリスト教的なものでもない。典型的に中世的なものである。

これは犯罪を道徳的に正当化しない。カトリック教会のカテキズムは、「非戦闘員、負傷した兵士、捕虜を尊重し、人間的に扱わなければならない」(CEC §2313)と想起する。しかし教会の誠実な擁護は、流された血を否定することにはない。中世の戦争の論理の中にそれを位置づけることにある。そこではキリスト教徒、イスラム教徒、ユダヤ人が同じ残酷な慣行を共有していた。

誠実な評価

確かなカトリックの立場は、4点を共に保持する。

  1. 虐殺は記録され、証明されている。 カトリック護教論はそれを否定しない。
  2. 中世の数字は修辞的である。 現代の推定は70,000人ではなく、数千人の死者の規模である。
  3. 突撃で占領した都市の略奪は中世の規範であった。 これは十字軍参加者を無罪にするものではないが、「キリスト教徒は特に野蛮であった」という議論を取り除く。
  4. 福音は虐殺を神聖化しない。 ヨハネ・パウロ2世は2000年に、教会の名において、その種の行為で息子たちが犯した過ちについて赦しを求めた。

コンスタンティノープル略奪(1204年4月)

ウジェーヌ・ドラクロワ『コンスタンティノープルに入る十字軍参加者』1840年、ルーヴル美術館。Wikimedia Commons の歴史的画像、パブリックドメイン。

エルサレム占領がこの問題の辛い瞬間だとすれば、コンスタンティノープル略奪は恥ずべき瞬間である。ここでは、カトリック護教論には提供すべき言い訳は何もない。この出来事は教皇庁によって直ちに非難され、教会はこの判断を何度も繰り返し、2001年のヨハネ・パウロ2世の公の赦しにまで至った。

ヴェネツィアと政治による逸脱

教皇インノケンティウス3世は、選出の当初(1198年)から十字軍を説き、明確な目的を持っていた。アイユーブ朝のカイロを攻撃し、エジプト経由でエルサレムを奪還することである。十字軍参加者(12,000人、主にフランス・フランドル人)は1202年にヴェネツィアに集まった。しかし部隊は、ヴェネツィアとの契約で予定された33,500人を大幅に下回っていた。

90代で盲目の総督エンリーコ・ダンドロの下で、ヴェネツィア共和国は建造した船の全額支払いを要求した。資金が不足したため、十字軍参加者は恥ずべき取引を受け入れた。ヴェネツィアのために、キリスト教都市ザラ(ザダル、現在のダルマツィア、当時はカトリックのハンガリー王冠の下)を攻撃することである。

ザラは1202年11月24日に陥落した。教皇インノケンティウス3世は知らせを聞き、十字軍参加者全員を直ちに破門した[45]。1203年2月、彼はヴェネツィア人以外の十字軍参加者(フランス・フランドル部隊)の破門を解き、ヴェネツィアはその対象であり続けた。

次いでアレクシオス4世アンゲロスが介入した。亡命中のビザンツ皇子で、コンスタンティノープルの玉座奪還を助けるなら、財産とギリシャ教会のローマへの服従を十字軍参加者に提案した。すでにザラで妥協していた部隊は受け入れた。1203年7月の第一次コンスタンティノープル包囲で、アレクシオス4世は即位した。しかし彼は約束を守らず、1204年1月27日から28日の夜に廃位され、1204年2月8日に獄中で絞殺された[46]。十字軍参加者はそこで、自らの計算でコンスタンティノープルを包囲することを決めた。

1204年4月12日、連合攻撃が防御を崩し、都市は4月13日に陥落した。続いて3日間の略奪(4月13-15日)が行われ、その野蛮さは今も世界史に刻まれている。ビザンツの年代記作者ニケタス・コニアテスは目撃者として、教会の略奪、修道院での修道女への強姦、聖ソフィアの主祭壇上での踊りに扮した売春、聖遺物(聖なる冠や、現在ラテン側の宝物庫にある真の十字架の多くの断片を含む)の持ち去りを記述している[47]。

インノケンティウス3世の即時の非難

教皇インノケンティウス3世は、数週間後に知らせを聞いた。彼は使節サン・マルチェッロの枢機卿司祭ピエールに宛てて、1205年7月12日付の燃えるような書簡を書いた(Brundage訳、Fordham版の ep. 136。批判版の登録簿 VIII, n° 134。旧第8巻 ep. 133。『Patrologia Latina』vol. 215, col. 699-702)。

要するに、教皇は十字軍参加者が聖地を見捨ててキリスト教徒を攻撃したことを非難している。年齢も性別も容赦されず、近親相姦、姦淫、淫行が白昼堂々と行われ、聖なる場所は冒涜され、十字架と聖遺物は持ち去られ、祭壇の銀器は引き剥がされ、粉々にされた[48]。

そして最も厳しい一文は、正教会側の永続的な疎隔を予言している。

「ギリシャ人の教会が、どうして教会の一致に戻ることができようか。ラテン人の中に破滅の模範と闇の業しか見ず、今やラテン人を犬以上に憎むようになったのに、しかも理由なくしてではないのに。」 — インノケンティウス3世、サン・マルチェッロのピエール使節への同じ書簡、1205年7月12日[49]

誠実な読み方は明らかである。当時の教皇は、可能な限り最も厳粛な仕方で、コンスタンティノープル略奪を非難した。教会がこの行為を神聖化したと主張できるカトリック教徒は誰もいない。

2001年のヨハネ・パウロ2世の赦し

8世紀後の2001年5月4日、教皇ヨハネ・パウロ2世はアテネ訪問の際、ギリシャ教会聖シノドの座で正教会の大主教クリストドゥロスと会った。教皇は公に発言し、こう言った。

「私は、東方におけるキリスト教世界の長きにわたる砦であった帝都コンスタンティノープルの劇的な略奪を思います。キリスト教徒の聖地への自由なアクセスを保証するために出発した襲撃者たちが、信仰における兄弟たちに矛先を向けたことは悲劇です。ラテン系キリスト教徒がそこに参加していたという事実は、カトリック教徒を深い後悔で満たします。」 — ヨハネ・パウロ2世、クリストドゥロス大主教への演説、アテネ、2001年5月4日(公式フランス語逐語記録に基づき再構成した引用)[50]

そして明示的な赦しの要請である。

「カトリック教会の息子たちと娘たちが、過去と現在、あらゆる機会に、正教会の兄弟姉妹に対して、行いと怠りによって罪を犯したことについて、主が、私たちが主に求める赦しを私たちに与えてくださいますように。」 — ヨハネ・パウロ2世、アテネ、2001年5月4日(公式フランス語逐語記録に基づき再構成した引用)[51]

カトリックの正戦の教理

説明図。聖トマス・アクィナスによる正戦の累積的な3条件。AIで作成したIgnispediaオリジナル・インフォグラフィック。

十字軍を裁くためには、カトリックの戦争の教理を知らなければならない。それは全面的な平和主義でも、一般化された聖戦でもなく、厳格に枠づけられた正戦である。

聖アウグスティヌスと愛による戦争

基礎を据えたのは聖アウグスティヌス(354-430年)である。『神の国』の中で、彼は私的な暴力(福音の原則によれば、自己防衛においてキリスト教徒には常に禁じられる)と、無実の者を守り、不正な者を罰するために正当な権威が行使する公的な暴力を区別した。

「戦争を行う者たちは、平和が続くために戦争を行う。そして軍事行動に従事する者たちは皆、戦争を行っているときでさえ、その武器によって平和を求めている。」 — 聖アウグスティヌス『神の国』第19巻第12章、426年頃[52]

アウグスティヌスにとって、戦争は、無実の者を守るために行われるとき、隣人愛の行為となり得る。これは決定的な点である。力によって無実の者を守るキリスト教徒は、福音と矛盾していない。彼は時の秩序において慈愛を果たしているのである。

聖トマス・アクィナス。3つの条件

8世紀後、聖トマス・アクィナス(1225-1274年)は、『神学大全』IIa-IIae、第40問題第1項において、正戦の累積的な3条件を体系化した。

「戦争が正しいものであるためには、3つの条件が必要である。第一は君主の権威であり、その命令によって戦争が行われなければならない。(……)第二は正当な原因であり、攻撃される者たちが何らかの過ちによって攻撃されるに値することである。(……)第三は戦う者たちの正しい意図であり、善を促進すること、あるいは悪を避けることを目指すことである。」 — 聖トマス・アクィナス『神学大全』IIa-IIae, q. 40, a. 1、1271-1272年頃[53]

3条件は累積的である。3つすべてが必要であり、1つでも欠ければ戦争は不正になる。同じ項で、聖トマスはアウグスティヌス(『Contra Faustum』XXII, 74)を引用し、戦争において非難すべきものを名指ししている。« nocendi cupiditas, ulciscendi crudelitas, implacatus et implacabilis animus, feritas rebellandi, libido dominandi »(「害する欲望、復讐の残酷さ、和らがず和解しない精神、反逆の獰猛さ、支配への欲望」)[54]。

クレルヴォーのベルナルドと「新しい騎士道」

アウグスティヌスとトマスの間に、クレルヴォーの聖ベルナルド(1090-1153年)がいる。神学者、クレルヴォー修道院の創設者(1115年)、シトー会改革者(修道会自体は1098年にシトーで生まれた)である。彼はテンプル騎士団のために、初代総長ユーグ・ド・パイヤンの求めに応じて、1130年から1136年の間に、『De laude novae militiae』(「新しい騎士道の賛美」)と題する小著を書いた[55]。

ベルナルドは、有名になった表現で、malicide と homicide を区別する。無実の者と神の家を守るために戦うとき、悪を殺すこと(malicidium)は、人を殺すこと(homicidium)ではない。平たく言えば、無実の者たちを殺そうとしていた襲撃者を止めることは、邪悪さから人を殺すことではない。悪を止めることである。正確な箇所は読む価値がある。

「キリストの騎士は、安全に死を与え、さらに大きな確信をもって死を受ける。死ぬとき彼は自分に仕え、殺すとき彼はキリストに仕える。(……)悪行者を殺すとき、彼は殺人者ではなく、言わば悪殺者であり、悪を行う者たちに対するキリストの復讐者であり、キリスト教徒の擁護者であることは明らかである。」 — クレルヴォーの聖ベルナルド『De laude novae militiae』III, 4、1130-1136年頃[56]

この表現は強く、批判されてきた。しかしベルナルドはそこにいくつかの即時の安全装置を組み込んでいる。祈り、断食、テンプル騎士団員の自発的な貧困、教会法への厳格な服従、戦利品のための攻撃の禁止である。彼が語る騎士は、略奪する傭兵ではない。規則の下に生きる、武器を取った修道士である。文脈の中で読めば、この表現は戦争そのものを聖化するものではない。自分の命を危険にさらして無実の者を守る者が、正当でない襲撃者に与えた死を位置づけるものである。

十字軍への適用

これらの基準を用いれば、一つずつ裁くことができる。

トマスの基準第1回十字軍第4回十字軍
正当な権威(教皇権+ビザンツ側の呼びかけ)✅ ウルバヌス2世+アレクシオス1世の呼びかけ⚠️ インノケンティウス3世は説くが、十字軍参加者は彼の命令に反して行動する
正当な原因(防衛、回復)✅ セルジューク征服とマンジケルトへの反応❌ ビザンツ側のいかなる不正もコンスタンティノープル略奪を正当化しない
正しい意図(貪欲なし、残酷さなし)⚠️ 原則的にははい、実際にはエルサレムで破られた❌ あからさまな貪欲(ヴェネツィアへの支払い、戦利品、帝国の分割)
軍隊の振る舞い⚠️ 1099年のエルサレム虐殺、非難に値する❌ 3日間の略奪、強姦、冒涜、教皇が非難
判断意図において正戦、行為において時に逸脱その対象そのものにおいて不正な戦争、行為においても

この表は、「十字軍」を一括りに裁くことがなぜ誤りかを示している。各十字軍は基準に従って評価されなければならず、結論は同じではない。

強制改宗は常に非難されてきた

頻繁な非難は、2つの別々の問題を融合させる。十字軍と強制改宗である。しかしカトリック教会は、十字軍の前も、その間も、その後も、一貫して強制改宗を非難してきた。これは第2バチカン公会議による現代的な見直しではない。教導権の一貫した教理である。

中世のカトリック法

インノケンティウス4世(1243年から1254年まで教皇)は、神学者であり教会法学者であり、『教令集』への注釈の中でこう書いている。

「洗礼は、不信者にも、ユダヤ人にも、サラセン人にも、課してはならない。信仰は自由な意志を必要とし、望まない者は誰も信じないからである。」 — インノケンティウス4世『Apparatus in V libros Decretalium』教令 X 3.42.3 について、1245年頃[57]

この原則は一貫している。グレゴリウス1世大教皇(590-604年)は、マルセイユの司教たちに書いて、ユダヤ人を強制洗礼から守った。ニコラウス1世(858-867年)は、改宗したばかりのブルガール人たちに答えた。望まない者を力ずくで洗礼することはできない。カリクストゥス2世の勅書(1120年頃)Sicut Iudaeis non は、その後多くの教皇(インノケンティウス3世、1199年を含む)によって更新され、ユダヤ人を強制洗礼から法的に守った。

インノケンティウス4世、ピウス12世、第2バチカン公会議

イタリアの Convegno Nazionale への1953年12月6日の演説(「Ci riesce」)の中で、教皇ピウス12世は要するに、信仰の行為は本性上自由な行為であり、カトリック信仰を受け入れるよう強いられる者は誰もいないことを想起した(発言の言い換え。注を参照)[58]。

第2バチカン公会議は、信教の自由に関する宣言 Dignitatis humanae(1965年12月7日)の中で、この一貫した教理を受け取り、体系化した。

「人が神に対して与える信仰の応答は自由でなければならないことは、神の言葉に含まれ、教父たちによって絶えず教えられてきた、カトリック教理の主要な要点の一つである。したがって、望まないのに信仰を受け入れるよう強いられる者は誰もいてはならない。信仰の行為は、その本性そのものによって自発的な性格を持つからである。人間は(……)父に引き寄せられて、理性的かつ自由に神に信仰を置くのでなければ、啓示された神に同意することはできないからである。したがって、宗教的な事柄において、人間によるあらゆる種類の強制が排除されることは、信仰そのものの性格に全面的に合致する。」 — 第2バチカン公会議『Dignitatis humanae』n° 10、1965年12月7日[59]

十字軍と剣による改宗を混同することがなぜ誤りか

十字軍はイスラム教徒の改宗を目指していなかった。いかなる教導権の文書も、いかなる十字軍教皇勅書(Quantum praedecessores、Audita tremendi、Vineam Domini Sabaoth など)も、サラセン人の改宗を目的として挙げていない。公式の目的は3つである。聖地の解放、東方キリスト教徒の救援、かつてキリスト教徒であった領土の回復である。

これは、十字軍参加者の誰も非キリスト教徒に対して暴力を使ったことがない、という意味ではない。第1回十字軍の際のライン川沿いの反ユダヤ人ポグロム(マインツ、ヴォルムス、ケルン、1096年5月)は、統制されていない集団によって行われ、地元の司教たち(特に、自らの命を危険にさらしてユダヤ人を守ったシュパイアー司教ヨハン1世)によって明示的に非難された。教皇カリクストゥス2世は、1120年に Sicut Iudaeis non によってユダヤ人の保護を繰り返すことになる。

この混同(十字軍=強制改宗)は、19世紀の反教権主義的な歴史学から受け継がれ、20世紀に広く引き継がれた後世の読み方に属すると思われる。いかなる一次文書もそれを裏づけない。

戦域を区別する。聖地、アルビジョワ、バルト

総合インフォグラフィック。「十字軍」という言葉の下でしばしば混同される4つの問題。AIで作成したIgnispediaオリジナル・イラストレーション。

多くの反論は、同じ性質を持たない問題を融合させている。区別しなければならない。

アルビジョワ十字軍の特異な事例(1209-1229年)

インノケンティウス3世が、トゥールーズ伯レイモン6世の従士による使節ピエール・ド・カステルノー暗殺(1208年1月14日)の後に開始したアルビジョワ十字軍は、物質、結婚、いくつかの秘跡を拒否する二元論運動であるラングドックのカタリ派を狙った[60]。

1209年のカルカッソンヌ住民の追放、アルビジョワ十字軍のエピソード。Wikimedia Commons の歴史的画像、パブリックドメイン。

この十字軍は特有の問題を提起する。

  • 洗礼を受けた異端者を狙っており、非キリスト教徒ではない。
  • フランス王冠とオクシタニアの領主(トランカヴェル、トゥールーズ)の間の政治的紛争と絡み合っている。
  • ベジエの虐殺(1209年7月22日)。そこで、使節アルノー・アモーリーが、偽書とされる言葉 「皆殺しにせよ。神はご自分の者たちをお認めになるであろう。」 を発したとされる。この言葉はハイスターバッハのカエサリウスだけが伝え、10年ほど後に書かれ、ジャック・ベルリオズ(CNRS)は、歴史的な言葉というよりもシトー会の修辞的な構築であるとみなしている[61]。
  • 1231年にグレゴリウス9世による教皇庁異端審問の設立へ至る。これは専用の Ignispedia記事 を持つ問題である。

カトリックの判断は、アルビジョワ十字軍の暴力を言い訳する必要はない。しかし、それが1099年のエルサレムや1204年のコンスタンティノープルとは異なる問題を提起することを認めなければならない。

バルト十字軍とドイツ騎士団

1200年代から、プロイセン、リヴォニア、リトアニアの異教の民に対するバルト十字軍が説かれた。それは、プロイセンとエストニアの土地を次第に植民地化するドイツ騎士修道国家(1226-1525年)の創設へ至った。ザウレ(1236年9月22日)では、リトアニア人とセミガリア人に粉砕されたのは帯剣騎士団(リヴォニア騎士団)であり、その生存者は1237年にドイツ騎士団に吸収されることになる。ドイツ騎士団員自身は、グルンヴァルト(1410年7月15日)で決定的な敗北を喫することになる。

これらの十字軍は、それ独自の問題群を提起する。ゲルマンの東方への領土拡大(Drang nach Osten)、強制されたキリスト教化、永続的な行政的暴力である。聖地十字軍と同じ問題ではない。

問題を混同しない

対話者が「十字軍」に言及するとき、最初の反応は、どれかと尋ねることでなければならない。第1回か、第4回か、アルビジョワか、バルトか。誠実な判断は戦域によって異なる。真剣な記事は、別々の問題を混同することを拒否する。

反論への答え

十字軍問題は、繰り返される10の大反論を引き起こす。それらを最も強い形(steelman)で扱い、次いで正確に答えなければならない。

この10の答えを読む前に、平易な言葉で要点を述べる。中世に、キリスト教徒たちは武器を持って、エルサレムまで、はるか遠くへ出発した。これを十字軍と呼ぶ。今日、多くの人々は、それは教会にとって恥であったと言う。他の人々は、それは正しかったと言う。どちらが正しいのか。答えるためには、事実を一つずつ見なければならない。最初に攻撃したのは誰か。十字軍参加者は盗み、殺したかったのか、それとも危険にさらされたキリスト教徒を守りたかったのか。教会は、殺す者に天国を約束したのか。以下の答えは、最も厳しいものも含め、各非難を真剣に受け取る。それらは2つのことを共に示す。そう、十字軍参加者は犯罪を犯し、教会はそれを認めた。しかし、そうではない、十字軍は根拠のない侵略ではなかった。4世紀にわたる征服と、東方から来た救援の呼びかけに応えたのである。以下は調査として読みなさい。各反論を聞き、次いで証拠を手に検討する。

反論1。「イエスはあらゆる暴力を禁じた」

強い形。 キリストは 「もう一方の頬を向けなさい」(Mt 5, 39)、「剣を鞘に収めなさい」(Mt 26, 52)と言う。キリスト教の福音はあらゆる暴力とあらゆる戦争を禁じる。したがって十字軍は、福音の根本的な裏切りである。

答え。 この反論は、私的な暴力と公的な暴力を混同している。キリストが禁じるのは、個人的な復讐、隣人に対する敵意、自らの名誉や大義を守るための剣の使用(ゲツセマネのペトロ)である。キリストは、正当な市民権力が不正な襲撃者に対して力を使うことが決してできないとは言っていない。

聖パウロは裏づける。「権威は神に仕える者であり、(……)悪を行う者を罰する。剣を帯びているのは、理由なくしてではない」(Rm 13, 4)。聖洗礼者ヨハネは、兵士たちに尋ねられて、「軍を辞めなさい」 とは言わず、「誰をも虐待せず、自分の給料で満足しなさい」(Lc 3, 14)と言った。

この区別は、アウグスティヌスの伝統とその後の伝統が体系化し、正戦の教理(アウグスティヌス、トマス、ベラルミン、ビトリア、スアレス)の起源となったものである。個人的な秩序における復讐の拒否、政治的な秩序における公的な正義である。すべての教父に投影してはならない。アウグスティヌス以前には、テルトゥリアヌス、オリゲネス、ヒッポリュトス、キプリアヌス、ラクタンティウスを含む数人の古代の証人が、逆に、兵役に対するキリスト教徒の強い反対を証言している。

したがって、具体的な虐殺(エルサレム、ベジエ、コンスタンティノープル)を批判するだけでは、防衛戦争の可能性を無効にすることはできない。逆に、防衛戦争の可能性は、その遂行の中で犯された不正な行為を無罪にするものではない。

反論2。「十字軍は植民地侵略であった」

強い形。 十字軍参加者は、財産を求めるヨーロッパの領主の次男たちであり、宗教的な修辞を利用して、何もしていなかった中東を征服し、略奪し、植民地化した。東方のラテン国家は、ヨーロッパの封建制度をモデルとした植民地的な公国であった。

答え。 1950-1970年代のマルクス主義者の間で支配的であったこのテーゼは、今日、重要な大学の研究によって異議を唱えられている。ライリー=スミスとマッデンは証拠をもって反駁し[62][63]、タイヤーマン自身も、純粋に防衛的であるという彼らの読み方には異議を唱えつつ、十字軍を植民地的とするマルクス主義的な読み方は拒否している[64]。3つの事実がこれに対置される。

総合インフォグラフィック。十字軍の現代的な植民地的読み方を複雑にする3つの事実。AIで作成したIgnispediaオリジナル・イラストレーション。
  1. 寄進状の研究。 ライリー=スミスは、数千の十字軍参加者の遺言と寄進を精査し、大多数が出発で金を失ったことを示した。長い旅(2-4年)、騎士の数年分の収入に相当する装備費、膨大な死亡率、現実的な戦利品への乏しい希望。十字軍は霊的な投資であり、経済的な計算ではなかった[65]。

  2. ラテン国家の人口。 フランク人は、エルサレム王国の人口の常に小さな少数派であり続けた。残りは、アラブ系キリスト教徒(正教徒、ヤコブ派、マロン派、アルメニア人)、イスラム教徒(スンナ派、シーア派、イスマイール派、ドゥルーズ派)、ユダヤ人で構成されていた。これは、フランス領アルジェリアのような入植植民地ではなく、少数派の枠組みである。

  3. 現代の植民地化の概念は時代錯誤である。十字軍参加者は、自国の国民と富を輸出するための母国を作らなかった。彼らは、しばしば破綻し、生き残るためにヨーロッパに絶えず補助金を求める防衛的な封建公国を作った。

反論3。「イスラム教徒は何もしていなかった」

強い形。 1095年に、イスラム教徒はヨーロッパを具体的に脅かしてはいなかった。したがってウルバヌス2世の遠征は、正当な原因のない、根拠のない行為である。

答え。 この反論は、4世紀の歴史を無視している。

第一に、イスラム教徒は632年から750年の間に、古代キリスト教世界の3分の2を征服していた。シリア、パレスチナ、エジプト、北アフリカ、イスパニア、シチリア、クレタ、キプロス、サルデーニャ(一部)である。この大規模な征服は打ち破られておらず、地中海の地政学全体の背景をなしていた。

次に、ビザンツに対するトルコ人の脅威は、1095年には現実のものであった。マンジケルト(1071年)、占領されたアナトリア、西方に懇願するアレクシオス・コムネノス。これらは幻想ではない。

最後に、巡礼は不安定なままであった。1090年代にエルサレムへの巡礼を試み、殴られ、奪われ、ラテン系キリスト教徒に対する迫害を証言して戻ってきたとされる隠者ピエールの報告は、一部伝説的であり得るが、拡散した現実を反映している[66]。

宗教社会学者ロドニー・スタークは要するにこう要約する。十字軍を、平和で無実なイスラム東方に対する西方の侵略として描くことは、誤りであり、滑稽でさえある。4世紀にわたるイスラムの軍事的拡大を反転させることになるからである[67]。

反論4。「免償は殺人に対する自動的な天国を約束した」

強い形。 ウルバヌス2世は、イスラム教徒を殺す者は皆、天国を約束した。これは、宗教史上類例のない道徳的な白紙小切手である。

答え。 これは教理的な戯画化である。上記の 「十字軍の免償」 の節を参照。

クレルモンのカノン2は言う。「ただ信心のためだけに、名誉や金銭を得るためではなく、神の教会を解放するためにエルサレムへ出発する者は皆、その旅があらゆる償いに代えて数えられるであろう。」 明示的な条件は、内面的な信心、貪欲のなさ、教会の解放である。「イスラム教徒を殺しなさい」という言及はどこにもない。将来の犯罪に対する赦しの約束もない。

免償は、すでに犯され、告白された罪の有限の罰を対象とする。それは罪を犯す許可証ではない。償いの恵みである。

実際には、多くの十字軍参加者は出発前に告白し、借金を清算し、不正に拘束していた農奴を解放し、返済を行った。証書の証言がそれを示している。免償は、出発の時点における道徳的改革の梃子として機能し、戦闘において悪を行う許可証としてではない。

反論5。「エルサレムの虐殺はキリスト教の野蛮さを証明する」

強い形。 1099年7月15日、十字軍参加者は足首まで血の中で殺した。これは中世キリスト教の特有の野蛮さを証明する。

答え。 上記の 「1099年7月15日のエルサレム占領」 の節を参照。

虐殺は証明されており、非難に値する。しかし4つの明確化が必要である。

  1. 中世の数字は修辞的である(アル=アクサー・モスクだけで70,000人以上の犠牲者は、人口学的に不可能である)。
  2. 突撃で占領した都市の略奪は、キリスト教徒、イスラム教徒、ビザンツ人に共有された中世の戦争法の規範であった。サラディン自身、ハッティン(1187年)でテンプル騎士団員と聖ヨハネ騎士団員を虐殺することになる。
  3. カトリックのカテキズムは今日、「非戦闘員、負傷した兵士、捕虜を尊重し、人間的に扱わなければならない」(CEC §2313)と想起している。教会はエルサレムにおける十字軍参加者の振る舞いを聖化していない。
  4. ヨハネ・パウロ2世は2000年に、その種の行為で教会の息子たちが犯した過ちについて、公に赦しを求めた。

反論6。「十字軍は改宗のための戦争であった」

強い形。 十字軍参加者は、剣の先でイスラム教徒を改宗させたかった。「防衛戦争」という反論は、事後的なアリバイである。

答え。 上記の 「強制改宗」 の節を参照。

いかなる教導権の文書も、十字軍の目的としてイスラム教徒の改宗を挙げていない。歴代の勅書(エウゲニウス3世の Quantum praedecessores、グレゴリウス8世の Audita tremendi、インノケンティウス3世の Quia maior)は常に、聖地の解放、東方キリスト教徒の救援、ラテン国家の防衛を語っている。イスラム教徒の改宗は、中世カトリックの思想では、軍隊ではなく宣教師(13世紀からのドミニコ会士、フランシスコ会士)の業である。

スルタン、アル=マリク・アル=カーミルの前の聖フランチェスコ。ジョットに帰せられるアッシジのフレスコ画。Wikimedia Commons、パブリックドメイン。

象徴的なエピソードは、第5回十字軍の最中、1219年9月にダミエッタでアッシジの聖フランチェスコがスルタン、アル=マリク・アル=カーミルと会ったことである。フランチェスコはイスラム教徒を殺しに行くのではない。可能なら改宗させるため、あるいは殉教者として死ぬために、語りかけに行くのである。スルタンは彼を無事に帰らせた。これが改宗に対する真のカトリックの姿勢である。説くことであり、殺すことではない。

反論7。「十字軍はヨーロッパにおけるユダヤ人虐殺を引き起こした」

強い形。 1096年に、十字軍の集団がライン川沿いのユダヤ人共同体(マインツ、ヴォルムス、ケルン、シュパイアー)を虐殺した。これは十字軍に内在する反ユダヤ主義の直接的な証拠である。

答え。 1096年のライン川沿いのポグロムは、とりわけライニンゲン伯エミッヒとその非正規集団によって行われ、現実であり、擁護できない。数千人のユダヤ人がそこで死を見出した。

しかし3つの明確化がある。

  1. 地元の教会はそれらを非難した。ユダヤ人年代記作者ソロモン・バル・シムソン(1140年頃)自身が、シュパイアー司教ヨハン1世が、自らの命を危険にさらしてユダヤ人を守り、マインツ大司教ルトハルトが宮殿に避難所を提供したが、残念ながらそれは襲撃されたことを記している[68]。

  2. これらの非正規集団は、公式の十字軍遠征ではなかった。教皇側の部隊(サン=ジル伯レイモン、ゴドフロワ・ド・ブイヨン、ボエモン、タンクレード)は、途中でポグロムを行わなかった。責任のある集団は、聖職者の指導を欠いた、逸脱した「民衆十字軍」であり、アナトリアに到着する前に分散した。

  3. 教会は一貫してユダヤ人を守ってきた。1120年頃にカリクストゥス2世が公布した勅書Sicut Iudaeis non は、中世の数人の教皇によって更新されることになる。1199年(12世紀末)のインノケンティウス3世、13世紀のインノケンティウス4世を含み、ユダヤ人の強制洗礼を禁じ、教皇の保護の下に置いた[69]。

したがって、カトリックの立場はライン川沿いのポグロムへの加担ではない。地元の司教たちと教皇庁による、言葉と行為におけるその非難である。

反論8。「十字軍参加者は無学な略奪者であった」

強い形。 十字軍参加者は、貪欲に動かされた無教養な野蛮人であり、アラブ・イスラム文明とビザンツ文明から盗んだ果実をヨーロッパにもたらした。

答え。 この大衆的な像は、歴史学によって否定されている。3つの要素がある。

  1. 十字軍の部隊には読み書きできる者が含まれていた。シャルトラのフーシェ、アギレールのレイモン、アーヘンのアルベルト、ティールのギヨームは、質の良いラテン語を書き、古典を引用し、神学を論じた。十字軍の年代記は、中世中央期の最良の物語資料に数えられる。

  2. 文化的移転は複雑である。シルヴァン・グーゲンハイムは『Aristote au Mont-Saint-Michel』(Seuil、2008年)の中で、議論のあるテーゼだが、ギリシャ語からラテン語への大翻訳(アリストテレス、プトレマイオス、エウクレイデス)は、アラビア語経由だけでなく、南イタリアの修道院やノルマン人のモン・サン・ミシェル修道院を経由してビザンツのギリシャ語から直接にも行われたことを想起した。「イスラムがなければ、ヨーロッパはアリストテレスを知らなかったであろう」 という一方的な物語は、誤りであるか、非常に還元的である[70]。

  3. 中世キリスト教世界は、十字軍と並行して、知的な傑作を生み出した。カンタベリーのアンセルムス(『Proslogion』1078年)、クレルヴォーのベルナルド、サン・ヴィクトルのユーグ、ピエール・アベラール、トマス・アクィナス、ボナヴェントゥラ、大アルベルトゥスである。パリ(1170年)、ボローニャ(1088年)、オックスフォード(1167年)、サラマンカ(1218年)の大学は、同じ中世に生まれた。

中世の大学教育の場面。十字軍は、スコラ学、大学、ゴシック芸術と同じ中世に属する。Wikimedia Commons、パブリックドメイン。

第1回十字軍を見る世紀は、スコラ学、ゴシック芸術(サン・ドニ、1144年)、偉大な神学総合の誕生を見る世紀でもある。

反論9。「教皇は謝った。したがって教会はその犯罪を認めている」

強い形。 ヨハネ・パウロ2世は十字軍について赦しを求めた。したがって、教会が犯罪を犯したことを公式に認めたことになる。

答え。 この反論は、非常に異なる2つの概念を混同している。記憶の浄化と、教会の構造的な犯罪の告白である。

国際神学委員会は、文書『Mémoire et réconciliation : l'Église et les fautes du passé』(バチカン、2000年3月7日)の中で、枢機卿ヨーゼフ・ラッツィンガー(後のベネディクト16世)が明示したように、要するに次のように説明している。教会はその神秘において聖であるが、この聖性は、教会の息子たちと娘たちが歴史の中で、時に福音に対する重大な過ちを犯したことを排除しない。そして赦しの要請が定式化されるのは、それらの過ちについてであり、教会そのものの本質的な汚れについてではない[71]。

ヨハネ・パウロ2世は、2000年3月12日の説教(聖年の赦しの日)の中で、こう明示した。

「ペトロの後継者として、私は、この慈しみの年に、主から受けた聖性によって強められた教会が、神の前にひざまずき、その息子たちの過去と現在の罪の赦しを懇願するよう求めた。」 — ヨハネ・パウロ2世、赦しの日の説教、2000年3月12日、n° 3。教皇はそこで、勅書 Incarnationis mysterium、n. 11 の言葉を引き継いでいる[72]

教会は「教会としての犯罪」を認めていない。世界の他のいかなる機関も体系的には行っていない誠実さをもって、その息子たちが特定の歴史的なエピソードで過ちを犯したことを認めている。これは神学的には、制度的な有罪の告白の反対である。教会の客観的な聖性(キリストと秘跡から来る)と、その成員の脆弱さの区別である。

反論10。「十字軍は今日も擁護できない」

強い形。 歴史的な区別が何であれ、「十字軍」という言葉は今日、絶対に避けなければならない。ニュアンスのある擁護でさえ、疑わしい。

答え。 この反論は、教理的というより修辞的である。3つの所見がある。

  1. 「十字軍」という言葉の現代的な使用(「貧困に対する十字軍」「犯罪に対する十字軍」)は、普遍的に肯定的である。誰もそこに中世の暴力への言及を聞き取らない。言葉には固有の意味論的な生命がある。

  2. 知的な厳密さは区別を要求する。「十字軍は擁護しないから」という理由で十字軍の擁護を拒否することは、循環論法である。問題は、資料を手にした誠実な歴史は何と言うか、である。答えはニュアンスがある。第1回十字軍については正戦の基準に「はい」、コンスタンティノープル略奪には「いいえ」、記録された虐殺には「はい」、1204年の教皇による非難には「はい」、2001年の赦しの要請には「はい」である。

  3. 議論を拒否することは、戯画化を支配させることになる。イスラム教徒であれ無神論者であれ、対話者が十字軍を引き合いに出すとき、「私たちは謝ったが、議論はしない」という議論は誰も納得させない。事実を、その厚みにおいて提示し、読者に判断させなければならない。

十字軍と記憶の浄化(2000-2001年)

2000年の聖年の赦しの日の聖ヨハネ・パウロ2世。記憶の浄化の教理的枠組み。Wikimedia Commons の歴史的画像。

十字軍に対するカトリック教会の今日の態度は、2つの時期に厳粛に定式化された。2000年の聖年と、2001年5月のギリシャへの使徒的訪問である。

2000年の聖年

聖ヨハネ・パウロ2世は、宣布勅書 Incarnationis mysterium(1998年11月29日)の中で、聖年が**「記憶の浄化」の時であることを求めていた。枢機卿ヨーゼフ・ラッツィンガー**が主宰する国際神学委員会は、主要な教理文書『Mémoire et réconciliation : l'Église et les fautes du passé』を用意し、2000年3月7日に公表された。

この文書は、あらゆる教会の赦しの要請の神学的基礎を置く。注意深く区別している。

  • キリストの神秘体としての教会の客観的な聖性。それ自体として罪を犯すことはできない。
  • 教会の成員の罪。重大で、躓きであり、歴史的に記録され得る。
  • 教皇に導かれた教会共同体が、真理、和解、改心に仕えるために、成員のそれらの罪を公に認める倫理的な義務。

要するに、教会の息子たちが福音に反して行うことは、教会固有の聖性を拘束しない。しかし教会は、それに無関心であることも、それを無視するふりをすることもできない[73]。

赦しの日の説教

2000年3月12日、四旬節第一主日、聖ペトロ大聖堂で、ヨハネ・パウロ2世は 赦しの日 を祝った。7人の枢機卿と司教が順に登り、教会の息子たちが犯した7つのカテゴリーの罪を公に告白した。(1) 一般的な罪、(2) 真理への奉仕の中で犯された罪、(3) キリストの体の一致に対する罪、(4) イスラエルに対する罪、(5) 愛、平和、文化と宗教の尊重に対する罪、(6) 女性の尊厳と人類の一致に対する罪、(7) 人の基本的な権利の領域における罪である。

十字軍は、別々に名指しされることはなかったが、2番目(真理への奉仕における不寛容と暴力の方法)と5番目の告白によって明示的に狙われている。教皇庁諸宗教対話評議会議長、枢機卿フランシス・アリンゼは要するに、歴史の中で、文化的・宗教的アイデンティティへの軽蔑によって、他者に苦しみを与えた者たちの振る舞いについて赦しを求めた[74]。

アテネ、2001年5月4日。正教会への赦しの要請

2001年5月4日、ギリシャへの使徒的訪問の際、ヨハネ・パウロ2世は聖シノドの座で、アテネの正教会大主教クリストドゥロスと会った。カメラの前で、歴史的となった言葉を発した。すでに上で引用したものである。

「私は、帝都コンスタンティノープルの劇的な略奪を思います(……)。キリスト教徒の聖地への自由なアクセスを保証するために出発した襲撃者たちが、信仰における兄弟たちに矛先を向けたことは悲劇です。ラテン系キリスト教徒がそこに参加していたという事実は、カトリック教徒を深い後悔で満たします。」 — ヨハネ・パウロ2世、アテネ、2001年5月4日(公式フランス語逐語記録に基づき再構成した引用)[75]

同じ日、ヨハネ・パウロ2世とクリストドゥロスは、アレオパゴスで共同宣言に署名した。カトリック教徒と正教徒の対話における画期的な瞬間であった[76]。

4点の総合

結論として、誠実なカトリックの読み方は、4点を共に保持する。

点カトリックの立場
1095年の呼びかけ正戦の基準に照らして理解可能であり、擁護可能である。教皇権威、実際のビザンツ側の要請、東方キリスト教徒の防衛
1099年のエルサレムでの振る舞い記録された虐殺であり、中世キリスト教の規範によってさえ道徳的に非難に値する。何も聖化しない
1204年のコンスタンティノープル略奪重大で明らかな犯罪であり、インノケンティウス3世によって直ちに非難され、2001年にヨハネ・パウロ2世によって繰り返された。擁護しなければならないカトリック教徒は誰もいない
現代の記憶しばしば戯画的である。一次資料によって修正されなければならない。東方キリスト教徒、犠牲となったイスラム教徒、一部の集団に迫害されたユダヤ人の実際の苦しみを忘れることなく
視覚的な総合。十字軍に対する歴史的・道徳的判断の4段階。AIで作成したIgnispediaオリジナル・インフォグラフィック。

十字軍は、カトリックの読者に大人の営みを強いる。無実の物語(「すべてが聖であった」)と告発の物語(「すべてが犯罪であった」)の両方を拒否し、資料、文脈、教理的な区別、そして教会自身の公の悔い改めを見つめることである。

また、十字軍を利用する物語に騙されないことも強いる。19世紀の西洋の植民地物語は、それを帝国の誇りの称号とした。現代の反西洋物語は、それをあらゆる宗教的暴力の典型とする。十字軍は福音ではない。しかし福音の反対でもない。東方の援助要請、教会改革、中世の償いの霊性、意味を求める騎士道、そしてあらゆる人間的な脆弱さが交錯する、複雑な人間的出来事である。

レジーヌ・ペルヌーは『Pour en finir avec le Moyen Âge』(Seuil、1977年)の中で、要するに、時代全体に対する包括的な断罪に対して警告していた。各事実は、証拠を手に、それ自体のために検討されなければならない[77]。

さらに進むために

注と参考文献

  1. Jonathan Riley-Smith, The Crusades: A History, Bloomsbury Academic, 3ᵉ éd., 2014. Riley-Smith (1938-2016), titulaire de la chaire Dixie d'histoire ecclésiastique à Cambridge, a renouvelé l'ensemble du champ des crusade studies à partir de 1986. 防衛テーゼについては、彼の論文「 Crusading as an act of love », History, vol. 65, juin 1980, p. 177-192 を参照。上のフランス語表現は、言い換えによる要約であり、逐語引用ではない。

    1 3
  2. Fulcher de Chartres, Historia Hierosolymitana, I, 3, § 5, rédigée vers 1101, édition critique : Heinrich Hagenmeyer (éd.), Fulcheri Carnotensis Historia Hierosolymitana (1095-1127), Heidelberg, 1913, p. 135 ; voir aussi Edward Peters (éd.), The First Crusade: The Chronicle of Fulcher of Chartres and Other Source Materials, University of Pennsylvania Press, 2ᵉ éd., 1998. ラテン語本文 : « Cunctis autem illuc euntibus, si aut gradiendo aut transfretando, sive contra paganos dimicando, vitam morte praepeditam finierint, remissio peccatorum praesens aderit. » Traduction anglaise concordante (d'après Bongars, Gesta Dei per Francos) : « All who die by the way, whether by land or by sea, or in battle against the pagans, shall have immediate remission of sins » (Thatcher-McNeal, reprise par Fordham). 上のフランス語表現は、このフーシェの本文の翻訳である。1095年11月27日にウルバヌス2世が行った演説の逐語記録ではなく、修辞的な再構成である。その逐語記録は伝わっていない(クレルモンの節を参照)。

    2 14
  3. Thomas F. Madden, « The Real History of the Crusades », Crisis Magazine, 2002 (repris en ligne en 2011) ; et The New Concise History of the Crusades, Rowman & Littlefield, 2005. Madden (né en 1960), professeur d'histoire à l'université Saint Louis, défend la lecture défensive des croisades face au récit populaire.

    4 63
  4. Christopher Tyerman, God's War: A New History of the Crusades, Belknap Press of Harvard University Press, 2006, p. 56. Tyerman (né en 1953), professeur d'histoire médiévale à Hertford College, Oxford. 上のフランス語表現は、彼のテーゼ(償いの中心性、政治的・領土的動機、マルクス主義的な読み方の拒否)の言い換えによる要約であり、逐語引用ではない。

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  5. Pour la synthèse des conquêtes musulmanes du VIIᵉ siècle, voir Hugh Kennedy, The Great Arab Conquests: How the Spread of Islam Changed the World We Live In, Da Capo Press, 2007 ; Walter Kaegi, Byzantium and the Early Islamic Conquests, Cambridge University Press, 1992. ヤルムークの戦いは慣例的に636年8月とされる。日にち単位の年代決定(数日にわたって行われ、最後に決定的な一日があった戦闘)は、歴史家の間で今も議論されている。他の年代(歴史家の間で議論されている範囲)。ダマスカス635年頃、アンティオキア637年、エルサレム637-638年、エジプト639-642年、カルタゴ698年、イスパニア711年、ポワティエでの停止は732年10月。アラブ側年代記作者によれば10月25日(ヒジュラ暦114年ラマダーン月最初の土曜日)、西方の歴史学の一部によれば10月10日か11日。

    6
  6. Rodney Stark, God's Battalions: The Case for the Crusades, HarperOne, 2009. Stark (1934-2022), sociologue des religions, n'était pas catholique mais a renouvelé le débat avec ce livre grand public solidement documenté. 上のフランス語表現は、彼の防衛テーゼ(古代キリスト教世界の3分の2の征服に対する遅れた反応としての十字軍)の言い換えによる要約であり、逐語引用ではない。

    7 67
  7. Yahya ibn Sa'id d'Antioche, Histoire, éd. et trad. I. Kratchkovsky et A. Vasiliev, Patrologia Orientalis, t. XVIII et XXIII, Paris, 1924-1932. Yahya, médecin chrétien melkite, est la source primaire sur la destruction du Saint-Sépulcre par al-Hakim en 1009. Voir aussi Marius Canard, « La destruction de l'église de la Résurrection par le calife Hakim », Byzantion, 35, 1965, p. 16-43.

    8
  8. Speros Vryonis Jr., The Decline of Medieval Hellenism in Asia Minor and the Process of Islamization from the Eleventh through the Fifteenth Century, University of California Press, 1971, p. 96-104. 正確な日付は1071年8月26日、ヴァン湖の北約40 km。皇帝ロマノス4世ディオゲネスは数日の捕虜の後、解放され、次いでコンスタンティノープルで廃位され、盲目にされ、追放された。

    9
  9. Anne Comnène, Alexiade, livre X, ch. 5-11, éd. et trad. Bernard Leib, Anne Comnène, Alexiade, 3 vol., Les Belles Lettres, Paris, 1937-1945, t. II, p. 207-235. Anne Comnène (1083-1153), fille aînée d'Alexis Ier, écrivit son histoire vers 1148, après s'être retirée au monastère de Kécharitôménè à Constantinople. 第10巻は、ローマ司教への皇帝の書簡には言及していない。皇帝はそこで、隠者ピエールの説教が西方を奮い立たせる間、ビテュニアにおけるトルコ人の進攻に立ち向かっている。

    10
  10. Bernold de Saint-Blaise, Chronicon, s.a. 1095, dans Monumenta Germaniae Historica, Scriptores, t. V : les envoyés de l'empereur Alexis portent sa demande de secours contre les Turcs au concile de Plaisance (mars 1095), devant Urbain II. Voir Peter Frankopan, The First Crusade: The Call from the East, Bodley Head, Londres, 2012, sur l'appel byzantin comme déclencheur de la croisade.

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  11. Jonathan Riley-Smith, The First Crusade and the Idea of Crusading, University of Pennsylvania Press, 1986, p. 22-30 et 142-152. この研究は、ヨーロッパの教会文書庫に保存された600を超える十字軍参加者の寄進状と遺言状の精査に基づく。

    12 23 62 65
  12. Sur la présence à Clermont : Fulcher de Chartres — généralement admise (Encyclopaedia Britannica, article « Fulcher of Chartres » : « attended the Council of Clermont »), mais discutée par une partie de l'historiographie ; Baudri de Dol — tenu pour témoin oculaire très probable par son éditrice moderne (Susan B. Edgington, trad., Baldric of Bourgueil: History of the Jerusalemites, Boydell, 2020 ; présentation Cambridge : « almost certainly an eyewitness ») ; Robert le Moine revendique lui-même sa présence ; Guibert de Nogent reconnaît ne pas y avoir assisté.

    13
  13. Robert le Moine, Historia Hierosolymitana, livre I, vers 1107-1120, dans Recueil des Historiens des Croisades, Historiens Occidentaux, t. III, Paris, 1866, p. 717-882. Pour une traduction française, voir Carol Sweetenham, Robert the Monk's History of the First Crusade, Ashgate, 2005.

    15
  14. Robert le Moine, Historia Hierosolymitana, I, 2, op. cit. 原文 : « Cumque haec et plurima alia hujusmodi sanctissimus papa fudisset, omnium qui aderant affectus in unum ita conciliavit, ut acclamarent : 'Deus vult ! Deus vult !' »

    16
  15. Baudri de Dol, Historia Jerosolimitana, vers 1107, livre I, dans Recueil des Historiens des Croisades, Historiens Occidentaux, t. IV, Paris, 1879, p. 5-111.

    17
  16. Guibert de Nogent, Dei gesta per Francos, vers 1109, éd. R. B. C. Huygens, Corpus Christianorum Continuatio Mediaevalis 127A, Brepols, 1996.

    18
  17. Jean Flori, La guerre sainte. La formation de l'idée de croisade dans l'Occident chrétien, Aubier, coll. « Historique », 2001, en particulier la 3ᵉ partie sur la naissance de la croisade. Flori (1936-2018), directeur de recherche au CNRS, est l'une des grandes références françaises sur la pensée chevaleresque et la guerre sainte.

    19
  18. Canon 2 du concile de Clermont, 1095, dans Giovanni Domenico Mansi, Sacrorum conciliorum nova et amplissima collectio, vol. XX, col. 815-816, Venise, 1775. Voir aussi Norman Tanner (éd.), Decrees of the Ecumenical Councils, Georgetown University Press, 1990, vol. 1, p. 188.

    20 21
  19. Jonathan Riley-Smith, « Crusading as an act of love », History, vol. 65, juin 1980, p. 177-192. 上のフランス語表現は、言い換えによる要約であり、逐語引用ではない。

    24
  20. Sur le comptage en huit croisades, voir Steven Runciman, A History of the Crusades, Cambridge University Press, 1951-1954, 3 vol. ; Jonathan Riley-Smith, The Crusades: A History, Bloomsbury Academic, 3ᵉ éd., 2014. エドワード王子の聖地遠征(1271-1272年)は、英語圏の歴史学の一部によって「第9回十字軍」と番号づけられている。ここでは独立した遠征としては採用しない。

    25
  21. Otton de Freising, Gesta Friderici I imperatoris, livre I, ch. 35, dans Monumenta Germaniae Historica, Scriptores rerum Germanicarum, t. 46, p. 53-54. Voir aussi Jean Leclercq, Saint Bernard et l'esprit cistercien, Seuil, 1966, ch. 7 sur la prédication de la deuxième croisade.

    26
  22. Saint Bernard de Clairvaux, De consideratione ad Eugenium papam, livre II, ch. 1, vers 1149-1153, dans Sancti Bernardi Opera, éd. Jean Leclercq et Henri Rochais, Editiones Cistercienses, Rome, vol. III, 1963, p. 410-411.

    27
  23. Roger de Hoveden, Chronica, éd. William Stubbs, Rolls Series, 4 vol., Londres, 1868-1871, t. III, p. 184-187 pour le traité de Jaffa du 2 septembre 1192. Voir aussi Jonathan Phillips, The Crusades, 1095-1204, Routledge, 2ᵉ éd., 2014, ch. 8.

    28
  24. Bonaventure, Legenda Maior, ch. 9, dans Opera Omnia, éd. de Quaracchi, vol. VIII, p. 530-531. Pour une analyse historique critique, voir John Tolan, Le saint chez le sultan. La rencontre de François d'Assise et de l'islam, Seuil, 2007. 会見は1219年9月、ダミエッタで行われた。

    29
  25. Effectif de la septième croisade : environ 15 000 hommes, dont 2 400 à 2 800 chevaliers et 5 000 arbalétriers, selon Jonathan Riley-Smith, The Crusades: A History, Bloomsbury Academic, 3ᵉ éd., 2014, p. 193.

    30
  26. Jean de Joinville, Vie de saint Louis, vers 1309, éd. Jacques Monfrin, Garnier, 1995, § 320-410, sur la captivité du roi. 1250年2月8日のマンスーラにおける十字軍前衛の粉砕、1250年4月6日のファリスクールにおける王の捕獲、1250年5月6日の解放。要求された身代金は100万の金ベザントであり、500,000リーヴル・トゥルノワに相当する。フランス王室収入の約2年分である。王は答えた。「私の部下のために500,000リーヴルを差し上げよう。そして私自身のためにダミエッタを。」

    31
  27. Geoffroy de Beaulieu, Vita Ludovici noni regis Francorum, vers 1273, éd. dans Recueil des Historiens des Gaules et de la France, t. XX, Paris, 1840, p. 21-23. Geoffroy était le confesseur dominicain de Louis IX, présent à sa mort le 25 août 1270 devant Tunis. 死因の正確な原因は今も議論されている。中世の伝承は「ペスト」(疫病)と語るが、現代の遡及的な診断は赤痢を優先し、感染性病原体は特定されていない。Froment et al., « The mandible of Saint-Louis (1270 AD): Retrospective diagnosis and circumstances of death », Morphologie, 2019 を参照。

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  28. David Nicolle, Acre 1291: Bloody Sunset of the Crusader States, Osprey Publishing, 2005. Voir aussi Steven Runciman, A History of the Crusades, vol. III, Cambridge University Press, 1954, ch. XXIV. テンプル騎士団の城塞は、最後の拠点として、主塔の崩落の後、1291年5月28日に陥落した。

    34
  29. Conor Kostick, The Siege of Jerusalem: Crusade and Conquest in 1099, Continuum, 2009, p. 119-152. Pour le déroulement militaire, voir aussi John France, Victory in the East: A Military History of the First Crusade, Cambridge University Press, 1994, p. 333-366.

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  30. Gesta Francorum et aliorum Hierosolimitanorum, livre X, ch. 38, éd. Rosalind Hill, The Deeds of the Franks and the Other Pilgrims to Jerusalem, Oxford Medieval Texts, Clarendon Press, 1962, p. 90-91. 原文 : « Ibique talis occisio fuit, ut nostri in sanguine illorum pedes usque ad cavillas mitterent. » (« Là, le carnage fut tel que les nôtres mirent les pieds dans leur sang jusqu'aux chevilles » — cavillae = chevilles).

    37
  31. Raymond d'Aguilers, Historia Francorum qui ceperunt Iherusalem, éd. John Hugh Hill et Laurita L. Hill, Le « Liber » de Raymond d'Aguilers, Documents relatifs à l'histoire des croisades de l'Académie des Inscriptions et Belles-Lettres, t. IX, Paris, Geuthner, 1969, p. 150-151. 原文 : « Sed tantum sufficiat, quod in templo et porticu Salomonis equitabatur in sanguine ad genua, et usque ad frenos equorum. » (« Qu'il suffise de dire qu'au Temple et dans le portique de Salomon, on chevauchait dans le sang jusqu'aux genoux et jusqu'à la bride des chevaux »).

    38
  32. Ibn al-Athir, al-Kâmil fî al-târîkh (« La Somme parfaite des chroniques »), an 492 H. (1099), dans D. S. Richards (éd. et trad.), The Chronicle of Ibn al-Athir for the Crusading Period from al-Kamil fi'l-Ta'rikh, Part 1: The Years 491–541/1097–1146, Ashgate, 2006, p. 21-22. Ibn al-Athir (1160-1233) écrit plus d'un siècle après l'événement.

    39
  33. Conor Kostick, The Siege of Jerusalem, op. cit., p. 178-198. 現在の収束した推定は、15,000-30,000人の残留人口に対して、3,000から10,000人の死者である。

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  34. Benjamin Z. Kedar, « The Jerusalem Massacre of July 1099 in the Western Historiography of the Crusades », Crusades, vol. 3, Society for the Study of the Crusades and the Latin East, 2004, p. 15-75. Kedar (né en 1938), professeur émérite à l'Université hébraïque de Jérusalem, est l'un des plus grands spécialistes mondiaux des croisades.

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  35. Exécution des frères des ordres militaires captifs après Hattin (4 juillet 1187) : le secrétaire de Saladin Imad ad-Din al-Isfahani, témoin oculaire, rapporte l'ordre de mettre à mort les captifs des ordres plutôt que de les garder prisonniers ; le récit latin du De expugnatione Terrae Sanctae précise que Saladin offrit 50 dinars par prisonnier des ordres livré, et qu'environ deux cents furent exécutés. Voir Francesco Gabrielli (éd. et trad.), Arab Historians of the Crusades, Routledge & Kegan Paul, 1969 (éd. américaine : University of California Press, 1969), chapitre « The Battle of Hittin (July 1187) », passage « Saladin's treatment of the Templars and Hospitallers ».

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  36. Innocent III, lettres de janvier-février 1203 condamnant la prise de Zara et excommuniant les croisés, dans Patrologia Latina vol. 215, col. 535-538. Voir aussi Donald E. Queller et Thomas F. Madden, The Fourth Crusade: The Conquest of Constantinople, University of Pennsylvania Press, 2ᵉ éd., 1997, p. 73-94.

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  37. Nicétas Choniatès, Historia, éd. Jan-Louis van Dieten, Nicetae Choniatae Historia, Corpus Fontium Historiae Byzantinae 11, De Gruyter, Berlin, 1975, livre III sur Isaac II et Alexis V, p. 569-585. Traduction française : Nicétas Choniatès, Récits du règne de Manuel Comnène et histoire des successeurs, trad. Jean Darrouzès, Albin Michel, 1985.

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  38. Innocent III, lettre au légat Pierre, cardinal-prêtre de Saint-Marcel, 12 juillet 1205, Patrologia Latina, vol. 215, col. 699-702 : ép. 136 dans la traduction de James Brundage (The Crusades: A Documentary History, Marquette University Press, 1962, reprise par Fordham) ; registre VIII, n° 134 de l'édition critique (anc. livre VIII, ép. 133) traduite dans Alfred J. Andrea (éd.), Contemporary Sources for the Fourth Crusade, Brill, 2000. 1205年という年代決定(1204年ではない)は、内容そのものによって確立される。この書簡は1205年春の出来事(エルサレム王エメリーの死、1205年4月14日のアドリアノープルの惨事、コンスタンティノープルに残った十字軍参加者の免除)に言及している。上のフランス語表現は、この書簡の証明された内容(聖地を見捨てたことへの非難、年齢と性別への顧慮のなさ、白昼堂々と行われた行為、聖なる場所の冒涜、聖遺物と祭壇の銀器の略奪)の言い換えによる要約であり、逐語引用ではない。

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  39. Innocent III, lettre au légat Pierre, cardinal-prêtre de Saint-Marcel, 12 juillet 1205 (même référence que la note précédente : PL 215, col. 699-702 ; ép. 136 Brundage/Fordham ; registre VIII, n° 134 de l'édition critique). 原文 : « Quomodo enim Graecorum Ecclesia, quantumcumque afflictionibus et persecutionibus afficiatur, ad unitatem ecclesiasticam et devotionem Sedis Apostolicae revertetur, quae in Latinis non nisi perditionis exemplum et opera tenebrarum aspexit, ut iam merito illos abhorreat plus quam canes ? » したがって、この文はボニファキオ・ディ・モンフェッラートに宛てられたものではない。インノケンティウスは1205年夏の終わりに、同じテーマに戻りつつこの表現は繰り返さず、ボニファキオに別途答えることになる(Andrea, Contemporary Sources, lettre への序文)。上のフランス語表現は、ラテン語本文の忠実な翻訳である。

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  40. Saint Jean-Paul II, discours à l'archevêque Christodoulos d'Athènes, palais du Saint-Synode, vendredi 4 mai 2001 ; texte intégral sur Vatican.va (content/john-paul-ii/fr/speeches/2001/may/documents/hf_jp-ii_spe_20010504_archbishop-athens.html, vérifié le 4 octobre 2026). 上の引用は、公式フランス語逐語記録に基づき再構成したものである。

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  41. Saint Augustin, De civitate Dei contra paganos, livre XIX, ch. 12, vers 426, éd. Bernhard Dombart et Alfons Kalb, Corpus Christianorum Series Latina 47-48, Brepols, 1955. Traduction française dans la Bibliothèque augustinienne, Œuvres de saint Augustin, vol. 37, Desclée de Brouwer, 1960.

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  42. Saint Thomas d'Aquin, Summa Theologiae, secunda secundae, q. 40, a. 1, vers 1271-1272, éd. Léonine, Sancti Thomae Aquinatis opera omnia, Rome, 1888-1903, vol. 8, p. 311-313. 原文 : « Ad hoc quod aliquod bellum sit iustum, tria requiruntur. Primo quidem, auctoritas principis, cuius mandato bellum est gerendum. [...] Secundo, requiritur causa iusta : ut scilicet illi qui impugnantur propter aliquam culpam impugnationem mereantur. [...] Tertio, requiritur ut sit intentio bellantium recta, qua scilicet intenditur vel ut bonum promoveatur vel ut malum vitetur. »

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  43. Saint Bernard de Clairvaux, Liber ad milites Templi de laude novae militiae, vers 1130-1136, dans Sancti Bernardi Opera, éd. Jean Leclercq et Henri Rochais, Editiones Cistercienses, Rome, vol. III, 1963, p. 213-239. Édition française dans Sources Chrétiennes n° 367, Le Cerf, 1990, par Pierre-Yves Émery.

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  44. Saint Bernard de Clairvaux, De laude novae militiae, ch. III, n° 4, dans Sancti Bernardi Opera, éd. Jean Leclercq et Henri Rochais, Editiones Cistercienses, Rome, vol. III, 1963, p. 217. ラテン語原文 : « Christi miles securus interimit, interit securior. Sibi praestat cum interit, Christo cum interimit. [...] Sane cum occidit malefactorem, non homicida, sed, ut ita dixerim, malicida, et plane Christi vindex in his qui male agunt, et defensor christianorum reputatur. » Traduction française dans Sources Chrétiennes n° 367, p. 56-57.

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  45. Innocent IV, Commentaria super libros quinque Decretalium, sur la décrétale X 3.42.3 (De baptismo et eius effectu), vers 1245, éd. Francfort, 1570. Cité dans Brian Tierney, The Idea of Natural Rights, Eerdmans, 1997, p. 116-117. Voir aussi James Muldoon, Popes, Lawyers, and Infidels: The Church and the Non-Christian World, 1250-1550, University of Pennsylvania Press, 1979, p. 5-27.

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  46. Pie XII, discours « Ci riesce » aux participants du Congrès national de l'Union des juristes catholiques italiens, 6 décembre 1953, Acta Apostolicae Sedis, vol. 45, 1953, p. 794-802. 上の表現は、信仰の行為の自由に関する演説の発言の言い換えである。

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  47. Concile Vatican II, déclaration Dignitatis humanae sur la liberté religieuse, 7 décembre 1965, n° 10, Acta Apostolicae Sedis, vol. 58, 1966, p. 936. この宣言は、2 308票の placet に対して70票の non placet で採択された。上のフランス語引用は、公式フランス語逐語記録(vatican.va、公会議文書庫、2026年10月4日に確認)に基づき再構成したものである。

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  48. Pour la croisade albigeoise, voir Jacques Berlioz, « Tuez-les tous, Dieu reconnaîtra les siens » : la croisade contre les Albigeois vue par Césaire de Heisterbach, Loubatières, 1994 ; et Mark Pegg, The Most Holy War: The Albigensian Crusade and the Battle for Christendom, Oxford University Press, 2008.

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  49. La phrase « Caedite eos. Novit enim Dominus qui sunt eius » (« Tuez-les tous, le Seigneur reconnaîtra les siens ») n'est rapportée que par Césaire de Heisterbach, Dialogus miraculorum, V, 21, vers 1219-1223, soit dix ans après les faits. Jacques Berlioz (CNRS) considère qu'il s'agit probablement d'une construction rhétorique cistercienne destinée à édifier les novices, pas d'un mot historique d'Arnaud Amaury.

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  50. Jean Flori, Pierre l'Ermite et la première croisade, Fayard, 1999, p. 90-120. Flori démontre que le récit traditionnel d'un Pierre l'Ermite ambassadeur réel d'Alexis Comnène repose sur des sources tardives ; mais la figure de l'ermite prédicateur ayant tenté un pèlerinage à Jérusalem dans les années 1090 est solidement attestée.

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  51. Solomon bar Simson, Chronique de la première croisade, vers 1140, éd. et trad. dans Robert Chazan, European Jewry and the First Crusade, University of California Press, 1987, p. 243-297 (les p. 225-242 donnent l'Anonyme de Mayence). Voir aussi Eva Haverkamp, Hebräische Berichte über die Judenverfolgungen während des Ersten Kreuzzugs, Monumenta Germaniae Historica, Hannover, 2005.

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  52. Solomon Grayzel, The Church and the Jews in the Thirteenth Century, vol. I, Hermon Press (1ʳᵉ éd. 1933, rééd. 1966), donne le texte critique de la Constitutio pro Iudaeis (dite Sicut Iudaeis non) de Calixte II (vers 1120) et étudie ses renouvellements par les papes successifs, dont Innocent III en 1199 (fin du XIIᵉ siècle) et Innocent IV au XIIIᵉ siècle. 17回の更新という正確な数字と、1447年までの完全なリストは、この回では Grayzel で再構成できなかったため、記事の本文からは取り除かれている。

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  53. Sylvain Gouguenheim, Aristote au Mont-Saint-Michel : les racines grecques de l'Europe chrétienne, Seuil, 2008, p. 110-180. L'ouvrage a déclenché une vive polémique en 2008 ; ses thèses centrales sur la transmission directe gréco-latine (sans relais arabe obligatoire) restent défendues par une partie de la médiévistique, contestées par l'autre. Voir le dossier critique de Médiévales n° 56, automne 2009.

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  54. Commission théologique internationale, Mémoire et réconciliation : l'Église et les fautes du passé, 7 mars 2000 (thème proposé par le président de la Commission, le cardinal Joseph Ratzinger). Texte officiel français sur vatican.va (roman_curia/congregations/cfaith/cti_documents/rc_con_cfaith_doc_20000307_memory-reconc-itc_fr.html, vérifié le 4 octobre 2026) : « L'Église, bien que sainte par son incorporation au Christ, ne se lasse pas de faire pénitence : elle reconnaît toujours comme siens, devant Dieu et devant les hommes, ses fils pécheurs » (reprenant Jean-Paul II, Tertio millennio adveniente, n. 33). 記事本文のフランス語表現は、この証明された教理的意味の言い換えであり、逐語引用ではない。

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  55. Saint Jean-Paul II, homélie de la Journée du Pardon, dimanche 12 mars 2000, premier dimanche de Carême, basilique Saint-Pierre, n° 3 ; texte intégral sur Vatican.va (content/john-paul-ii/fr/homilies/2000/documents/hf_jp-ii_hom_20000312_pardon.html, vérifié le 4 octobre 2026).

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  56. Cardinal Francis Arinze, confessio peccatorum n° 5 (« péchés contre l'amour, la paix et le respect des cultures et des religions »), prononcée durant la liturgie pénitentielle du 12 mars 2000, texte officiel publié par le Secrétariat d'État du Saint-Siège, Acta Apostolicae Sedis, vol. 92, 2000, p. 425-430. 上のフランス語表現は、証明された意味の言い換えである(同日のヨハネ・パウロ2世の説教を参照。「他の宗教の信徒に対して時に取られた不信と敵意の態度」)。公式の逐語記録はこの回ではオンラインで入手できなかったため、引用符での引用に先立って、AAS で再確認する必要がある。

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  57. Déclaration commune de Jean-Paul II et de Christodoulos, archevêque d'Athènes et de toute la Grèce, signée à l'Aréopage le 4 mai 2001 ; texte sur le site du Dicastère pour la promotion de l'unité des chrétiens (christianunity.va, section dialogues / Église orthodoxe de Grèce / déclarations communes).

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  58. Régine Pernoud, Pour en finir avec le Moyen Âge, Seuil, 1977, rééd. Points-Histoire, 2014, p. 14. Pernoud (1909-1998), archiviste-paléographe, conservatrice des Archives nationales et fondatrice du Centre Jeanne-d'Arc d'Orléans, a consacré sa vie à corriger les caricatures du Moyen Âge.

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