ニューエイジ、すなわち新時代とは、1960年代から1980年代にアメリカ合衆国とイギリスで生まれた霊的星雲を指す。それは「水瓶座の時代」の占星術、ブラヴァツキーとベイリーの神智学、ユングの心理学、19世紀のオカルティズム、文脈から切り離されたヒンドゥー教と仏教の要素、そして地球規模の目覚めの約束を、同じ旗の下に集めている。構造化された宗教ではなく、聖職者も共通の教義も教会も持たない、著述家、実践者、センターの流動的なネットワークである[1]。
この漠然さは欺瞞的である。単なる霊的開放の外観の下で、ニューエイジは首尾一貫した人間学を提示している。神はもはや人格的な創造主ではなく、非人格的な宇宙エネルギーであり、イエスはもはや受肉した御言葉ではなく、他の人々と並ぶ目覚めの師の一人であり、救いはもはや恵みの無償の賜物ではなく、意識を変容させる技法であり、罪はもはや神との断絶ではなく、払拭すべき無知である。2003年2月3日、ローマの二つの省庁が共同で固有の文書『生ける水の担い手イエス・キリスト』を発表し、キリスト者がこの問題を見分ける助けとした[2]。
カトリックの診断は、対称的な二つの罠を避ける。一方では、瞑想すること、深く呼吸すること、自然を愛することがオカルティズムに属するかのように、区別なくすべてを悪魔化することではない。他方では、ニューエイジが信仰と両立する単なる文化的色合いにすぎないかのように、すべてを些細なこととして片づけることでもない。ローマの文書は明確に述べている。キリスト教的生活とニューエイジの霊性との間では、二つの世界観が根本的に対立しており、キリスト者は自分が何を選ぶのかを知らなければならない[3]。
本記事は、近代秘教と19世紀の心霊主義の潮流におけるニューエイジの根源をたどり、アメリカの対抗文化におけるその誕生を物語り、その中心教義を提示し、ローマの文書を紹介し、なぜカトリック信仰がそれに同調できないのかを分析し、エクソシストたちが四十年にわたって確認してきた具体的な危険を示し、この潮流の最良の論拠に答え、そこから離れたいと願う人のために簡素な道を提案する。中心にあるのは恐れではない。それは、キリストがサマリアの女に約束した生ける水、無償で、公に、すべての人に差し出され、本当に渇きを癒す賜物である。
構造化された宗教ではなく、霊的星雲
ニューエイジについて語る際の第一の罠は、それを聖典、聖職者、公式の信徒を持つ古典的な宗教として扱うことである。そうではない。ニューエイジは開かれた霊的市場である。そこでは、ヒンドゥー教、仏教、アメリカ先住民のシャーマニズム、古代キリスト教グノーシス、ユダヤ教から切り離されたカバラ、西洋の錬金術、フリーメイソン、神智学、人間性心理学、急進的な環境主義、通俗化された科学から要素を取り入れる。各人が、自分を落ち着かせ、鼓舞し、あるいは力の感覚を与えるものに応じて、自分自身の教義を組み立てる。
聖職者も教義も持たない「流動的なネットワーク」
イギリスの社会学者ポール・ヒーラスは、1996年に出版された参照作『The New Age Movement』の中で、「生そのものの霊性」について語っている。それは、外的な啓示への従順よりも、自己開発、主観的体験、内面的変容に焦点を当てた、拡散した宗教性である[4]。オランダの歴史家ヴーター・ハーネフラーフは、百科事典的な学位論文『New Age Religion and Western Culture』(Brill、1996年)の中で、この運動が単なる流行の産物ではなく、近代西洋秘教の世俗化の帰結であり、19世紀の神智学とオカルティズムの潮流が心理学と通俗科学の言葉で言い換えられたものであることを示している[5]。
この構造の欠如により、この現象を一括して反駁することは難しくなっている。ある信奉者はチャネリングを拒否しながら占星術を保持し、別の信奉者はクリスタルを捨てながら超越瞑想を続け、三人目は「ニューエイジ」への帰属を一切否定しながら、毎朝同じ非人格的一元論の宇宙論を唱えることがある。まさにこのことを、2003年のローマの文書が真っ先に見抜いていた。
「新時代は、『新しい宗教運動』という表現における『運動』という言葉に与えられる意味での運動ではなく、一般に『カルト』や『セクト』という言葉で理解されるものにも相当しない。[…]統一され画一化された運動であるどころか、新時代はむしろ、地球規模で考え、地域で行動するというアプローチを持つ信奉者たちの流動的なネットワークである。」 文化評議会および諸宗教対話評議会、『生ける水の担い手イエス・キリスト』、第2節(2003年)[6]
「ニューエイジ」という言葉はどこから来たのか
「ニューエイジ」という言葉自体は、一般に考えられているよりも古くにさかのぼる。アメリカに定住したイギリス人神智学徒アリス・ベイリー(1880年から1949年)は、1920年代からすでにこの言葉を体系的に用いており、1944年に『Discipleship in the New Age』を著し、1954年の『Education in the New Age』がそれに続いた[7]。しかし、この用語が大衆文化に定着するのは1970年代になってからであり、英語圏の霊的サークルを起点としている。デイヴィッド・スパングラーは1971年にフィンドホーンで『Revelation: The Birth of a New Age』を出版し(1976年に Rainbow Bridge から再刊)[8]、マリリン・ファーガソンは1980年に『The Aquarian Conspiracy』を著した。この本は『ニューヨーク・タイムズ』によって**「ニューエイジ運動の聖書」**と呼ばれることになる[9]。
なぜ2003年にローマの文書なのか
1990年代末までに、カトリックの司教と司牧者たちは至る所で同じ静かな浸食を確認していた。「宗教的ではないが霊的である」と自称する洗礼を受けた人々、二つのミサの合間に霊媒を訪ねる教区民、イエスが決して主張しなかった「キリスト意識」をイエスに帰するカテキスタ、四旬節の研修会でレイキをプログラムに入れる教区センターなどである。2003年にローマが『生ける水の担い手イエス・キリスト』を発表したのは、厳粛に断罪するためではなく、公会議のいかなる文書もそれ自体として名指ししたことのなかった現象について、司牧者たちに精密で教義的かつ司牧的な識別の道具を与えるためであった[10]。それを促したのは、このゆっくりとした、毛細血管のような、方向感覚を失わせる拡散であった。
源流:近代オカルティズムの150年
ニューエイジを理解するには、その前史にさかのぼらなければならない。それは1960年代のカリフォルニアの空から落ちてきたのではない。それは長い西洋秘教の流れの現代における最新の姿であり、秘教の記事はその古代、中世、ルネサンスの源流をたどっている。本記事は1875年から1960年の期間に焦点を当てる。近代オカルティズムが再編され、必ずしも明言することなく、ニューエイジを生む対抗文化の爆発を準備した85年間である。
ブラヴァツキーの神智学:1875年
1875年11月17日、ニューヨークで、ロシアの冒険家ヘレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキー(1831年から1891年)が、ヘンリー・スティール・オルコット大佐と弁護士ウィリアム・クアン・ジャッジとともに神智学協会を設立した[11]。彼女の主著『ヴェールを脱いだイシス』(1877年)と『シークレット・ドクトリン』(1888年)は、直接の交信によって、謎めいたチベットの「マスターたち」、すなわちマハトマたちの知恵を伝えると称している。
神智学の教義は大規模な混合主義である。ヒンドゥー教の輪廻転生とカルマ、人間の存在の七つの「原理」、「根源人種」の宇宙的循環、普遍的兄弟愛、人格的な神の否定と進化論的汎神論の採用である。2003年のローマの文書は、神智学をニューエイジの第一の母体として明示的に認めている。
「新時代思想の本質的な母体は、秘教的神智学の伝統の中にある[…]。この形態の秘教は、ロシアの霊媒ヘレナ・ブラヴァツキーが提示した形において最も完成した姿に達した。彼女はヘンリー・オルコットとともに、1875年にニューヨークで神智学協会を設立した。」 『生ける水の担い手イエス・キリスト』、第2.3.2節[12]
ブラヴァツキーに帰せられたオカルト現象の信憑性は、生前からすでに争われていた。1885年12月、ロンドンの心霊現象研究協会は、リチャード・ホジソンがインドで実施した調査に基づくホジソン報告書を発表し、ブラヴァツキーは「歴史上最も有能で、巧妙で、興味深い詐欺師の一人」であると結論づけた[13]。一方で争われていないのは、神智学とキリスト教との間の正面からの教義的両立不可能性である。人格的な神を否定し、受肉の唯一性を否定し、体の復活を否定する神智学を、「キリスト教的な道」とみなすことはできない。
アリス・ベイリー、「霊的ヒエラルキー」と Lucis Trust
ブラヴァツキーが土台を築いたとすれば、アリス・ベイリーこそがニューエイジの用語を鍛え上げた人物である。1880年6月16日にマンチェスターで生まれ、英国国教会の上流社会で育ち、若い頃にインドで福音主義の宣教師を務めた彼女は、アメリカに移住した後に神智学に改宗した。彼女は、1919年から1949年にかけて、**ドワル・クール(「チベット人」)と名乗る「チベットのマスター」**からテレパシーで教えを受け、それを順次口述したと主張した。三十年間で、彼女は死後に出版されたものを含め、約二十四冊の著作をこのように出版した。生前に出版されたものとして『Initiation, Human and Solar』(1922年)、『A Treatise on Cosmic Fire』(1925年)、『A Treatise on White Magic』(1934年)、『Discipleship in the New Age』(1944年)、『The Reappearance of the Christ』(1948年)があり、1949年の没後には『Education in the New Age』(1954年)と『The Externalisation of the Hierarchy』(1957年)が続いた[14]。
1922年、アリス・ベイリーは夫フォスターとともにニューヨークに出版社を設立した。当初はLucifer Publishing Companyと名付けられ、異教的な意味での「光をもたらす者」である『Lucifer』への意図的な言及であった。抗議を受け、数年後に名称はLucis Trustに変更され、この略称は今日まで残っている。Lucis Trust は現在、秘儀的な Arcane School を持ち、『World Goodwill』を出版し、国連経済社会理事会(ECOSOC)における諮問資格を有していると自ら公表している[15]。
ベイリーは、後にニューエイジへそのまま移行することになるいくつかの構造を教えた。
- 七光線:霊的進化を構造化するとされる七つの基本的な「宇宙エネルギー」。
- 霊的ヒエラルキー:人類を次の時代へ導く**「アセンデッド・マスター」**(クート・フーミ、モリヤ、サンジェルマン、マスター・イエス、キリスト・マイトレーヤ)から構成される、目に見えない政府。
- キリスト・マイトレーヤの再臨:新しい時代を開くために現れなければならない宇宙的キリスト。ナザレのイエスでもキリスト教のキリストでもなく、誰によっても受肉されうる宇宙的機能である。
- 「大祈願」:ベイリーが1945年に作った普遍的な祈りであり、今なお世界中に広められている。
「新時代」(『New Age』)、「水瓶座の時代」、**「アセンデッド・マスター」**という表現が現代的な意味を獲得するのは、ブラヴァツキーにおいてよりも、ベイリーの著作においてである。
カール・ユング:秘教の心理学化
ニューエイジの胎動の第三の柱は、スイスの精神科医カール・グスタフ・ユング(1875年から1961年)の業績である。一時期フロイトの弟子であったユングは、1913年頃に彼と決別し、西洋科学の中に錬金術、グノーシス、占星術、神話、幻視を再導入する分析心理学を展開した。彼は、普遍的な元型(アニマ、アニムス、自己、影、老賢者、宇宙的母)で満たされた集合的無意識の存在を措定し、神々、秘跡、聖書の人物たちを人間の心の元型的投影として解釈した。
ユングは20世紀の多くの教養あるカトリック信者を魅了した。しかし、彼の還元を冷静に読まなければならない。彼においては、神と魂は客観的な現実ではなく、心的内容となる。2003年のローマの文書は彼に称賛の賛辞を送ってはおらず、ニューエイジの製造における彼の役割を冷徹に診断している。
「ユングは秘教を心理学化しただけでなく、秘教的思弁の内容を心理学に詰め込むことによって、心理学をも聖化した。」 ヴーター・ハーネフラーフ、『生ける水の担い手イエス・キリスト』、第2.3.2節に引用[16]
この「心理学の聖化」こそが、現代ニューエイジの中心的な操作である。あらゆる霊的現象は心的なものとなり、あらゆる心的過程は霊的なものとなり、神との出会いと自分の深い自己との対話との境界が消え去る。ヘレン・シュックマンの『奇跡講座』は、まさにこのことを大規模に再現することになる。
シュタイナーの決別、ゲノンの伝統主義、クロウリーの魔術
20世紀の他の三人の人物が、ニューエイジの中で爆発することになる思想の貯水池を養っている。
- ルドルフ・シュタイナー(1861年から1925年)はオーストリアの哲学者であり、若きクリシュナムルティが「キリスト・マイトレーヤの乗り物」として提示された問題をめぐり、アニー・ベサントと対立した後、1913年に神智学協会を離れた。彼は、キリストを中心的な人物として保持しながらも、ヨルダン川での洗礼の瞬間に人類の中に入った**「太陽的存在」としてキリストを描写するキリスト教的神智学である人智学を設立した。人智学はシュタイナー学校**、バイオダイナミック農法、人智学的医学を生み出し、今なお広く普及している[17]。
- ルネ・ゲノン(1886年から1951年)は、秘教的スーフィー・イスラームに改宗したフランス人であり、伝統主義を設立した。彼は、すべての宗教がその退化した枝にすぎないとされる「原初的伝統」の名において近代を拒否する。ゲノンはニューエイジではない。1951年に亡くなった彼は、この言葉を知ることは決してなかった。むしろ彼は神智学(『Le Théosophisme, histoire d'une pseudo-religion』、1921年)、心霊主義(『L'Erreur spirite』、1923年)、近代オカルティズムと戦った。しかし、制度化された宗教に先行し、それらに優る「原初的宗教」という彼のテーゼは、オルダス・ハクスリーが取り上げることになる「永遠の哲学」を大いに養っている[18]。
- アレイスター・クロウリー(1875年から1947年)はイギリスの魔術師であり、1904年に自らのセレマ(「意志」)の教団を設立し、儀式魔術、麻薬の儀式的摂取、そして『「汝の意志することを行え、それが法のすべてである」』という公式を広めた。彼の性魔術と黒魔術は、大衆向けニューエイジへの直接的な影響は比較的小さいが、それに隣接するネオペイガンやサタニストの潮流への影響はずっと大きい[19]。
これらの人物に、イギリスの哲学者で小説家のオルダス・ハクスリー(1894年から1963年)を加えなければならない。彼の『The Perennial Philosophy』(1945年)は、すべての宗教の下に存在する「永遠の哲学」のテーゼを擁護し、1953年には霊的な「知覚の扉」としてメスカリン、次いで LSD を実験した。1960年代のアメリカの対抗文化がニューエイジの教義的母体を受け取るのは、ベイリーを通してよりも、ハクスリーを通してである。
ニューエイジの誕生(1962年から1980年)
すべての準備が整った。神智学が宇宙論を提供し、ベイリーが用語を提供し、ユングが心理学化を提供し、ハクスリーが「永遠の哲学」を提供し、占星術が「水瓶座の時代」を提供し、戦後アメリカの対抗文化が土壌を提供した。1962年から1980年までの二十年足らずの間に、ニューエイジは識別可能な運動となる。
フィンドホーン、1962年:最初の共同体
1962年11月17日、スコットランド北東海岸のマレーにあるフィンドホーン湾で、三人の大人がキャラバンを設置した。王立空軍の元将校で神智学ロッジの会員であったピーター・キャディ、何年も前から神と同一視する「内なる声」を聞いていた妻アイリーン・キャディ、そして植物を司る目に見えない精霊である『デーヴァ』と交信すると主張するドロシー・マクリーンである[20]。この思いがけない三人は、砂と北風の中で、共同体自身の物語によれば、イギリスの大衆紙でその評判を築いた異常な大きさの野菜、巨大なキャベツとブロッコリーを育てた。共同体は成長し、数十人、次いで数百人の訪問者を引き寄せ、ヨーロッパにおけるニューエイジの最初の実験場の一つとなった。
1972年、アイリーン・キャディは、聞き取った言葉を集めた手引き『God Spoke to Me』を出版した。1970年からは、カリスマ的な若いアメリカ人デイヴィッド・スパングラーがフィンドホーンに到着し、1973年まで共同体を共同で率いたことで、この場所に教義的な射程が与えられた[21]。スパングラーは、1971年にフィンドホーン自体で『Revelation: The Birth of a New Age』(1976年再刊)を出版し、新しい時代が開かれつつあり、『宇宙的キリスト』が人類の中に降りようとしており、フィンドホーン共同体がその降臨の定着点の一つであると告げた。「新時代」という表現は、こうして大規模に発進された。
『奇跡講座』:ヘレン・シュックマンへの「イエス」の声
同じ頃、ニューヨークでは、ユダヤ系の無神論的心理学者であり、コロンビア長老派医療センターの医療心理学教授であったヘレン・シュックマン(1909年から1981年)が、何百万人もの人々を変えることになる体験をした。1965年10月21日、彼女は診察室で、こう口述する内なる声を聞いた。『「This is a Course in Miracles, please take notes」』[22]。その声は、イエスの声であると名乗った。七年間、1972年まで、シュックマンは同僚のウィリアム・セットフォードに助けられながら、この内面の口述の下でノートを何冊も満たした。
その成果は、カリフォルニア州ティブロンで Foundation for Inner Peace により 1976年に『A Course in Miracles』(フランス語では『Un Cours en miracles』)というタイトルで出版された。この著作は三つの書から構成されている。『テキスト』、『教師のためのマニュアル』、そして一年間、一日一課ずつ実践する365のレッスンを提案する**「練習帳」**であり、参照用の合本版(第3版、2007年)では1333ページに及ぶ[23]。この講座は国際的に広く普及し、今なお数百万部が売れ続けている。
教義的には、この講座はポスト・キリスト教的グノーシスである。物質的世界は、恐怖によって精神が作り上げた「幻想」であり、エゴは本当には存在せず、客観的な罪はなく、赦されるべき「誤り」があるのみであり、キリストは十字架で亡くなったナザレのイエスではなく、各人の中に存在する**「キリスト意識」であり、贖いは、瞑想と赦しによって「私たちは神である」**ことを認識することにある。すべてが見かけ上キリスト教的な語彙の下に隠されているため、この講座は、十分に養成されていないカトリック信者にとって特に魅惑的である。
マリリン・ファーガソン、『水瓶座の子供たち』(1980年)
出版界における創設的な出来事は、ジャーナリストで『Brain/Mind Bulletin』の創刊者であるマリリン・ファーガソン(1938年から2008年)による本の出版であり、1980年にロサンゼルスの J.P. Tarcher から刊行された『The Aquarian Conspiracy. Personal and Social Transformation in Our Time』である。フランス語では1981年に**『水瓶座の子供たち』**というタイトルで翻訳された[24]。この本は『ニューヨーク・タイムズ』によって「ニューエイジ運動の聖書」と評された。
ファーガソンはその中で、彼女が明示的に引用するトーマス・クーンの意味での**「パラダイム転換」が、西洋の医学、教育、経済、科学、霊性を揺るがしつつあると告げている。彼女によれば、この変容にはプログラムも指導者もないが、内的な一貫性がある。すなわち、すべてが相互につながっているという気づき、人間の意識が変異しつつあること、そして水瓶座の時代**に入りつつあることである。2003年のローマの文書は、ウィリアム・ジェームズとカール・グスタフ・ユングに「水瓶座の時代の先駆者たち」の一章を割いているファーガソンの本に言及している[25]。
ファーガソンの後に、文化的影響はさらに大規模であり、アメリカの女優シャーリー・マクレーン(1934年生まれ)は1983年に霊的自伝『Out on a Limb』(フランス語では『Mon chemin sur la corde raide』)を出版し、『Dancing in the Light』(1985年)がそれに続いた。マクレーンはその中で、霊媒との接触、前世への「退行」、霊的な「宇宙人」との出会いを物語り、象徴的なとなった次の言葉で締めくくっている。『「I am God. I am God. I am God.」』[26] 『Out on a Limb』を原作とするテレビシリーズは、1987年1月に ABC で数百万人の視聴者に向けて放送され、ニューエイジを大衆文化へと移行させた。
教義のパノラマ:ニューエイジは実際には何を教えるのか
多様な実践の霧を抜けると、ニューエイジ文献の中では六つないし七つの教義が絶えず繰り返し現れる。2003年のローマの文書は、第2.3.4節でそれらを際立った精密さで提示している。何がカトリック信仰と両立しないのか、そしてなぜなのかを理解するためには、それらを一つずつ見なければならない。
1. 一元論と汎神論:「すべては一つである」
教義の要は、現実は一つであり、その一は神的であるという肯定である。神と世界、精神と物質、創造主と被造物、善と悪というすべての区別は、目覚めた意識が超越しなければならない一時的な幻想である。バチカンは次のように要約している。
「新時代が語る神は、人格的でも超越的でもない。それは創造主でも、宇宙を愛をもって支える者でもなく、世界に内在する『非人格的エネルギー』であり、世界とともに『宇宙的統一体』を形成している。『すべては一つ』である。」 『生ける水の担い手イエス・キリスト』、第2.3.4.2節[27]
ニューエイジの一元論は、カトリック信者が創造の中に唯一の創造主の署名を認めるという意味での、宇宙の統一性に関する漠然とした表現ではない。それは存在論的な同一化である。存在するもの、それが神であり、多様性には固有の重みがなく、あなたと神との分離はあなたの幻想の中にのみ存在する。
2. 自己神格化:「あなたは神である」
一元論の直接の帰結は、すべてが神であるなら、あなたも神であるということである。霊的成長とは、あなたが忘れてしまったこの同一性を実現することに存する。それは、マクレーンがカリフォルニアの浜辺で叫んだことである。それは、今日数十人のニューエイジのコーチたちが「あなたは自分の現実の共同創造者である」という公式の下で繰り返していることである。バチカンは同じ教義を次のように定式化している。
「個人は神的な火花を持って生まれる[…]。したがって彼らは、本質的に、神的な存在とみなされる[…]。私たちは共同創造者であり、自分自身の現実を創造する。」 『生ける水の担い手イエス・キリスト』、第2.3.4.1節[28]
その約束は計り知れず、魅惑的である。それはまた、創世記第3章に記された誘惑の最も純粋な形でもある。
「あなたたちは神のようになり、善と悪を知るようになる。」 創世記 3章5節[29]
キリスト教的な謙遜は、神の前での小ささの表明ではない。それは被造物の存在論的な真理であり、被造物は自分自身からその存在を引き出すのではなく、自分自身の源ではなく、すべてを受け取る。まさにこのことを、ニューエイジは拒否している。
3. 罪はない:あるのは無知だけである
あなたが神であり、分離が幻想であるなら、神との自由な断絶というキリスト教的な意味での罪は不可能となる。残るのは、払拭すべき無知だけである。
「罪はない。あるのは不完全な知識だけである[…]。外から来る啓示や救いは必要ない。自分自身の奥底に存在する救いを体験すれば十分である(自己贖罪)。」 『生ける水の担い手イエス・キリスト』、第2.3.4.1節[30]
この置き換えには重大な帰結がある。悪が無知であるなら、求めるべき赦しはなく、差し出すべき償いはなく、担うべき十字架はなく、世界の罪のために死ぬべき死はない。贖いに関するキリスト教神学の全体が、たった一つの文によって無力化される。
4. 「宇宙的キリスト」対イエス・キリスト
カトリック信者にとって最も重大な点は、イエスに関わる。ニューエイジは常にキリストを否定するわけではない。それを再構成するのである。イエスは化身、偉大な秘儀伝授者、すべての人間に潜在的に存在し、すでに他の霊的人物(クリシュナ、ブッダ、マイトレーヤ)によって受肉されてきた**「キリスト意識」**の一時的な乗り物となる。キリストという言葉は保持されるが、それは受肉、十字架、復活、教会から引き離される。ローマの文書は明示的である。
「ナザレのイエスはキリストではなく、この『キリスト的』本性がその中に現れた多くの歴史的人物の一人にすぎず、ブッダや他の人々も同様であった。[…]ニューエイジにとって、宇宙的キリストは、多くの人々、場所、時代において繰り返されうるモデルである。」 『生ける水の担い手イエス・キリスト』、第2.3.4.2節および第3.3節[31]
カトリック信仰は別のことを肯定し、絶対的な粘り強さをもって常に肯定してきた。ナザレのイエスは、普遍的な意識の特殊な事例ではない。彼は、人格において、聖霊によってマリアから懐胎し、ポンティオ・ピラトの下で金曜日に亡くなり、復活祭の朝に復活し、聖体の中に実在し、神と人との間の唯一の仲介者である、父の永遠の御言葉が肉となった方である。
「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人間であるキリスト・イエスであり、すべての人のための贖いとして自らを差し出された方である。」 聖パウロ、テモテへの手紙一 2章5節から6節[32]
5. 輪廻転生とカルマ
ニューエイジは、そのほぼすべての変種において、宇宙論的な枠組みとして輪廻転生を取り入れている。魂は何千もの連続する生涯を経て、(良いあるいは悪い)カルマを蓄積し、その選択に応じて進歩したり後退したりしながら、ついにはその循環から逃れることを可能にする目覚めの状態に達する。神智学的な再解釈を通してヒンドゥー教と仏教から継承されたこの信仰は、聖書の教えと正面から矛盾する。
「人間は一度だけ死ぬことが定められ、その後裁きを受ける。」 ヘブライ人への手紙、9章27節[33]
カトリック信仰は、この地上でのただ一度の生涯、死の瞬間における個別の裁き、天国へ向かう途上にある選ばれた人々の浄化のための煉獄の存在、そして時代の終わりにおける体の復活を教える。輪廻転生は、これらすべてを不可能にし、空虚なものにする。輪廻転生は虚偽の信仰なのかの記事は、この対立を深めている。
6. 水瓶座の時代、宇宙的千年王国説
占星術的な想像力が、ニューエイジの約束を構造化している。西洋占星術は天空を十二の星座に分け、地球の歳差軸(25800年にわたる地軸のゆっくりとした回転)により、春分点はゆっくりと移動し、各星座を約2150年かけて通過する。ニューエイジの占星術師たちによれば、私たちは現在、使徒時代以来伝統的にキリスト教と結びつけられてきた星座である魚座の時代から離れ、水瓶座の時代に入りつつある。
「占星術師たちによれば、私たちは現在、キリスト教に支配されてきた魚座の時代にいる。しかし、魚座の時代は、この第三千年紀の初めに、水瓶座の新しい時代(英語で New Age)に取って代わられようとしている。」 『生ける水の担い手イエス・キリスト』、第2.1節[34]
その背後にある神学は明らかである。キリスト教はその時代において有用であったが、より高く、より自由で、より普遍的で、より「目覚めた」宗教に道を譲るよう求められている。これは宇宙的千年王国説の現代的な形であり、カトリックの終末論に関する真正な教義については千年王国説の記事を参照されたい。キリスト教は時代遅れの段階ではない。それは時代の決定的な成就であり、キリストの栄光ある再臨まで存続する。
7. アセンデッド・マスター、ガイド、霊的ヒエラルキー
最後に、ニューエイジは天空を中間的な存在たちで満たしている。チベットのマスターたち、天使のガイド、守護天使的な心霊的存在、自然の精霊、ユング的元型、霊的な宇宙人、チャネリングされた死者たちである。その階層構造は、アリス・ベイリーとブラヴァツキーに直接由来する。実際には、多くのニューエイジ信奉者は、祈り、瞑想、チャネリング、自動書記の技法によって、これらの存在と日常的に対話しているとみなしている。
キリスト教的な観点からは、問いは精密である。これらの存在は存在するのか。そして存在するとすれば、それらは何者なのか。『カトリック教会のカテキズム』は、天使と悪魔の存在を教えている。ニューエイジの「ガイド」の一部は、おそらく無意識の心的な投影と重なるだろう。しかしエクソシストたちの絶えざる経験によれば、別の部分は、よりよく欺くために、光、愛、霊的進歩の言葉を好んで採用する悪魔的な現前と重なっている。
「サタンでさえ、光の天使に変装する。」 聖パウロ、コリントの信徒への手紙二 11章14節[35]
ニューエイジの主要な実践とその共通の論理
これら七つの教義には、現代のほとんどのニューエイジ・センターで見られる実践の星座が対応している。識別が具体的になるためには、それらを名指ししなければならない。
| 系統 | 典型的な実践 | 共通の論理 |
|---|---|---|
| 占い | 占星術、タロット、ルーン文字、オラクル、振り子、手相、千里眼 | 隠された未来を知り、その知識によって人生を方向づけようとすること |
| 目に見えないものとの交信 | チャネリング、自動書記、霊媒、心霊主義、死者との接触 | 神によって保証されていない霊的存在からメッセージを受け取ること |
| 微細なエネルギー | レイキ、磁気療法、エネルギーヒーリング、キネシオロジー、バイオフィードバック、クリスタル療法 | 体を横切るとされる非人格的な「エネルギー」を操作すること |
| 変性意識 | 超越瞑想、退行催眠、シャーマニズム的トランス、アヤワスカ、「バイノーラル・サウンド」 | 「上位の現実」にアクセスするために変性意識状態を引き起こすこと |
| 顕現 | 創造的視覚化、引き寄せの法則、肯定的な断言、ビジョンボード | 小さな神のように、思考によって物質的現実を形作ること |
| 疑似霊的療法 | ファミリー・コンステレーション、カルマ的記憶、前世、ソウル・リトリーバル | 教義的な枠組みなしに、混合主義的な霊的プロトコルによって癒すこと |
これらすべての実践には、カトリックの警報を鳴らす二つの共通の特徴がある。
- それらはニューエイジ的な人間学(自己神格化、非人格的エネルギー、輪廻転生、物質の幻想的なヴェール)を前提としている。使用者が気づいていなくても、実践とともに、それを下支えする世界観を持ち込むことになる。
- それらは、神から受け取ったのではない手段によって、目に見えないもの、未来、病気、関係を支配しようとする。これは『カトリック教会のカテキズム』が非難するものである。
「占いのあらゆる形態は退けられなければならない。サタンや悪魔への依拠、死者の喚起、その他の、未来を『暴く』と誤って想定される実践である。星占い、占星術、手相、兆しや運命の解釈、千里眼の現象、霊媒への依拠の相談は、時間、歴史、そして最終的には人間に対する支配の意志とともに、隠された力と和解したいという欲望を秘めている。」 『カトリック教会のカテキズム』、第2116項[36]
「隠された力を飼いならし、自分のために役立て、隣人に対する超自然的な力を得ようとすると主張する、魔術や妖術のあらゆる実践は[…]、敬神の徳に重大に反する。」 『カトリック教会のカテキズム』、第2117項[37]
これは教会の被害妄想ではない。これは、人間が神から自由に受け取るものと、侵入によって取ろうとするものとの間の客観的な境界である。
『生ける水の担い手イエス・キリスト』:ローマの参照文書(2003年)
2003年2月3日、ローマの二つの省庁、文化評議会(ポール・プパール枢機卿が議長)と諸宗教対話評議会(マイケル・フィッツジェラルド枢機卿が議長)が共同で、正確に『生ける水の担い手イエス・キリスト。『新時代』に関するキリスト教的考察』と題する文書を発表した。全文は聖座の公式サイトで入手できる[38]。
この文書は、回勅でも教導権の厳粛な行為でもなく、教区でこの現象に遭遇する司牧者、カテキスタ、信徒に向けられた暫定的な考察である。その構成は明確であり、「当初の方向づけ」から一般書誌までの九つのセクションからなる。その方法はキリスト教的識別の方法である。
なぜ「生ける水の担い手」なのか
タイトル自体は、ヨハネ福音書第4章、シカル(Sykar)の井戸におけるキリストとサマリアの女の出会いから取られている。その女は渇いていた。イエスは彼女をより深い渇きへ導き、彼女が聞いたこともない水を彼女に差し出した。
「神の賜物を知り、また、『飲み水をください』と言うのが誰であるかを知っていたなら、あなたはその方に請い、その方はあなたに生ける水を与えたであろう[…]。この水を飲む者は誰でもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は、決して渇くことがない。」 聖ヨハネによる福音書、4章10節から14節[39]
ローマの文書がこのイメージを選んだのは、ニューエイジがそのやり方で、一致への渇き、癒しへの渇き、意味への渇き、内面性への渇き、生き生きとした宗教的体験への渇きという、本物の渇きについて語っているからである。この渇きは不当ではない。それはサマリアの女の渇きと同じである。問いは、どこへ飲みに行くのかを知ることである。ニューエイジは人間に、自分の井戸から汲む水を提示する。キリストは、自ら与える水を差し出す。
「この研究は、私たちの同時代の多くの人々、男性も女性も、その霊的な渇きを考慮に入れるよう招くものである。」 ポール・プパール枢機卿とマイケル・フィッツジェラルド枢機卿、『生ける水の担い手イエス・キリスト』序文(2003年)[40]
方法:悪魔化でも素朴さでもなく
この文書は、混同を避けなければならない判断のいくつかの水準を区別している。「ニューエイジ」というラベルの下に集められたすべての実践が同等ではない。あるもの(呼吸の技法、心理学の読書、生態学的な感受性)は、それ自体としては中立的であったり有益であったりする。別のもの(チャネリング、占い、「アセンデッド・マスター」の崇拝)は、カトリック信仰と両立しない。さらに別のもの(超越瞑想、レイキ、「霊的な」ヨガ)は、精密な識別を必要とする。姿勢において中立的なものが、教師たちが運ぶ教義によって汚染されることがあるからである。
この文書は「禁止された実践」の網羅的なリストを提供していない。それが与えるのは基準である。それらを各具体的な事例に適用するのは、司牧者と信徒の役割である。基本的な基準は教義的である。その実践は、非人格的な神、自己神格化、罪の否定、ナザレのイエスから切り離された宇宙的キリスト、輪廻転生を前提としているか。答えが「はい」であれば、その実践は信仰と両立しない。
なぜニューエイジはカトリック信仰と両立しないのか
ここまで来ると、ローマの文書がその第四セクション全体を通して探求している教義的な隔たりを、要約して提示することが可能になる。次の表は主題を尽くすものではないが、二つのヴィジョンを隔てる根本的な相違を一目で示している。
| 問い | ニューエイジの答え | カトリック信仰の答え |
|---|---|---|
| 神とは誰か | 非人格的な宇宙エネルギー、「すべて」、内在的な原理 | 人格的な創造主、三つのペルソナ(父、子、聖霊)、世界とは区別されながらも世界に宿る方 |
| 人間とは誰か | 幻想の中に閉じ込められた神的な火花、現実の共同創造者 | 神の像と似姿に従って造られ、罪によって傷つき、恵みによって永遠の命へ招かれた被造物 |
| イエス・キリストとは誰か | 偉大な秘儀伝授者、化身、普遍的な「宇宙的キリスト」の乗り物 | 父の永遠の御言葉が肉となり、死に、復活し、唯一の仲介者であり、聖体の中に現存する方 |
| 悪とは何か | 無知、エネルギーの滞り、低い振動 | 神に対する自由な罪、被造物を傷つけ創造主を侮辱する断絶 |
| 救いとは何か | 意識の目覚め、「私は神である」という気づき | 信仰、秘跡、愛、絶えざる回心によって受け取る恵み |
| 死後、魂はどうなるか | 最終的な目覚めまでの輪廻転生、すべてへの融合 | 個別の裁き、煉獄あるいは天国あるいは地獄、体の復活 |
| 権威とは何か | 主観的な体験、内なる声、選んだ師 | 教会の中で受け取った啓示:聖書、聖伝、教導権 |
| 歴史はどこへ向かうか | 水瓶座の時代、地球規模の融合、普遍宗教へ | キリストの栄光ある再臨、裁き、復活、新しいエルサレムへ |
各列は内的に首尾一貫している。悲劇的なのは、それらがほとんどどこでも交わらないことである。体の復活と輪廻転生、キリストの唯一の仲介と自己贖罪、人格的な神と宇宙エネルギーを「調和させる」ことはできない。一方を選ぶことは、他方を拒否することである。現代ニューエイジの大きな罠は、まさに、すべてを保持できると信じさせることにある。少しの福音、少しのタロット、少しの聖体、少しのレイキ、少しの聖母マリア、少しのクリスタルである。教義的には、それは不可能である。
聖パウロは、並行する崇拝へ滑り込む誘惑に駆られたコリントのキリスト者たちに対して、それを率直に定式化していた。
「あなたたちは、主の杯と悪魔の杯の両方を飲むことはできない。あなたたちは、主の食卓と悪魔の食卓の両方にあずかることはできない。」 聖パウロ、コリントの信徒への手紙一 10章21節[41]
「主の定めは正しく、心に喜びを与え、主の命令は清らかで、目に光を与える。」 詩編 19編9節(18編)[42]
ニューエイジの具体的な危険
教義的な相違に加えて、司牧者、聴罪司祭、そして特にエクソシストたちが四十年にわたって確認してきた霊的および心理的な危険がある。それらは理論的なリスクではない。傷ついた生涯である。
漸進的な滑落と霊的な亀裂
第一の危険は陰険である。カトリック信者が毎日の聖体からサタニズムへ突然移行することは、ほとんど決してない。滑落は段階的に起こる。「笑い話として」の占星術のセッションから始める。「リラックスできるから」という理由でレイキの秘儀伝授に続ける。「宗教的ではないから」という理由で超越瞑想の講習会に移る。「ただ知りたいだけ」という理由で霊媒に相談する。そして各段階で、その背後にある教義、非人格的な神、自己神格化、輪廻転生が、洗礼を受けた人の思考の中に少しずつ深く入り込み、ついには自分が何を信じているのかよく分からなくなる。
エクソシストたちの証言:悪魔的なものへの浸透性
1986年6月、ローマの代理であるウーゴ・ポレッティ枢機卿は、ガブリエーレ・アモルト神父(1925年から2016年)を主任エクソシストであるカンディド・アマンティーニ神父の補佐として教区のエクソシストに任命し、アモルトはその後任となり、死去するまでこの職務を務めた[43]。1990年代初頭、彼はジェレミー・デイヴィス神父とともに国際エクソシスト協会(AIE)を共同設立した。初期の関係エクソシストの中にはルネ・シェヌッソー神父もおり、アモルトは2000年までその会長を務めた。アモルトは、その生涯で数万回のエクソシズムを行ったと主張している。一部のインタビューで提示された70000回という数字は、情報源によって異なり、ここでは慎重に取り上げる[44]。彼の著書『Un esorcista racconta』(1990年、フランス語では『Un exorciste raconte』というタイトルで翻訳)と、その約百回の公開インタビューは、エクソシストたちが秘跡の秘密の中で確認していることを一般の人々に知らせることになった。
アモルトは、悪魔的な憑依、苦しめ、侵襲への古典的な三つの**「入口」を特定している。告解されていない大罪**、オカルト諸術(霊媒への相談、交霊会、占い、魔術、意識的なサタニズム)、そして敵の教義への加入(グノーシス、オカルティズム、そして明示的にニューエイジ)である。
典礼的および神学的な枠組みについては、カトリックのエクソシズムの記事を参照されたい。
アイデンティティの混乱と心理的な不安定化
悪魔的なものを超えて、枠組みのない集中的なこれらの技法の実践は、現実の不安定化にさらす。離人症、解離、「カルマ的」退行後の慢性不安、人格の漸進的な崩壊である。人間の魂は、客観的な枠組みなしに「意識の次元」を無期限に探索するようにはできていない。魂がその基準点を失うとき、それは断片化する。
摂理の放棄
より目立たない形で、ニューエイジは摂理の静かな放棄をもたらす。すべてを神から期待する代わりに、視覚化、「引き寄せの法則」、肯定的な断言、個人的な儀式によって現実を強制しようとする。祈りは顕現の技法となる。信頼は霊的工学となる。人格的な父との対話は、自分が支配できると考える宇宙的な仕組みに取って代わられ、消え去る。これはおそらく最も深く、最も持続的な霊的変異である。
「あなたの業を主に委ねれば、あなたの計画は成就する。」 箴言、16章3節[45]
ニューエイジの最良の論拠とその反駁
真剣な護教的記事は、それらに答える前に、相手の論拠をその最も強い形で提示しなければならない。ニューエイジについては、六つの反論が絶えず繰り返される。どれも軽視できない。真に耳を傾けた場合にのみ、すべてを押しとどめることができる。
反論1:『すべての宗教は同じことを言っている。』
これは中心的な論拠である。神が存在するなら、特定の宗教を優遇することはできない。すべての道は神の前に平等であろう。18世紀の理神論とオルダス・ハクスリーの「永遠の哲学」から継承されたこのテーゼは、グローバル化によってもっともらしくなっている。謙虚な仏教徒、輝くヒンドゥー教徒、誠実なイスラム教徒、正しい無神論者に出会う。なぜキリスト教だけが真理を独占しなければならないのか。
答え:宗教の等価性というテーゼは分析に耐えない。なぜなら、宗教は決定的な点において両立しないことを語っているからである。仏教は人格的な神の存在を否定し、キリスト教はそれを肯定する。ヒンドゥー教は輪廻転生を肯定し、キリスト教はそれを排除する。イスラームはキリストの神性を否定し、キリスト教はそれを告白する。すべての宗教が同じ点において等しく真実であることはできない。いずれか一方が真実で他方はそれらの点において誤っているか、すべてが誤っているかである。カトリック信仰が認めるのは、すべての宗教が「真理の種子」を含んでいること(第二バチカン公会議『Nostra Aetate』)であるが、啓示の全体の預託は教会に委ねられたということである。これは他の伝統を辱めるものではない。現実の一貫性を尊重することである。
反論2:『キリスト教は自らの神秘主義を忘れてしまった。』
これは社会学的にはしばしば正しい批判であり、2003年のローマの文書も正直に認めている。多くのカトリック信者は、道徳的な規則、社会的活動主義、道徳主義的なカテキズムに還元され、観想も体験も内面性もない信仰に出会ってきた。彼らは、ヨガ、レイキ、超越瞑想の中に、自分の教区で見いだせなかったものを見いだす。
答え:キリスト教は最も深い神秘主義を有している。『告白』における聖アウグスティヌス、『雅歌講話』における聖ベルナルドゥス、『旅程』における聖ボナヴェントゥラ、『暗夜』における聖十字架のヨハネ、『霊魂の城』における聖アビラのテレサ、『自叙伝の書』における聖リジューのテレサ、三位一体のエリザベト、聖マキシミリアノ・コルベ、聖ピオ神父、神のしもべルイーザ・ピッカレッタ、マルト・ロバンなど、実在する人格的な神との真の一致への多くの道がある。カトリックの神秘主義は、自らの奥底における目覚めの探求ではない。それは、自らを与える他者との出会いである。聖十字架のヨハネが要約するように。
「この人生の夕べに、私たちは愛について裁かれるであろう。」 聖十字架のヨハネ、『霊的格言』[46]
キリスト教の神秘主義が無視されているとすれば、それは消滅したからではなく、本と典礼の中に利用できる状態で残っているからである。それを再発見しなければならないからである。渇きへの答えはオカルティズムではない。それはカトリックの神秘主義である。
反論3:『イエスは目覚めを教えに来たのに、教会がそれを裏切った。』
これは、現代風にアレンジされた古代グノーシスのテーゼである。「真のイエス」は内面的変容の秘められた知識を教えたはずであり、使徒たちとローマ教会はそのメッセージを制度的な教義へと歪曲し、原初の教えを保持していたはずの「グノーシス福音書」(トマスによる福音書、マリア・マグダレーナによる福音書、ユダによる福音書)を検閲した。このテーゼは、ダン・ブラウンの小説『ダ・ヴィンチ・コード』(2003年)と、一般向け秘教文学全体によって普及した。
答え:これは歴史的に誤りである。1945年12月にナグ・ハマディで発見された「グノーシス福音書」は2世紀から4世紀のものであり、正典の福音書よりはるかに後である。それらが教会によって隠されたことは決してない。それらは、年代が遅く、使徒の証言より後であり、最初の弟子たちの宣教とは無縁であるため、決して受け入れられなかったのである。聖リヨンのイレネオは、すでに180年頃、その『Adversus Haereses』においてグノーシス福音書を反駁している。「検閲」のテーゼ自体が、後世の作り話であり、秘教の記事および古代グノーシスのセクションを参照されたい。
反論4:『量子物理学が一元論を証明する。』
フリッチョフ・カプラのベストセラー『タオの物理学』(1975年)以来、大規模な文献が、量子力学がニューエイジの宇宙論、すなわち普遍的な相互接続、現実を創造する観測者、非局所性、「統一場」を科学的に立証すると主張してきた。ディーパック・チョプラからエックハルト・トールまで、カプラからリン・マクタガートまで、何百万冊もの本がこの等価性を広めてきた。
答え:これは方法の観点からはカテゴリーの乱用である。量子力学は、素粒子の振る舞いに関する精密な数学的理論である。それは意識、カルマ、魂、神について何も証明しない。量子もつれの現象は、距離を隔てた「魂と魂の交信」ではなく、古典的な意味でのいかなる情報も伝達しない、厳密に枠付けられた統計的現象である。観測者効果は、人間の意識一般とは何の関係もない。それは測定装置と量子系との相互作用を記述するものである。カプラ自身がその『タオの物理学』全体を通して確立している、現代物理学と東洋の神秘主義との並行関係は[47]、まさに量子的な語彙を意識、カルマ、神へ移し替えることこそが問題である。本当の物理学は、ニューエイジに賛成も反対もしない。それは形而上学的に沈黙したままである。
反論5:『私の個人的な体験が私の真理である。』
これは最も困難な論拠である。なぜなら、それはテーゼというよりも、議論の拒否だからである。『私は存在を感じた、光を見た、体験をした、それが真実ではないとは言えないはずだ。』
答え:主観的な体験は尊重に値するが、究極的な基準ではない。誰もが体験をし、そのすべてが真実であるわけではない。夢、幻覚、強い暗示、悪魔的な出会いは、その内面的な印象において互いに似ることがある。まさにこのため、教会は二千年にわたって識別の基準を練り上げてきた。超自然現象の識別の記事を参照されたい。聖イグナチオ・デ・ロヨラ、聖アビラのテレサ、聖十字架のヨハネは、魂が良い霊と悪い霊、本物の体験と欺瞞的な慰めを区別する助けとなる論文全体を著した。この伝統を拒否することは、自らの体験を考えることを拒否することである。
反論6:『カルマは赦しよりも正しい。』
カルマの教義が魅惑的なのは、それが自動的な正義を約束するからである。各行為には、恣意的な裁き主の介入なしに、計測された結果が対応する。キリスト教的な赦しは、多くの人にとって不正に見える。土壇場で回心した加害者が救われ、取り返しのつかないほど傷つけられた被害者がいるからである。そして輪廻転生は、決定的な地獄よりも優しく見える。
答え:カルマはより優しいのではなく、より厳しい。カルマの中には慈しみはない。借りは、生涯全体をかけて、最後の一銭まで支払われなければならない。加害者は、キリストとともに十字架上で一度支払うのではなく、自分が行ったことを清算するために、生を重ねて何度も戻ってくる。そして被害者は、自分を超える正義によって上から慰められることは決してない。彼女は、連続する転生の中で、秤が再び釣り合うのを待つよう強いられる。キリスト教の教義はより要求が厳しく、より美しい。すべてを見て、真実をもって裁き、いかなる不正も罰せられないままにしない人格的な裁き主がいる。そして、その赦しを受け入れる人々のために支払い、被害者の傷を永遠の栄光へと変容させ、すべてを体の復活の中に集約する救い主がいる。カルマがなしえない、正義と慈しみの両方である。
ニューエイジが漠然と探し求めているカトリックの宝
危険を認識するだけでは不十分である。ニューエイジに対するカトリックの答えは、防御的な「ノー」ではない。それは真の霊的生活の提供である。ローマの文書はそのことを見抜いていた。
「キリスト教信仰に対する不完全な理解が、一部の人々に、キリスト教は深い霊性を鼓舞しないと誤って考えさせ、よそに目を向けさせている。」 『生ける水の担い手イエス・キリスト』、第1.5節[48]
真の神秘主義:十字架のヨハネとアビラのテレサ
カトリック教会は、歴史上最大の神秘主義の伝統を有している。偉大な博士である聖十字架のヨハネ(1542年から1591年)は、魂がその中心部に至るまで神によって結ばれる変容的合一を、ブラヴァツキーもベイリーも近づくことのなかった厳密さで描写している。彼の同時代のカルメル会修道女である聖アビラのテレサ(1515年から1582年)は、『霊魂の城』の中で神との合一の七つの住まいを提示している。それはすべてへの非人格的な融合ではない。それは、混ざり合うことなく出会う二つの人格、魂と神との間の婚約的な出会いである。
「祈りとは、私の考えでは、自分が愛されていることを知っている神と、しばしば二人きりで親しく語り合う、友情の親密な交わり以外の何ものでもない。」 聖アビラのテレサ、『自叙伝の書』、第8章[49]
この定義は、ニューエイジの正反対である。聖女は内面的な目覚めについても、エネルギーへの融合についても語っていない。彼女が語るのは、互いを知り、互いに愛し合う二人の人格の間の友情の対話である。真正なキリスト教の神秘主義は、真実の愛を可能にするために不可欠な他者性を前提としている。
「あなたが知らない所へ行くためには、あなたが知らない所を通らなければならない。」 聖十字架のヨハネ、『カルメル山登攀』、第1巻、第13章[50]
秘跡:単なる目覚めではなく、真の変容
ニューエイジが意識の技法を提示する場所で、カトリック教会は秘跡を提供する。それは同じものではない。技法は、それを適用する者の努力に依存する。秘跡は、よく受け入れられるという単なる事実によって作用する、キリストご自身の行為である。洗礼は真に原罪を消し去り、告解は真に現行の罪を赦し、聖体は真にキリストの体、血、魂、神性を与え、堅信は真に聖霊を授け、婚姻は真に二人の配偶者を結び、病者の塗油は真に魂を癒し、時には体をも癒し、叙階は真にキリスト・祭司へと形づくる。
いかなる瞑想も、クリスタルも、視覚化も、そのようなことはしない。この無償で客観的な恵みを見失った洗礼を受けた人は、すでに手元にあるものを、よそに探しに行く誘惑に駆られる。
聖人たちの交わり:光の中の真の師であり友
ニューエイジは、その天空を漠然として検証不可能な**「アセンデッド・マスター」で満たしている。カトリック信仰は、二千年にわたって、その生涯が歴史的に証明され、著作が保存され、奇跡が審査された数万人もの聖人たち**を知っている。カトリック信者がガイドを欲するとき、聖アウグスティヌス、聖ベルナルドゥス、聖アッシジのフランチェスコ、聖トマス・アクィナス、聖シエナのカタリナ、聖アビラのテレサ、聖十字架のヨハネ、聖フランシスコ・サレジオ、聖リジューのテレサ、聖マキシミリアノ・コルベ、聖ファウスティナ、聖ピエトレルチーナのピオなど、多くの選択肢の中から選ぶことができる。
彼らは、神の中に生き、彼らを呼び求める人々のために祈る実在する友である。彼らは、自分たちを神格化するよう求めてはいない。彼らは常に唯一の仲介者であるキリストを指し示す。『自叙伝の書』の版が採用した公式によれば、「現代最大の聖女」である聖リジューのテレサ[51]は、ニューエイジの自己神格化とは正反対の、信頼と放任の「小さな道」の中にそれを要約した。
「おお、私の神よ。あなたがより多く与えたいと望めば望むほど、あなたはより多く望ませることを、私は知っています。[…]私を天の祖国へ引き寄せるのは、主の呼びかけであり、ついに私がこれほど望んできたように主を愛することへの希望であり、私が、永遠に主を祝福する多くの魂に主を愛させることができるだろうという思いです。」 聖幼子イエスのテレサ、『自筆原稿 B』、2葉裏面[52]
希望:宇宙的な再生利用ではなく、体の復活
ニューエイジは、すべてへの最終的な解消に至るまで、連続する生涯の中で魂を再生利用する。カトリック信仰は別のことを告げる。時代の終わりに、キリストは栄光のうちに再臨し、死者たちの体は復活し、天と地は新たにされ、聖人たちの交わりは三位一体との至福直観を永遠に生きる。それは非人格的な融合ではない。それは、栄光化された体における、人格的な神との愛の関係における、人格的な生である。
「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となり、神自ら人々とともにいて、その目からすべての涙をぬぐってくださる。もはや死はなく、嘆きも、叫びも、痛みもない。」 ヨハネの黙示録、21章3節から4節[53]
それは、水瓶座のすべての約束よりも上位の秩序の希望である。
ニューエイジから離れる:簡素な道
自分がニューエイジへ滑り込んでしまったことに気づいたカトリック信者のために、戻る道は精密であり、機能する。パニックになる理由はまったくない。神は常に対象を受け入れる。しかし、守るべき段階がある。
第一段階:祈りの中で放棄する
第一の行為は内面的である。神の前で、放棄するものを明確に名指す。特定の実践、霊的な開放、ガイド、「マスター」である。赦しを請う。洗礼の約束を新たにする。『私はサタンと、そのすべての業と、そのすべての誘惑を拒否します。』これらの言葉は典礼的な形式ではない。それは、怠慢によって結ばれた同盟を断ち切る精密な行為である。
第二段階:支持物を破壊する
実践に結びついたすべての物は破壊するか燃やされなければならない。タロット、オラクル、ルーン文字、お守り、「充電された」クリスタル、個人的な秘教書、振り子、魔術の手引き、崇拝の対象となった東洋の小像である。過激に見えるかもしれないが、それは現代のエクソシストたちの絶えざる教えである。キリスト教的でない霊的枠組みの中で使用された物は、単に使用をやめるという意図だけでは閉じることができない浸透性を保持している。
第三段階:秘跡として告解する
カトリックの司祭から受ける悔い改めの秘跡は、祈りが始めたことを封印する。告解の中で実践を名指ししなければならない。それは不快であるが、客観的なゆるしを受ける唯一の方法である。司祭は裁くためにいるのではない。キリストの名においてゆるすためにいる。
第四段階:キリスト教の祈りと聖体を再開する
掘り下げられた空白の代わりに、毎日のキリスト教の祈り、すなわち主の祈り、アヴェ・マリア、福音書の読書、祈祷を置く。定期的に、理想的には毎週、聖体を受ける。聖母マリアに特別な保護を求める。可能であれば、聖務日課またはその一部を祈る。そうでなければ、ロザリオで十分である。目的は、空白を別の儀式で満たすことではない。魂にその自然な糧を取り戻させることである。
ニューエイジが非人格的な「エネルギー」や、自分で充電する視覚化を提示する場所で、キリストは、いかなる人間の技法も生み出すことができないものを与える。
「わたしは、天から降ってきた生けるパンである。このパンを食べる者は永遠に生きる。[…]わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちに留まり、わたしもその人のうちに留まる。」 聖ヨハネによる福音書、6章51節および56節[54]
第五段階:障害が続く場合、司祭の助けを求める
告解と秘跡生活の再開の後も、異常な恐れ、感じられる存在、祈りにおける閉塞、説明のつかない身体的な障害など、霊的な障害が残る場合、真剣な司祭に助言を求め、場合によっては教区のエクソシスト(司教区を通して)に助言を求めなければならない。カトリックのエクソシズムの手続きは、枠付けられ、慎重であり、無限に効果的である。カトリックのエクソシズムの記事を参照されたい。
結論:真の生ける水
ニューエイジが何百万人もの人々を魅了したのは、それが癒し、一致、光、変容について語り、それらの言葉が現代の魂の本物の渇きに対応しているからである。2003年のローマの文書の診断は正しいままである。渇きは正当であり、井戸が悪い。その約束の下で、ニューエイジは静かに中心を移している。人格的な神の代わりにエネルギー、救い主キリストの代わりに目覚めの師、恵みの代わりに技法、罪と贖いの代わりに無知と気づき、体の復活の代わりに魂の再生利用である。
カトリック教会は、ニューエイジが探し求めるものを軽蔑しない。教会はこの渇きを真剣に受け止め、その源泉へ方向づける。キリストは、選ばれた人々のための秘儀を提示しているのではない。彼は、自分に来るすべての人に、無償の賜物を、公に提供している。その神秘主義はブラヴァツキーの神秘主義よりも深く、その秘跡はいかなる視覚化の技法よりも真実に変容させ、その聖人たちはすべての「アセンデッド・マスター」よりも堅固な友であり、その復活はすべての水瓶座よりも美しい。
サマリアの女に対して、そして迷うすべての洗礼を受けた人に対して、イエスは常に同じ言葉を語る。
「渇いている者は、わたしのもとに来て飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の腹から生ける水の川が流れ出るであろう。」 聖ヨハネによる福音書、7章37節から38節[55]
さらに学ぶために
- 秘教:ニューエイジが現代の継承者である、二千五百年にわたる秘教の潮流。
- ヒンドゥー教:西洋のニューエイジによってしばしば再解釈される源泉であり、カルマと輪廻転生の教義。
- 仏教:ニューエイジの第二のアジア的源泉。
- 輪廻転生は虚偽の信仰なのか:輪廻転生を支持する論拠の詳細な反駁。
- 天使と悪魔:目に見えない現実に関するキリスト教的識別。
- 超自然現象の識別:霊的識別に関するカトリックの基準。
- カトリックのエクソシズム:オカルト実践の影響を受けた人々への援助に関する典礼的および司牧的な枠組み。
- 千年王国説:時代の終わりに関するカトリックの真正な教義。
注と参考文献
『生ける水の担い手イエス・キリスト』、第2節:「新時代は、『新しい宗教運動』という表現における『運動』という言葉に与えられる意味での運動ではなく、一般に『カルト』や『セクト』という言葉で理解されるものにも相当しない。[…]統一され画一化された運動であるどころか、新時代はむしろ、地球規模で考え、地域で行動するというアプローチを持つ信奉者たちの流動的なネットワークである。」全文は2026年10月4日に vatican.va で確認した。
1 6文化評議会および諸宗教対話評議会、『生ける水の担い手イエス・キリスト。『新時代』に関するキリスト教的考察』、バチカン市国、2003年2月3日、ポール・プパール枢機卿およびマイケル・L・フィッツジェラルド枢機卿署名。フランス語全文は vatican.va を参照。
2 38『生ける水の担い手イエス・キリスト』、第4節(新時代とキリスト教信仰の対比):この文書は、神、人間、イエス・キリスト、救い、死、復活、権威について、新時代の概念とキリスト教の概念を一対一で対比している。
3Paul Heelas、『The New Age Movement. The Celebration of the Self and the Sacralization of Modernity』、Blackwell、Oxford、1996年、266ページ。ISBN 978-0-631-19332-6。
4Wouter J. Hanegraaff、『New Age Religion and Western Culture. Esotericism in the Mirror of Secular Thought』、Brill、Leyde、1996年。State University of New York Press 再刊、1998年、580ページ。ISBN 978-0-7914-3854-6。ユトレヒト大学博士論文であり、ニューエイジに関する学術的な参照作である。
5Alice A. Bailey、『Discipleship in the New Age』、Lucis Publishing Company、New York、1944年(第1巻)および1955年(第2巻)。『Education in the New Age』、Lucis Publishing Company、1954年。『The Reappearance of the Christ』、Lucis Publishing Company、1948年。完全な書誌については『The Unfinished Autobiography of Alice A. Bailey』、Lucis Publishing Company、1951年を参照。
7 14David Spangler、『Revelation: The Birth of a New Age』、Findhorn Publications、Findhorn、1971年。Rainbow Bridge 再刊、1976年(ISBN 978-0-914198-09-3)。1970年の Spangler のフィンドホーン到着と1973年までの共同体の共同指導については、彼の経歴紹介(Lorian Association)を参照:「From 1970 to 1973 David was a co-director of the Findhorn Foundation Community in northern Scotland」、および1971年に共同体の最初の本である『Revelation: Birth Of A New Age』の出版を位置づけるフィンドホーンの年表を参照。
8 21Marilyn Ferguson、『The Aquarian Conspiracy. Personal and Social Transformation in Our Time』、J.P. Tarcher、Los Angeles、1980年、448ページ。ISBN 0-87477-191-9。フランス語訳:『Les enfants du Verseau. Pour un nouveau paradigme』、Calmann-Lévy、Paris、1981年。この著作は『ニューヨーク・タイムズ』によって「ニューエイジ運動の聖書」と評された(William Grimes による Marilyn Ferguson の訃報、2008年11月4日)。
9 24『生ける水の担い手イエス・キリスト』、第1.1節(「なぜ今なのか」)および第1.4節:この文書は、その司牧的な存在理由自体を提示している。それは、教導権の厳粛な行為に取って代わるものではなく、カトリックの諸環境自体におけるニューエイジの毛細血管的な拡散に直面して、識別の道具を提供する、司牧者、カテキスタ、信徒に向けられた「暫定的な報告書」である。
10Catholic Encyclopedia、『Theosophy』の項目、第XIV巻、New York、Robert Appleton Company、1912年(newadvent.org で閲覧可能)。Bruce F. Campbell、『Ancient Wisdom Revived. A History of the Theosophical Movement』、University of California Press、Berkeley、1980年、249ページも参照。
11『生ける水の担い手イエス・キリスト』、第2.3.2節:「新時代思想の本質的な母体は、秘教的神智学の伝統の中にある[…]。この形態の秘教は、ロシアの霊媒ヘレナ・ブラヴァツキーが提示した形において最も完成した姿に達した。彼女はヘンリー・オルコットとともに、1875年にニューヨークで神智学協会を設立した。」
12Richard Hodgson、『Report of the Committee Appointed to Investigate Phenomena Connected with the Theosophical Society』、『Proceedings of the Society for Psychical Research』、第III巻、Londres、1885年12月、201ページから400ページ。この報告書は、マハトマたちに帰せられた「現象」の詐欺的な性格を結論づけている。『Journal of the Society for Psychical Research』は1986年4月(第53巻、第803号、286ページから310ページ)に、Vernon Harrison による報告書の批判的な再評価『「J'Accuse」:An Examination of the Hodgson Report of 1885』を掲載したが、ブラヴァツキーの教義を復権させるものではない。
13Lucis Trust、『Support of the United Nations』、lucistrust.org(2026年10月4日閲覧):「The Lucis Trust has Consultative Status with the Economic and Social Council of the United Nations (ECOSOC)」。ここでは慎重に取り上げる。Lucis Trust 自身が自らのサイトで表明している主張である。
15『生ける水の担い手イエス・キリスト』、第2.3.2節:ローマの文書はここでWouter J. Hanegraaff、『New Age Religion and Western Culture』、Brill、Leyde、1996年を逐語的に引用している(注32:「op. cit., p. 448 s.」)。vatican.va の英語原文:「Jung, indeed, "not only psychologized esotericism but he also sacralized psychology, by filling it with the contents of esoteric speculation"」。ユングによる秘教の心理学化については、Wouter J. Hanegraaff、『New Age Religion and Western Culture』、前掲書、第12章を参照。
161902年10月19日以来神智学協会ドイツ部門の事務局長であったシュタイナーは、1912年に東方星辰団(若きクリシュナムルティがキリスト・マイトレーヤの乗り物として提示された)に反対した。ドイツ部門の認可は1913年3月7日に取り消され、シュタイナーは同年に人智学協会を設立した。John Paull、『Rudolf Steiner: From Theosophy to Anthroposophy (1902-1913)』、2022年(オープンアーカイブ HAL hal-03788281)を参照。洗礼の際にイエスの中に入った「太陽的存在」のキリスト論については、Rudolf Steiner、『Von Jesus zu Christus』(十回の講演シリーズ、Karlsruhe、1911年10月)、GA 131を参照。1919年に Stuttgart で最初のシュタイナー学校が設立された(シュタイナー教育百周年の学術的地図、HAL hal-02488004を参照)。
17René Guénon、『Le Théosophisme, histoire d'une pseudo-religion』、Nouvelle Librairie Nationale、Paris、1921年、および『L'Erreur spirite』、Marcel Rivière、Paris、1923年。この二つの著作は、全体がこれらの反駁に充てられている。
18Aleister Crowley、『Liber AL vel Legis』(『法の書』)、1904年に Cairo で口述された:「Do what thou wilt shall be the whole of the Law」(I, 40)。「Love is the law, love under will」(I, 57)。
19Carol Riddell、『The Findhorn Community. Creating a Human Identity for the 21st Century』、Findhorn Press、1991年。Eileen Caddy、『Flight into Freedom and Beyond』、Findhorn Press、1988年、および『God Spoke to Me』、Findhorn Press、1972年も参照。共同体の内部の物語:かつて引用された目覚ましい野菜の寸法(18キログラムのキャベツを含む)については、検証可能な独立した出典がなく、ここでは取り上げない。
20Helen Schucman et Kenneth Wapnick、『Absence from Felicity. The Story of Helen Schucman and Her Scribing of A Course in Miracles』、Foundation for A Course in Miracles、Roscoe (New York)、1991年。最初のメッセージの日付:1965年10月21日。報告された最初のメッセージ:「This is a course in miracles, please take notes」。
22Helen Schucman(筆記者)、『A Course in Miracles』、Foundation for Inner Peace、Tiburon (Californie)、初版1976年。合本第3版2007年、1333ページ。構成:『Text』(669ページ)、『Workbook for Students』(488ページ、365のレッスン)、『Manual for Teachers』(92ページ)。
23『生ける水の担い手イエス・キリスト』、第2.3.2節:「Marilyn Ferguson は、その著書『Les enfants du Verseau』の一章を、水瓶座の時代の先駆者たち、すなわち変容的なヴィジョンの基礎を築いた人々に充てた」、すなわち心理学者 William James と精神科医 Carl Gustav Jung である。したがって Ferguson は先駆者その人としてではなく、この系譜の証人としてここに現れている。
25Shirley MacLaine、『Dancing in the Light』、Bantam Books、New York、1985年、412ページ:「I am God, I am God, I am God.」。海を前にして発せられたこの象徴的な言葉は、テレビ・ミニシリーズ『Out on a Limb』(ABC、1987年1月18日から19日)によって、ニューエイジをアメリカの大衆文化へ移行させた。
26『生ける水の担い手イエス・キリスト』、第2.3.4.2節:「新時代が語る神は、人格的でも超越的でもない。それは創造主でも、宇宙を愛をもって支える者でもなく、世界に内在する『非人格的エネルギー』であり、世界とともに『宇宙的統一体』を形成している。『すべては一つ』である。」本文は2026年10月4日に vatican.va で確認した。
27『生ける水の担い手イエス・キリスト』、第2.3.4.1節:「個人は神的な火花を持って生まれる[…]。したがって彼らは、本質的に、神的な存在とみなされる[…]。私たちは共同創造者であり、自分自身の現実を創造する。」
28エルサレム聖書、『創世記』3章5節、Cerf、Paris、1998年。対応するマソラ本文:『「ki-yodea elohim ki beyom akolkhem mimennu wenif'qehu eineikhem vihyitem k'elohim yode'ei tov vara'」』、TOB による翻訳:「car Dieu sait que le jour où vous en mangerez, vos yeux s'ouvriront et vous serez comme des dieux, connaissant ce qui est bon ou mauvais」。
29『生ける水の担い手イエス・キリスト』、第2.3.4.1節:引用は逐語的に再掲している。
30『生ける水の担い手イエス・キリスト』、第2.3.4.2節:「ナザレのイエスはキリストではなく、この『キリスト的』本性がその中に現れた多くの歴史的人物の一人にすぎず、ブッダや他の人々も同様であった」。第3.3節:「ニューエイジにとって、宇宙的キリストは、多くの人々、場所、時代において繰り返されうるモデルである。」本文は2026年10月4日に vatican.va で確認した。
31エルサレム聖書、『テモテへの手紙一』2章5節から6節。
32エルサレム聖書、『ヘブライ人への手紙』9章27節。個別の裁きに関するカトリックの教義については、『カトリック教会のカテキズム』、第1021項から第1022項、およびベネディクトゥス12世の使徒憲章『Benedictus Deus』(1336年1月29日)、『Denzinger-Schönmetzer』、第1000項から第1002項を参照。
33『生ける水の担い手イエス・キリスト』、第2.1節:「占星術師たちによれば、私たちは現在、キリスト教に支配されてきた魚座の時代にいる。しかし、魚座の時代は、この第三千年紀の初めに、水瓶座の新しい時代(英語で New Age)に取って代わられようとしている。」本文は2026年10月4日に vatican.va で確認した。
34エルサレム聖書、『コリントの信徒への手紙二』11章14節。
35『カトリック教会のカテキズム』、第2116項、Mame-Plon、Paris、1992年。ラテン語標準版『Catechismus Catholicae Ecclesiae』、Libreria Editrice Vaticana、バチカン市国、1997年。
36『カトリック教会のカテキズム』、第2117項:「隠された力を飼いならし、自分のために役立て、隣人に対する超自然的な力を得ようとすると主張する、魔術や妖術のあらゆる実践は、それが健康をもたらすためであっても、敬神の徳に重大に反する。」
37エルサレム聖書、『ヨハネによる福音書』4章10節から14節。
39『生ける水の担い手イエス・キリスト』、ポール・プパール枢機卿(文化評議会)およびマイケル・L・フィッツジェラルド枢機卿(諸宗教対話評議会)が署名した序文、2003年2月3日。正確な文は2026年10月4日に vatican.va で確認した:「Cette étude est une invitation à prendre en considération la soif spirituelle de beaucoup de nos contemporains, hommes et femmes.」
40エルサレム聖書、『コリントの信徒への手紙一』10章21節。聖パウロがコリントのキリスト者たちに偶像崇拝の祭儀とのいかなる妥協をも禁じている箇所全体である、『コリントの信徒への手紙一』10章14節から22節も参照。
41エルサレム聖書、『詩編』19編9節(ウルガタの番号付けでは18編)。確認した本文:「Les préceptes de Yahvé sont droits, joie pour le cœur ; le commandement de Yahvé est limpide, lumière des yeux.」
42Gabriele Amorth、『Un esorcista racconta』、Edizioni Dehoniane、Bologne、1990年、192ページ。ISBN 978-88-10-80706-9。フランス語訳:『Un exorciste raconte』、Éditions F.-X. de Guibert、Paris、1994年。Gabriele Amorth、『Un esorcista racconta. Nuovi racconti』、Edizioni Dehoniane、Bologne、1992年、および Marcello Stanzione、『Padre Gabriele Amorth. Un esorcista raccontato』、Edizioni Segno、Tavagnacco、2017年、256ページも参照。1986年6月にローマの代理である Poletti 枢機卿によって Candido Amantini 神父の補佐に任命されたことについては、一致する諸紹介、Marie de Nazareth(「In June 1986, the Cardinal Vicar of Rome, Archbishop Ugo Poletti, appointed him assistant [to Father Amantini]」)および Rosemary Ellen Guiley、『The Encyclopedia of Demons and Demonology』(「He received the faculty of exorcist by Cardinal Ugo Poletti [...] in 1986, studying under Father Candido Amantini [...] [whom] he succeeded」)を参照。国際エクソシスト協会の設立については、情報源が異なっている(1990年、1991年、1994年)。1990年の最初の会合(Jeremy Davies 神父と Amorth 神父を含む五人の司祭、『National Catholic Register』による)、1991年9月4日の公式設立日、すなわち第一回会合の日(『World Religions and Spirituality』の紹介)、1994年の国際的な組織化と2014年の聖職者省による承認(『The Tablet』、『CatholicIreland.net』)である。フランスの René Chenesseau 神父(『World Religions and Spirituality』の紹介では「Chenessau」と綴られている)は、初期の関係エクソシストの中に数えられている。この計画の起源は、同紹介では、1980年代における Chenesseau 神父と Amorth 神父の共通の観察に帰せられている。同様に、Amorth が行ったエクソシズムの数は、インタビューによって異なっている(数万回、時には70000回以上)。ここでは、慎重を期して、彼自身の申告として数字を示す。
43 44エルサレム聖書、『箴言』16章3節。
45聖十字架のヨハネ、『霊的格言』、第60番。参照版:『Œuvres complètes de saint Jean de la Croix』、Lucien-Marie de Saint-Joseph 神父による翻訳、Desclée de Brouwer、Paris、1949年、1352ページ。
46Fritjof Capra、『The Tao of Physics』、Shambhala、Boulder、1975年(フランス語訳『Le Tao de la physique』、Éditions Sand、Paris、1985年)。『The Turning Point. Science, Society and the Rising Culture』、New York、1982年(フランス語訳『Le Temps du changement. Science, société et nouvelle culture』、Éditions du Rocher、Monaco、1983年)。フランス語のタイトル「Le Tournant de la grande vague」は、確認されたいかなる版にも対応しない。フランス語訳のタイトルは『Le Temps du changement』である。
47『生ける水の担い手イエス・キリスト』、第1.5節:「キリスト教信仰に対する不完全な理解が、一部の人々に、キリスト教は深い霊性を鼓舞しないと誤って考えさせ、よそに目を向けさせている。」本文は2026年10月4日に vatican.va で確認した。
48聖アビラのテレサ、『自叙伝の書』、第8章、第5番。参照版:『Œuvres complètes』、Marcelle Auclair による新訳、Desclée de Brouwer、Paris、1949年。スペイン語原文:『「No es otra cosa oración mental, a mi parecer, sino tratar de amistad estando muchas veces tratando a solas con quien sabemos nos ama.」』、『Libro de la vida』、第8章、第5番。
49聖十字架のヨハネ、『カルメル山登攀』、第1巻、第13章、第11番。参照版:『Œuvres complètes』、Desclée de Brouwer、1949年、145ページ。
50現在の『自叙伝の書』の諸版の裏表紙の文句(例:「教皇聖ピウス十世は、リジューのテレサを『現代最大の聖女』と呼ぶことをためらわなかった」)。この文句を記した聖ピウス十世の日付のある行為は発見されていない。ここでは、それが何であるか、すなわち出版社の文句として示す。
51聖幼子イエスと聖顔のテレサ、『自筆原稿』、原稿 B(聖心のマリア修道女への手紙、1896年9月)、2葉裏面。批評版:『Œuvres complètes (textes et dernières paroles)』、Cerf / DDB、Paris、1992年。
52エルサレム聖書、『ヨハネの黙示録』21章3節から4節。
53エルサレム聖書、『聖ヨハネによる福音書』6章51節および56節。ヨハネ福音書第6章の聖体に関する説教と、ニューエイジの微細な「エネルギー」との対比については、『カトリック教会のカテキズム』、第1373項から第1381項(実在)、および ベネディクト16世、『Sacramentum caritatis』(2007年2月22日)、第6項から第15項を参照。
54エルサレム聖書、『ヨハネによる福音書』7章37節から38節。
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