トリノの聖骸布は、4,42メートルの長さと1,13メートルの幅をもつ亜麻布の裏布であり、1578年からトリノ聖ヨハネ洗礼者大聖堂に保管されている。そこには十字架刑に処せられた男の陰画が印されており、その傷はイエス・キリストの受難の福音的叙述と一致する[1]。
1988年に行われた炭素14による年代測定が当初この裏布を13世紀から14世紀に位置づけたにもかかわらず、その後の数十の科学的発見がこの結論を深く疑わしめてきた。花粉学的分析、亜麻の繊維、1世紀と整合的な*« chevron »* 織の型、エルサレム特有の石灰岩粒子の存在、そしてとりわけ現代科学が説明することも再現することもできない画像の物理的特性である。
カトリック教会は慎重にも、聖骸布の真正性を教義としては定義しないが、それを崇敬に値する遺物として敬う。複数の教皇(聖ピオ10世、聖ヨハネ・パウロ2世、ベネディクト16世、フランシスコ)が公然とそれを崇敬してきた。
聖骸布の歴史
トリノの聖骸布は、4,42メートルの長さと1,13メートルの幅をもつ亜麻布の裏布であり、四本糸のchevron織で織られている。この織り型は1世紀のシリアとパレスチナで実証されている。そこには人体の二重の印がある。すなわち前面像と背面像であり、頭と頭を向かい合わせて配されている。まるで、横たわった身体の上と下に布を折り返し、裏布として包み込むかのようである。聖骸布は1578年から、Guarino Guariniが設計した聖骸布礼拝堂(1668-1694年)をもつトリノ聖ヨハネ洗礼者大聖堂に保管されている。
しかしその後、聖骸布は第二次世界大戦の間トリノを離れなければならなかった。1939年9月にはすでに戦爆を恐れてローマのクイリナーレ宮に移送された。次いで、1938年にウィーンからニュルンベルクに聖槍を移送させたヒトラーの横暴からそれを守るため、イタリア王は聖座にその保全を依頼した。当初検討されたモンテカシノは1944年に完全に破壊されたため、代わりに選ばれたのは、カンパニア州アヴェッリーノ県の標高1,200メートルに孤立して建つ聖域、モンテヴェルジーネ修道院であった。1939年9月7日、国務省次官Giovanni Battista Montini枢機卿(のちのパウロ6世)の電報がベネディクト会の修道院長をヴァチカンに召喚した。聖遺物箱は1939年9月25日の夜に修道院へ到着し、教会の祭壇の下に隠された。事情を知っていたのは修道院長、総代議長、そして修道士2人だけであった。トリノ大司教Maurilio Fossati枢機卿が1946年10月28日にそれを取り戻しに来た[2]。
その真正性を支持する科学的論拠(一世紀以上にわたり豊かな科学文献を生み続けてきた論拠)を検討する前に、その歴史的な経路をたどっておくのが適切である。Jean-Christian Petitfilsは、その参照著作『Le Saint Suaire de Turin』(Tallandier、2022年)のなかで、ビザンティン、十字軍、西方の史料に裏付けられたtranslatio(移転)の十四世紀を復元している。エルサレムからトリノへ、六つの段階を経て。
エデッサ以前:二つの古い教父的反响
エデッサの伝統が史料のなかに確認できるようになるよりも前に、復活と結びつく裏布の記憶をとどめるキリスト教の二つの古い証人がいる。聖ヒエロニムスは『De viris illustribus』(392年頃)のなかで、2世紀にさかのぼる偽典『エジプト人福音書』(すなわち『ヘブライ人福音書』)の一節を引用している。それによれば、復活されたキリストは聖ヤコブに現れる前に、自分のsindonを大祭司の僕に託したという[3]。その少し後、エルサレムでの青年時代の説教のなかで、エルサレムの聖キュリロスは*« 復活の証人である裏布 »*に言及している[4]。これは、エデッサの経路が一歩ずつ文書化されるようになるずっと以前から、エルサレムのキリスト教の記憶のなかに特定の葬儀用の布が識別されていたことを示す。
起源とビザンティンの伝統
ビザンティンの伝統は、Mandylion(あるいは*« エデッサの像 »*)を使徒時代までさかのぼらせる。キリストの像が超自然的に印刷されたという布である。Mandylionは6世紀にはすでにエデッサ(現在のトルコ、シャンルウルファ)に実証され、西暦944年にコンスタンティノープルへ移送された。複数の研究者(とりわけ英国の歴史家Ian Wilson)は、Mandylionとトリノの聖骸布はただ一つの同じ物体であり、顔だけが見えるように折られていたにすぎないと提案してきた[5]。
創立の伝説は、『Addaïの教説』(390年から430年の間にさかのぼる匿名のシリア語文書)によって伝えられ、5世紀のアルメニアの歴史家Michel de Khorèneによって取り上げられている。それによれば、この像は、使徒タダイの使いとして遣わされ、キリストの顔の印のある布を携えていた者に癒された、エデッサ王Abgar Vの回心と結びつけられている[6]。この信仰の現存する最古の文学的証人は、évêque de BatnaJacques de Saroug(450-521年)である。その『エデッサの像に関する説教』は、6世紀の最初期からすでにその崇敬を証している[7]。569年のシリア語の賛歌は、525年の洪水の後にエデッサ大聖堂が再建されたことをたたえている。Ian Wilsonによれば、まさにこの工事の際に、隠されていた城壁のくぼみのなかから像が再発見されたという[8]。最後に、ビザンティンの侍医Smiraは、後代の写本によってのみ知られ、Petitfilsにおいて特定の世紀を持たないが、この遅れた伝統のなかでは、*« 顔の表情だけでなく、全身の姿も表す »*像を描写した者とされている[9]。遅れた伝説上の証人であるこの文書は、単独では、エデッサで崇敬された布が完全な身体の印を帯びていたことを確認しない。
第四回十字軍の際の消失
1204年、十字軍によるコンスタンティノープルの掠奪の際に、ブラヘルネの聖母教会でRobert de Claryが見たSydoineは、市の陥落後に消失する。十字軍に参加した騎士Robert de Claryは証言する。« そこに、我らが主が包まれた Sydoine があった[...]そして市の陥落後、それがどうなったのかを、ギリシャ人にもフランス人にも、誰もついに知らなかった »[10]。ただしPetitfilsは、この遺物を、1204年以後もなお実証されるファロスに保管された物体と区別している。したがって、ブラヘルネのSydoineをMandylionあるいは聖骸布と同一視することは、確立された事実ではなく、著者の命題に属する。
後に発見された文書が、この混沌とした時期を照らす。ビザンティンの貴族Théodore Ange Comnèneから教皇Innocent IIIに宛てられた1205年8月1日の書簡である。1981年にナポリのSanta Caterina da Formiello文書館で発掘され、歴史家Barbara Fraleによって古文書学的に真正と認定されたこの文書は、市の掠奪後の数か月におけるファロスの遺物の運命を記録している[11]。
フランスでの出現(1357年)
この裏布は1357年頃、シャンパーニュ地方のリレにおいて、騎士Geoffroy de Charnyの手のなかで公式に再出現する。その後サヴォイア家の手に渡り、1578年に公爵Emmanuel-Philibertによってトリノへ移送され、以来、聖ヨハネ洗礼者大聖堂のなかのGuarino Guarini設計の聖骸布礼拝堂(1694年完成)に保管されている。公開されるのはまれな機会にかぎられる(1978年、1998年、2000年、2010年、2015年の公開)。
裏布の要約年表
- 西暦33年頃聖墓への埋葬エルサレム
十字架の上で、第九の時(マルコ 15, 33-37)に死んだイエスの身体は、アリマタヤのヨセフとニコデモによって、純粋な亜麻のsindonに急いで包まれ(マルコ 15, 46;ヨハネ 19, 40)、安息日のために墓に納められた。復活祭の朝、ペトロとヨハネは*« そこに置かれていた布 »*を見つけた(Jean 20, 6-7)。
- 544、944エデッサでの崇敬Mandylion、エデッサの像
キリストの顔のAcheiropoïète(« 人の手によらず造られた像 »)は、6世紀にはすでにエデッサ(現在のトルコ、シャンルウルファ)に実証されている。Ian Wilsonによれば、Mandylionは顔だけが見えるように折られた裏布であったという。Petitfilsが示すとおり、これは脆弱な仮説である(p. 42-43)。« tetradiplon »(四重に折られた)という語は、Petitfilsによれば『タダイの行伝』(629-630年頃)に現れる(p. 52-53)。
- 944年8月15日コンスタンティノープルへの厳かな移送ファロス礼拝堂
- 958、1201« 神を包んだsindon »ビザンティンの証言
- 1192-1195ハンガリーのCodex Pray最古の図像的再現
Codex Pray(ブダペスト、Bibliothèque nationale Széchényi)は、すでに裏布のすべての独自の特徴を再現している。裸の身体、右手を左手に重ねた手、見えない親指、chevron織、そして特徴的な**« L字形の穴 »[16]。これは決定的な歴史的境界である。1988年のC14年代測定の下限(1260年)より少なくとも68年前**である。
- 1204年4月12-13日コンスタンティノープルの掠奪ビザンティンでの消失
第四回十字軍の際、Robert de Clary(ピカルディの騎士)は、毎週金曜日にブラヘルネの聖母教会で*« Sydoine »が展示されているのを見たと証言している。« そこでは我らが主のお顔がよく見えた »。掠奪の後、« それがどうなったのかを誰もついに知らなかった »*[17]。Petitfilsは、このSydoineを、1204年以後もなお実証されるファロスの物体と区別している。
- 1357年頃シャンパーニュ、リレでの出現Geoffroy de Charny
騎士Geoffroy de Charny(1356年にポワティエで戦死、フランスの王旗手)は、リレに創設した参議会教会で裏布を展示した。その未亡人Jeanne de Vergyと息子が遺物を伝えた。巡礼者たちは鉛のメダイ(クリュニー美術館、蔵品番号 Cl. 4752)を受け取った[18]。
- 1532年12月4日シャンベリの聖礼拝堂の火事現在も見える焼け跡
夜間の火事が公爵の聖礼拝堂を焼き尽くした。銀の聖遺物箱は部分的に溶け、灼熱の物質が四つに折られた布の上に流れ落ち、今日も見える有名な側面の焼け跡を残した。Louis de Gorrevod枢機卿は1534年4月14日に厳かな検証を行った[19]。
- 1578年トリノへの恒久的移送聖ヨハネ洗礼者大聖堂
公爵Emmanuel-Philibert de Savoieは、ペストの終息への謝意として約束されたアルプス越えを、ミラノ大司教聖Charles Borroméeに負わせないため、裏布をシャンベリからトリノへ移送させた。裏布は以来、Guarino Guariniが設計した聖骸布礼拝堂(1668-1694年)に保管されている。
- 1898年5月28日Secondo Piaの写真陰画の発見
トリノの写真家Secondo Piaが最初の公式写真を撮影した。乾板を現像したとき、陰画がポジティブとして像を現すことを彼は発見した。重大な科学的転換である。像そのものが写真的陰画なのだ。この概念は1839年以前には存在しなかった。
- 1978年10月8-13日STURP:120時間の国際分析NASA、ロスアラモス、JPLの40人の科学者
Shroud of Turin Research Project(裏布研究プロジェクト、STURP)は、カリフォルニア工科大学のJPL(米国の宇宙研究所)、米空軍士官学校、ロスアラモス国立研究所の40人の米国人科学者を集め、120時間の非破壊検査を行った。1981年の最終報告:« この像は、絵画、染色、化学的研磨、あるいはいずれの既知の技法の結果でもない。 »[20]
- 1988年物議を醸すC14年代測定1260-1390:以来議論されている結果
三つの研究所(オックスフォード、ツーソン、チューリッヒ)が試料を1260年から1390年の間に年代測定した。以来議論されている結果である。Casabianca et al.(Archaeometry 2019年)は再検討を求める統計的異質性を示し、Rogers(Thermochimica Acta 2005年)は試料の代表性に疑問を呈した。ただしこの年代測定が正式に無効とされたわけではない。
- 2022年4月11日WAXSによる年代測定、1世紀との整合性は確認を要するDe Caro&Fanti
国際誌『Heritage』に発表された研究。Liberato De Caro(バーリのイタリア国立研究会議(CNR)結晶学研究所)とGiulio Fanti(パドヴァ)による。WAXS(X線散乱)法は、仮定のもとで西暦1世紀との整合性を提案する。この布は*« Massadaの遺跡で発見された亜麻の試料の構造に非常に近い »*と判定された。Petitfils自身が« 確認し精緻化すべき »と言う、先駆的な研究である[21]。
Secondo Piaの発見(1898年)
1898年5月28日、トリノでの公開の際に、写真家Secondo Piaは裏布の最初の写真を撮影することを許された。暗室で乾板を現像するうちに、写真的陰画がポジティブとして像を現すことを彼は驚愕して発見した。予想もしなかった鮮明さと写実性をもって[22]。
« 何の疑いもない。この布には、古代ローマのやり方で十字架につけられて死んだ男の、極めて写実的な印が残されている。[...]我々の知るかぎり、十字架刑に処せられた他のローマの死刑囚で、同時に笞打、茨の冠、槍の一刺しを受けた者はいない[これらすべての要素は、裏布の像のなかに記されている]。 »
- Yves DelageとPaul Vignon、1902年にパリ科学アカデミーに提出された裏布に関する研究の結論[23]
この発表はスキャンダルとなった。Delageは公に弁明した。
« キリストではなく、あるSargon、アキレウス、あるいはなんらかのファラオについてのことであったなら、誰も異議を唱えなかっただろう。 »
- Yves Delage、『Revue scientifique』の編集長Charles Richetに宛てた書簡、1902年5月31日付[24]
聖骸布の像が完全な写真的陰画であるという事実は、二つの理由で並外れている。(1)写真の概念は19世紀以前には存在しなかったので、中世の偽造者は古典的な像の代わりに陰画を生み出す理由がまったくなかった。(2)この像が絵画ではないことを示している。なぜなら、いかなる絵画技法も自然に陰画を生み出さないからである。
論拠1:実在の磔刑:法医学的・解剖学的調査
第一の論拠は法医学的・解剖学的である。裏布に印された身体は、本物のローマの磔刑囚のものであり、福音的受難のすべての傷を呈している。しかも中世の科学がまったく知らなかった解剖学的正確さをもって。これは1930年代にフランスの外科医Pierre Barbet(パリ、サン=ジョゼフ病院)が行った調査に始まり、その後Sebastiano Rodante、Robert Bucklin(ロサンゼルス郡の監察医)が継承し、より最近ではF. Giraud, T. Castex et Y.-M. Giraud(2017年)が継承したものである。
espace de Destot:発明不可能な釘
外科医Pierre Barbetは、新鮮な死体で実験的に実証した。手のひらの中央の屈曲線に打ち込まれた釘は、手根骨のespace de Destotに一貫して入り、一つの骨も砕かずに、聖書の言葉(ヨハネ 19, 36および詩編 34)を成就する。
« したがって毎回、釘は解剖学者が「espace de Destot »と呼ぶ通路に入っていった。聖書が予言的に語ったとおり、それを取り囲む骨を« sans briser un seul os »押し広げながら。Pierre Barbetは、この死刑執行のやり方を訓練されていたローマの刑吏たちは、この形成済みの解剖学的通路を完全に知っていたと考えていた。」
- Jean-Christian Petitfils、『Le Saint Suaire de Turin』、Tallandier、2022年、p. 214[25]
中世の図像では釘は一貫して手のひらに置かれていた。解剖学的に不可能なことだ。手のひらで吊るされた身体は外れてしまう。中世の偽造者が、釘を手首に戻したり、espace de Destotを知っていたりしたはずがない。
親指の反射的収縮(正中神経)
切断された腕での実験の際、Barbetは、釘の貫通が正中神経を損傷させ、親指が手のひらのなかへ反射的に収縮することを確認した。これは、裏布の像で親指が見えないという気になる謎を説明する。中世に予見することは不可能な神経生理学的詳細である[26]。
血流の二つの方向
Barbetは、磔刑囚が呼吸のため直立と沈降を繰り返さねばならなかったことを発見した。その結果、腕の上に二方向の血流が生じる。裏布の上に完全に再現されている。
« 死から本能的に逃れ、息を取り戻すために、死刑囚は腕で身体を引き上げねばならなかった[...]。凝固の仕組みがまったく知られていなかった時代に、中世の偽造者がそのような詳細を思いつくことができただろうか。 »
- Jean-Christian Petitfils、前掲書、p. 215[27]
槍の一刺しと心膜液(ヨハネ 19, 34)
Barbetは解剖で検証した。右第五肋間に斜めに突き立てられた槍(ローマの技法)は右心房を貫き、血と心膜液(« eau »)を噴き出させる。聖ヨハネが伝えるところと正確に一致する(ヨハネ 19, 34)。心膜水症は、事前の笞打による外傷性漿液性心膜炎で説明される[28]。
かかとの血(死後の水平搬送)
Barbetは、血がかかとに向かって豊富に流れていることに気づいた。この現象が起こりうるのは、十字架から降ろされた後、身体を墓へ水平に搬送している間だけである。重力の力学と整合する死後の詳細である[29]。
茨の兜(約50か所)と笞打(約120か所)
詳細な研究が明らかにするには、これは単なる冠ではなく、鋭い棘を備えた本物の拷問用の兜であり、葦あるいは硬い藁の帯で留められていた。
« 裏布が語る。約五十か所の傷。そのうち頭皮の13箇所の穿孔が、額と頭の前面にはっきりと認められ、後頭部に20箇所。 »
- Jean-Christian Petitfils、前掲書、p. 212[30]
それに加えて、全身に約120か所の笞打痕がある。ローマのflagrum taxillatum(小さな鉛の錘を付けた皮帯の鞭)の正確な署名である。F. Giraud, T. Castex et Y.-M. Giraudによる2017年の臨床的・色彩測定的研究は、受けた損傷を次のように数値化する。
« 彼の皮膚と筋肉は約900 cm²にわたって裂かれている。頭皮は裂け、出血し、呼吸を困難で痛ましくする胸部打撲があり、心膜と胸膜のなかに滲出が形成されつつあり、腎臓は事実上破壊されている。 »
- Jean-Christian Petitfils、前掲書、p. 389-393により引用[31]
笞打が放出する累積エネルギーは約4,000ジュールに相当する。すなわち、重量級ボクサーが十数発打つ力に匹敵する。
36-40時間の時間窓(Rodante)
イタリアの医師Sebastiano Rodante(シラクサ)は、臨床的に実証した。死体の血液病変が葬儀用の布に移るのは、身体と布の接触が36時間から40時間続く場合にかぎられる。短すぎれば(かさぶたは無傷のままである)、長すぎれば(線溶がすべてを液化する)。これはまさに聖墓の期間、金曜日の夕方から日曜日の朝までである[32]。
決定的詳細:完全な裸
裏布の男は完全に裸として表されている。中世の芸術的依頼としてはありえない。
« 臀部、おそらくは生殖器の領域も裸であり、これはさらなる不体裁と見なされたであろう。修道士であろうと平信徒であろうと、芸術家に裏布を依頼した司教あるいは修道院長は、骨盤を囲むperisomaを加えるよう必ず要求したであろう。そのような写本ではperisomaが加えられている。まさにそのとおりである。 »
- Yves Delage、1902年、Petitfils、前掲書、p. 206により引用[33]
→ 論拠1の要約: 裏布に印された身体は、実在のローマの磔刑囚のものであり、受難のすべての傷(ヨハネ 19)を呈している。しかも(espace de Destot、親指の収縮、心膜水症、水平搬送という)中世の医学知識には手の届かない解剖学的正確さをもって。
論拠2:再現不可能な像
第二の論拠は物理化学的である。像そのものが、21世紀の科学をもってしてもなお謎である一群の性質を呈している。中世であれ現代であれ、いかなる既知の技術も、以下のすべての特徴を同時に備える形で裏布の像を再現することはできない。
完全な写真陰画(1898年)
前述のとおり、聖骸布の像は完全な写真的陰画である。1839年以前には存在しなかった概念だ。いかなる絵画技法も自然に陰画を生み出さない。光が逆転することになるからだ。それは装置なしに目が想像できない。中世の偽造者は、古典的な像の代わりに陰画を生み出す理由がまったくなかったし、そこに到達する技術的手段もなかった。
強度に符号化された3D情報(NASA VP-8、1976年)
1976年、米空軍の二人の科学者John JacksonとEric Jumperは、NASAが開発した画像解析装置VP-8(光の濃淡を浮き彫りに変換する装置)を用いて聖骸布の写真を分析した[34]。重大な発見である。聖骸布の像は三次元情報を符号化している。すなわち、褐変の強度は身体と布の距離に応じて変化する。いかなる絵画も、いかなる写真も、自然にこの性質を備えているわけではない。
JacksonとJumperによれば、像の強度は身体と布の距離に応じて変化しており、まるで像のなかに符号化された浮き彫りの情報のようである[35]。
注目に値する歴史学的詳細がある。Jacksonよりずっと以前、フランスの画家・版画家Gabriel Pascal Quidor(版画のグラン・プリ)は、1913年にはすでに、像が身体と布の距離に依存することを理解していた。1913年6月4日に、*« 修正なしで浮き彫りの顔を得ることのできる写真彫刻の方法 »*の特許を出願している[36]。3D的性格に対する、より早い時期のフランスでの確認である。
等方的な像(ジェット推進研究所)
Donald J. LynnとJean J. Lorre(パサデナのジェット推進研究所、NASAの宇宙研究所)は、独立したコンピュータ研究によって、像が等方的であることを実証した。すなわち方向性効果がなく、筆の跡もなく、擦りの痕もない。これはあらゆる人為的介入(絵画、擦り、塗布)を決定的に排除する[37]。
顔料のない表層の像(25-40マイクロメートル)
**STURP(Shroud of Turin Research Project)**は1978年に、裏布の着色が厳密に表層的であることを確立した。厚さ25-40マイクロメートル、すなわち二〜三本の原繊維であり、単色で、検出可能な顔料も染料もなく、セルロースの酸化的脱水によって形成された。説明のつかない部分的熱分解である。
« 亜麻のセルロースは、おそらく身体の温度の急激で謎めいた上昇の作用によって、完全な炭素化の過程に入ることなく、熱分解された。 »
- Jean-Christian Petitfils、前掲書、p. 240-241[38]
布の裏面に像がないこと(Curto、1974年)
1974年11月24日、Silvio Curto(エジプト学教授)は、裏布を裏打ちしていたオランダ裂きの縫い目を解いた。布の極端な細さにもかかわらず、像は裏面に現れない。絵画、染色、化学的浸透に典型的な透過性の浸潤を排除する[39]。
見かけの無重量(表裏の強度が等しい)
前面像と背面像は同じ色の強度を呈している。まるで身体が浮遊し、無重量状態にあるかのように。接触による生化学反応であれば、死体の重さで押しつぶされた背面側が強調されるはずである。物理学的に説明のつかない詳細である[40]。
STURP(1978年):120時間の分析、未解決の結論
1978年、トリノでの大公開の際に、NASA(米国航空宇宙局)から40人の科学者が、ロスアラモス国立研究所、米空軍士官学校、カリフォルニア工科大学のジェット推進研究所(JPL)とともに、120時間の非破壊検査を行った。X線蛍光、赤外・ラマン分光、光学・電子顕微鏡、紫外線(UV)下での写真撮影、偏光下での撮影。この国際研究は**Shroud of Turin Research Project(STURP)**として知られ、1981年に最終報告を発表した[41]。中心的結論は次のとおり。
« この像は、絵画、染色、化学的研磨、あるいはいずれの既知の技法の結果でもない。その正確な性質は未解決のままである。 »
Di LazzaroのUVフラッシュ(ENEA 2011年):唯一の再現可能な技術
イタリアの専門家Paolo Di Lazzaro(ENEA、イタリアの原子力研究機関)は、2011年に実証した。亜麻繊維の表層にこのような像を生み出すことのできる唯一の技術は、超短時間のUVフラッシュ(約10⁻⁸秒)である。これは20世紀末以前には厳密に入手不可能な技術であった[42]。しかもこの技術でさえ、聖骸布の性質を部分的にしか再現しない。3D情報も、完全な等方性も再現できない。
→ 論拠2の要約: 裏布の像は、物理化学的性質の六つの特徴(写真的陰画、3D、等方性、25-40 μmの表層性、顔料なし、裏面なし、見かけの無重量)を同時に備えている。中世の技術が同時に備えることはできなかったものであり、21世紀の科学でさえ全体を再現することはできない。
論拠3:実在の人血と外傷の証明
第三の論拠は生化学的である。裏布の褐色の斑は絵画ではなく、実在の人血であり、拷問のなかで死んだ男に固有の分子的署名を呈している。五つの科学的発見が収束する。
410 nmのbande de Soret:ポルフィリン(Heller&Adler、1980年)
赤色の原繊維に対する微小分光光度法により、John HellerとAlan Adlerは、410ナノメートルのbande de Soretでポルフィリン(ヘモグロビンの構成成分)を検出した。人血の曖昧さのない分光的署名である。
« このように試験されたすべての赤色の原繊維は、410ナノメートルの「bande de Soret »に達した。ポルフィリン分子のために分光法で用いられる測定である。」
- Applied Optics、1980年8月15日、Petitfils、前掲書、p. 239により引用[43]
AB型(Baima Bollone、1982年:議論のある結果)
Pierluigi Baima Bollone(法医学教授、1982年)の生化学分析は、裏布の血をAB型に帰属させる。稀な型である(世界人口の数パーセント)。この古い結果は、信頼性も方法論的独立性もなお議論されている。真正性の擁護者は、それをオビエドのスダリウムとアルジャンテイユの聖衣の結果(論拠6参照)、そしてランチャーノ、ブエノスアイレス、ソクウカ、ティシュトラ、レグニツァの聖体の奇跡(実在の聖体の記事、反論6参照)と結びつけている[44]。
高ビリルビン:出血性ショック
Adlerは、裏布の血のなかに例外的に高いビリルビン(胆汁色素)の値を明らかにした。これは、一方では古い血としては異常な赤い臙脂色の着色を(黒褐色のはずである)説明し、他方では出血性ショックに至る激しい生前の外傷を証明する[45]。
この点について最も印象的な証言は、Barrie M. Schwortzによるものである。ユダヤ人の写真家でありSTURPのメンバーであり、長年真正性に懐疑的であった人物。まさにこの異常な赤い着色のために。彼の知的転回は、sindon学の世界で有名である。
« 私がこの何年も、裏布が真正であることを受け入れることができなかった理由は、裏布の上の血が赤色だったからだ。ところが古い血は茶色か黒色のはずである。誰も、裏布の上の血がどうして赤いままなのかを私に説明できなかった。そして1995年、Adler博士との電話の対話のなかで、裏布の上の血が本当に血であることを証明したユダヤ人の化学者が、私に聞いたことのないことを言った。誰かが長い間拷問されると、身体はショック状態に入る。イエスは水を与えられず、笞打され、アナフィラキシーショックに入った。この種のショックがしばらく続くと、血球の壁が分解し始め、肝臓がビリルビンという酵素を血のなかに放出する。そうして血が永遠に赤いままになることがあるのだ。 »
- Barrie M. Schwortz、Marie de Nazareth協会での証言、Matthieu Lavagna、『Soyez rationnel, devenez catholique !』、前掲書、p. 249に再録[46]
漿液性ハローと年代順序:像の前に血
紫外線での検査は、血餅と笞打痕の周囲に蛍光性の漿液ハローを明らかにする(生前の傷の法医学的署名)。より決定的なのは、溶解した血の斑の下で、亜麻は白い。すなわち、像は血の付着の後に形成されたのであり、段階的な絵画的製作に反する[47]。
フェリハイドライトのナノ粒子(PLoS One、2017年:議論ののち撤回された研究)
2017年にPLoS Oneに発表された原子分解能の研究。イタリア国立研究会議(CNR)の二つの研究所(トリエステのIstituto Officina dei Materiali(材料の工房)とバーリの結晶学研究所)によるもので、Elvio CarlinoとGiulio Fantiの指導による。
« 繊維が20から100ナノメートルのクレアチニンのナノ粒子で完全に覆われていることが確認された[...]。そのなかに、フェリハイドライトで構成される2から6 nmの生物学的ナノ粒子が含まれていた。これらの研究者によれば、裏布の男が葬儀用の布に包まれる前に大きな苦痛の犠牲であったことの証拠であるという。 »
- Jean-Christian Petitfils、前掲書、p. 325[48]
クレアチニン(激しい運動や外傷の後に血に蓄積する筋肉の老廃物)が異常に高い濃度で存在し、フェリハイドライト(血に存在する鉄の化合物)を伴うことは、多発外傷の血清学的バイオマーカーとして解釈された。著者たちはそれを、笞打を伴う磔刑と整合する、激しいショックと大量出血によって死んだ男の印として解釈している。しかしこの研究は一本の繊維で行われたものであり、議論を呼び、一年後に雑誌によって撤回された。著者たちは自らの見解を維持している[49]。したがって、議論中の仮説としてのみ援用しうる。
→ 論拠3の要約: 裏布の血は生化学的に実在の人血であり(ポルフィリン)、Baima BolloneによってAB型に帰属され(議論のある結果)、像の形成より前にあり、撤回された研究によれば、多発外傷と出血性ショックの分子的バイオマーカー(クレアチニン、フェリハイドライト)を帯びているかもしれない。中世の偽造者は、今日検出可能な分子的署名を模倣することはできなかった。
論拠4:年代測定:議論のある1988年のC14、代替的手法が提案する1世紀
第四の論拠は年代測定に関する。1988年に発表されたC14による年代測定(1260-1390)は、長らく中世の偽造の決定的証拠として提示されてきたが、今日では深刻に議論されている。そして複数の代替的手法は、広い幅と各手法固有の留保を伴いつつ、古代起源に整合的な結果を与えている。
1988年の霹靂(1260-1390)
1988年、三つの研究所(オックスフォード、ツーソン、チューリッヒ)が聖骸布の試料を分析し、1260年から1390年の間の年代測定に結論づけた。何十年もの間、この結果は中世の偽造の決定的証拠として提示されてきた。
統計的批判:異質性(Casabianca et al.、2019年)
三つの研究所の統計的記録は2017年に司法手続きによって取得され、統計学者Tristan Casabianca, Emanuela Marinelli, Giuseppe Pernagallo et Benedetto Torrisiが、オックスフォードの雑誌Archaeometry(2019年)で分析した[50]。要するに、著者たちは、三つの研究所の結果が統計的に異質であり、同一の試料に関するものであることを保証できないほどだと結論している。これは1988年に公表された年代測定を脆弱にし、事案の再検討を求める。ただしこれは、それを正式に無効にするものではない。
Petitfilsは、示唆に富む差異を詳述する。
« 年代の幅は均質ではなかった。オックスフォードの数値(1262-1312)は他の二つの研究所の平均(1353-1384)と重ならなかった。オックスフォードとアリゾナの間の測定の差は百四年に達し、当時誰もそれを不思議に思わなかった。 »
- Jean-Christian Petitfils、前掲書、p. 280-281[51]
さらに痛烈なのは、« ツーソンの研究所の生データは、1355年より後の日付を示していた。近東の畑で亜麻がまだ芽吹く前に、リレのGeoffroy de Charnyはすでに最初の巡礼者の群衆に遺物を見せていたのだ! »
1990年にはすでに、ベルギーの化学者・統計学者Remi Van Haelstが、この異質性を定量化していた。1988年の生データにχ²(カイ二乗)検定を適用すると、三つの研究所間の整合確率は1.3%未満であった。すなわち、三つの測定は統計的に、本当に均質な布に由来するものではない[52]。
汚染された試料:中世に繕われた領域(Rogers、2005年)
Raymond Rogers(ロスアラモス国立研究所)が行った顕微鏡分析は、2005年にThermochimica Actaに発表された[53]。それによれば、1988年に採取された試料は、中世に繕われた隅に由来する(裏布の他の部分にない綿の存在、染色の痕跡)。
Rogersはvanillineで分析を補完する。亜麻のリグニンの分解産物であり、既知の速度で時間とともに劣化する。Rogersによれば、聖骸布の主たる布には検出可能なvanillineがまったく含まれていないという。これは1,300年から3,000年の年齢を示唆する。一方、1988年に採取された試料にはまだ含まれていた。Rogersはこれを、より新しい繕いの印として解釈する。この読み方はなお議論されている。ツーソンの研究所は、自らの糸ではvanillineをまったく検出しなかった[54]。
Rogersが挙げる間接的論拠は、**シャンベリの火事(1532年)**である。もしこの像が古い有機的な絵画から来ているなら、その成分は焼け跡との近さに応じて色が変わっていたはずである。ところが、Rogersが指摘するとおり、布のどの部分でも像の強度の変化は観察されなかった。有機的絵画の仮説に不利な指標である[55]。
chevron織 3/1(Raes、1973年)
Gilbert Raes教授(ゲント大学)は1973年に確立した。聖骸布の織り型(« 3 on 1 chevron »)、Z撚りの糸(珍しいがパルミラとユダヤの荒野に文書化されている)、そして絹のような精細さは、8世紀以前の非常に高価な布の特徴である。近東の綿Gossypium herbaceumの混在、中世ヨーロッパでは知られていない組み合わせ[56]。
WAXS 2022年:なお確認を要する1世紀の年代測定(非破壊法)
2022年4月11日、国際誌Heritageが、Liberato De Caro(バーリのイタリア国立研究会議結晶学研究所)とGiulio Fanti(パドヴァ大学)の研究を発表した。WAXS(Wide Angle X-Ray Scattering、「広角X線散乱」)の技法を詳述するものである。
« 「Wide Angle X-Ray Scattering »(WAXS)と呼ばれる新しい年代測定技法が詳述されている。亜麻のセルロースの老化をX線で測定し、西暦紀元前3000年から西暦2000年の間に年代測定された他の亜麻布の試料を用いて、経過時間に変換するものである。実験の結果、著者たちは、裏布が我々の時代の1世紀にさかのぼるという結論に至った。西暦73年に落ちたユダヤの要塞Massadaの遺跡で発見された亜麻の試料と、構造において非常に近いからである。」
- Jean-Christian Petitfils、前掲書、p. 325[57]
さらに、Giulio Fantiの2013年の研究がある。三つの非破壊法(赤外分光、ラマン、機械的測定)は、手法に応じて広い幅(おおむね紀元前300年から400年、紀元前700年から300年、1年から800年)を与え、搅乱の可能性と繊維の出所が議論されている。これらの結果は古代起源に整合的だが、布を1世紀に年代測定するものではない[58]。
五つの年代測定法のまとめ
下の表は、1988年のC14年代測定を代替的手法と比較する。代替的手法は、古代起源に整合的な結果を与え、各手法固有の広い幅と留保を伴う。C14年代測定は孤立しており、統計的に議論されている(異質性、試料の代表性が議論され、再検討が求められている)。
| 手法 | 年代 | 得られた年代 | 主要な著者 | 現在の位置づけ |
|---|---|---|---|---|
| C14(1988年) | 1988年 | 1260-1390 | 三つの研究所(オックスフォード、ツーソン、チューリッヒ) | 議論あり(異質性:Casabianca 2019;試料が議論中:Rogers 2005) |
| chevron織 3/1 | 1973年 | 古代の布に整合(Raesによれば8世紀以前) | Gilbert Raes (Gand) | 織りの整合性であり、年代測定ではない |
| vanilline(ロスアラモス) | 2005年 | 1,300 - 3,000年 | Raymond Rogers(ロスアラモス研究所) | 議論あり |
| 多パラメータ分光法 | 2013年 | 手法に応じた広い幅(おおむね紀元前300年から400年、紀元前700年から300年、1年から800年) | Giulio Fanti(パドヴァ) | 広い幅、繊維の出所が議論中 |
| WAXS、X線 | 2022年 | 仮定のもとで1世紀に整合 | De Caro&Fanti(CNRバーリ) | 仮定のもとで整合、確認を要する |
Codex Pray(1192-1195年):C14の下限より68年前
中世の年代測定に対する最も決定的な歴史的論拠は、C14の下限(1260年)より少なくとも68年前である。すなわちCodex Pray(Codex Pray)である。ブダペストのBibliothèque nationale Széchényi(分類番号 MNY 1)に保管されたハンガリーの典礼書であり、遅くとも1192-1195年に年代測定されている[59]。ハンガリー語で書かれた最古のテキストと、青と赤で彩色されたペン画の細密画を含む。そのうち二つの図(27丁裏と28丁表)は、トリノの聖骸布の独自の特徴を一点一点再現している。
Petitfilsは、12世紀にすでに再現されていた詳細を列挙する。
« 墓への納めの場面では、キリストの裸の身体が見える、図像のなかでは唯一の例である。特徴的な髭、長髪、胸筋、線状の痕跡、右手首の釘の正確な位置、交差した手、右手が左手の上、長い人差し指、親指の欠如(正中神経の損傷のため手のひらの内側に折り返されている)、下腹部と大腿を覆う手。どれも裏布の上で読み取れ、他のどこにもない詳細である。 »
- Jean-Christian Petitfils、前掲書、p. 83-84[60]
2009年、三人のフランスの研究者(Thierry Castex, Éric de Bazelaire et Marcel Alonso)が、裏布の直接観察によってのみ得られるさらなる詳細を発見した。28丁裏の下段の細密画には、直角に配された四つの小さな焼け跡(*« L字形の穴 »あるいは« trous de tisonnier »*と呼ばれる)が再現されている。裏布の特徴的なものであり、1532年のシャンベリの火事より前にできたものである。同様に、特有のchevron織もである[61]。12世紀の筆記者が、これら正確な配置を見ずに発明することはできなかった。
Petitfilsと真正性の擁護者が挙げる結論は、裏布は1192年以前にすでに存在した、というものである。この判断は、Codex Prayの詳細と裏布の詳細との図像的同一視に依拠している。確率計算は示されていない。確立された不可能性として提示することはできない。
→ 論拠4の要約: 1988年のC14は、(a) 結果の統計的異質性(再検討を要する)、(b) 試料の代表性への疑問(議論のある領域)、(c) 試料と布の他の部分におけるvanilline分析の相違によって脆弱化している。Raes1973年(古代の織りの整合性、年代測定ではない)、Rogers2005年(vanilline、議論のある読み方)、Fanti2013年(広い幅、繊維の出所が議論中)は古代起源に整合的な結果を与え、De CaroとFantiの2022年のWAXS研究は仮定のもとで1世紀との整合性を提案し、確認を要する。最後に、Codex Pray(1192-1195年)は、1988年のC14の下限より68年前に裏布が存在したことを文書的に証明する。
論拠5:物質のなかのパレスチナの痕跡
第五の論拠は花粉学的・鉱物学的である。裏布に存在する粒子は、近東への直接の滞在を漏らす。とりわけパレスチナ、コンスタンティノープル、アナトリアにおいて。まさに裏布の推定された経路である。
近東の花粉(Frei-Sulzer 1973年、Lucotte 2007年)
聖骸布に存在する花粉の分析は、スイスの犯罪学者Max Frei-Sulzer(チューリッヒ州警察の科学犯罪学研究所の創設者)が1970年代に行った。1973年と1978年に採取された粘着テープを用いたもので、58種の花粉の同定が主張された。そのうちいくつかはFreiによって近東(パレスチナ、アナトリア、コンスタンティノープル)の植物に結びつけられた。これらの同定は以来議論され、部分的に再検討されている。パレスチナ固有の種として提示することはできない[62]。
三十数年後、遺伝学者Gérard Lucotteが、走査電子顕微鏡での検査を限定された試料で再開し、Petitfilsが伝えるところでは、Freiのリストを超えて五つの追加の花粉を同定した(2007年に報告された発表)。
« 三つは Ceratonia Siliqua (カロブの木)の種に、一つは Balanites aegyptiaca (砂漠のナツメヤシ)の種に、一つは Cercis siliquastrum (ユダヤの木)の種に属していた。[...]この発見はいっそう興味深い。この種の花粉は決して風によって運ばれず、昆虫によって運ばれるからであり、これにより裏布がパレスチナに滞在した確率は実質的に高まる。 »
- Jean-Christian Petitfils、前掲書、p. 320[63]
Petitfilsは、ユダヤの木とカロブの木をガリラヤ、サマリア、ユダヤに結びつけている。この結びつけは、Lucotteが検査した試料とFreiの同定に依拠している。議論が残っており、それだけでは裏布のパレスチナ滞在を確立するには十分でない。
エルサレムの石灰性アラゴナイト(Kohlbeck-Nitowski、1986年)
Joseph KohlbeckとEugenia L. NitowskiのX線分析は、1986年にBiblical Archaeology Reviewに発表された。裏布の足元の近くに、顕微鏡的な石灰性アラゴナイトの粒子の存在を明らかにした。その化学的署名はエルサレム地方の墓のものと同一であり(ヨーロッパのアラゴナイトとは異なる)[64]。
古代キリスト教の碑文(Barbara Frale、2009年:深く議論されている仮説)
歴史家Barbara Fraleは、ヴァチカン使徒文書館の考古学者であり、1世紀のユダヤの葬儀儀礼の専門家である。2009年に、聖骸布の顔の周囲にある*« 書の幽霊 »*の古文書学的読解を発表した。Simone Venturini(聖書ヘブライ語)、Marco Buonocore(ギリシャ語碑文)、Émile Puech神父(エルサレム聖書考古学学校)と協議してのものである。これは深く議論されている仮説であり、確立された知見ではない。
« このイタリアの歴史家が相談した古文書学者たちは、この古い書法が古代キリスト教の世界(1世紀から4世紀)に属すると判断した。古文書学者・パピロロギストのMario Capassoによれば、角のあるシグマ Σ は西暦1世紀に用いられ、2世紀に消えた。したがって聖骸布の書はキリストの死にさかのぼるであろう。 »
- Jean-Christian Petitfils、前掲書、p. 312[65]
Fraleは、とりわけ次の文字群を読むと提案する。HΣOY(Iēsou、« Jésus »の中心)、NNAZARENNOΣ(« le Nazaréen »)、INNΣ(有罪宣告の定式)、そしてPEZω(« Rezo »と発音、ローマの役人が署名した明瞭な花押)。しかしそれから導かれる完全な復元(30年4月7日付とされるいわゆる埋葬許可証)は、Petitfils自身によって« 明らかに過剰解釈 »と判定されている。そして批判者たち(Di Lazzaro、Muller、Schwortz 2013年、Jordanら 2015年)は、そこにはパレイドリアの効果しか見ない。繊維の単なる絡みから文字を読み取るだけの効果である[66]。独立に複数の研究者によって、異なる手法で記録されたこれらの文字群のいくつかの存在のみが、なお証明されている。
Haceldamaのユダヤの裏布(Shimon Gibson、2010年)
2010年1月の重大な考古学的発見。英国の考古学者Shimon Gibsonによる。エルサレム近くのHaceldamaのユダヤ人墓地で、西暦1世紀にさかのぼる裏布が発掘された。全身を覆い、頭の上を通っていた(毛髪の残骸が見つかった)[67]。
この発見は、イエスが*« ミイラのように »*包帯で包まれ、一体の布ではなかったとする聖書解釈上の命題を退ける。すなわち、トリノの聖骸布の形が、1世紀パレスチナのユダヤの葬儀慣行に合致していることを確認する。
→ 論拠5の要約: 四つの異なる物質的痕跡(Frei、のちに限定された試料でLucotteが近東の植物に結びつけた花粉。同定は議論され部分的に再検討されている。エルサレムのものと結びつけられたアラゴナイト。読解がなお議論されている書の痕跡。Haceldamaの型との合致)が、真正性の擁護者によって、1世紀のパレスチナへの滞在を示唆するものとして提示されている。
論拠6:収束:聖骸布、オビエドのスダリウム、アルジャンテイユの聖衣
第六の論拠は比較的である。トリノの聖骸布は孤立していない。それは受難の遺物の三つ組(聖骸布、オビエドのスダリウム、アルジャンテイユの聖衣)に属しており、独立した科学的分析が収束している。
オビエドのスダリウム(Goldoni 1993年)
オビエドのスダリウム(スペイン)は、ヨハネ 20, 7によればイエスの顔を覆ったとされる血の染みた布である。遅れた史料、とりわけ12世紀のオビエド司教Pelayoが伝える伝統によれば、7世紀からスペインに保管されているとされる。Petitfils(p. 322)は、この古い物語を、信頼性の不完全な後代の証人に依拠させている。この古さも、聖骸布との直接接触の欠如も、事実と同時代の史料によって確立されていない。以下に述べる物質的分析のみを、ここでは知見として採用する。
« 1993年6月、Carlo Goldoni博士は、オビエドの聖骸布に存在する血をAB型、すなわち聖骸布と同じ型と同定した。斑は一部が血であり、六つが肺液で構成されていた。鼻の長さが8センチであり、右側の中央が腫れており、おそらく転倒で折れていたこと、犠牲者は短い髭と血に染まった口髭をもち、口が半開きで、髪の一部が三つ編みに結ばれていたことが確認できた。聖骸布が示すとおりである。二つの布のある斑の類似は完全であった。 »
- Jean-Christian Petitfils、前掲書、p. 334[68]
これらの同じ遅れた史料が伝える、1世紀からスダリウムが別々に保管されていたという伝統は、事実と同時代の史料によって確立されていない。報告された分析によれば、二つの布は同じ正確な解剖学的痕跡を帯びている。折れた鼻、AB型に帰属された血、一致する傷。真正性の擁護者は、これらの型判定が信頼でき独立しているならば、中世の組織的詐欺の仮説に対する論拠を見る。ただしこの条件は議論されている(下記参照)。
亜麻の84センチ×53センチの布であり、現在オビエド大聖堂に保管され、血と漿液の斑に覆われている。この聖骸布は、スペインと米国の学際チームによって分析された。Petitfilsが書くところでは、*« 顔の血流の聖骸布との完全な一致 »*を示した[69]。
アルジャンテイユの聖衣:10のうち9の重なり(Marion、1997年)
アルジャンテイユの聖衣(フランス、9世紀から保管)は、伝統によれば、イエスが受難の間に着ていた下衣である(ヨハネ 19, 23)。技術者のAndré Marion(以前に聖骸布の*« 書の幽霊 »*を検出した人物)は1997年、改良された機器によって、アルジャンテイユの聖衣の十の血の斑のうち九つが聖骸布のものと幾何学的に重なることを報告した[70]。
聖衣の上のDNA(Gérard Lucotte)
遺伝学者Gérard Lucotteは、アルジャンテイユの聖衣が*« 血に飽和している »*ことを検出し、それを汚した人物の十五の遺伝的マーカーをもつDNA配列を抽出した。本物の人血であることを実証する[71]。
三つの遺物におけるAB型の結合確率(8,000分の1:条件付き計算)
AB型は、聖骸布(Baima Bollone 1982年)、オビエドのスダリウム(Villalain Blanco&Goldoni 1993年)、アルジャンテイユの聖衣(Saint-Prix&Lucotte 1986-2005年)で独立に報告されている。もしこれら三つの分析が信頼でき独立しているとみなすなら、無作為に取られた三つの試料がすべてAB型である結合確率は、0.00125、すなわち8,000分の1となる[72]。しかしこの二重の条件(各古い分析の信頼性、三つの測定の実際の独立性)それ自体が議論されている。この数字は、この仮説の内側でのみ意味を持つ。
→ 論拠6の要約: 聖骸布は孤立していない。受難の三つの遺物(トリノ、オビエド、アルジャンテイユ)は、伝統によれば7世紀から9世紀以来、三つの異なる場所に保管されてきた。ただしその古い分離も接触の欠如も、事実と同時代の史料によって確立されていない。これらの分析によれば、稀なAB型の人血を帯び、Marionが報告する傷の幾何学的な重なりをもつ。これらのAB型判定が信頼でき独立しているならば(議論されている条件だが)真正性の擁護者は、中世の組織的詐欺に対する論拠を見る。
論拠7:図像:1500年間の芸術的響き
第七の論拠は図像的である。聖骸布の顔は、ビザンティンと中世のキリスト教美術のなかで大量に再現されている。しかもこの美術は、1357年にリレで聖骸布が西方に現れるよりも数世紀前にさかのぼるはずである。キリスト教の図像は、現代の西方による発見の千年も前に、モデルとして聖骸布を前提としている。
Vignonの15の徴
Paul Vignonは、聖骸布の顔の十五の特徴的特徴を同定した。額の横じわ、鼻のV字、より高い右眉、二叉の髭、非対称の房、偽の折れによる顎下の線など。これらは、4世紀末からキリスト図像のなかに同時に現れる。まさに聖骸布がエデッサに到着した時期(387-388年)である。
主要なイコンに現れるVignonの徴の割合:
- ダフニのパントクラトール・キリスト(11世紀):15のうち11の徴
- Sant'Angelo in Formis(10世紀):15のうち13の徴
- チェファル大聖堂(12世紀):15のうち14の徴
シナイのパントクラトール・キリスト:250の重なりの点(Whanger)
Alan D. Whanger医師(医師、メソジスト教会の元宣教師)は、偏光画像の重ね合わせ法により、裏布の男の顔とシナイの聖カタリナ修道院のパントクラトール・キリスト(エンカウスティックのイコン、6世紀)との間に250の収束点を記録した。米国の法的な識別の閾値として彼が挙げる60点と比較して[73]。
シナイのイコンは、聖骸布がリレに現れるより750年早いビザンティンのイコンである。Whangerにとって、この収束は聖骸布に基づく絵画、したがって6世紀におけるその存在を支持する。この推論は、彼の重ね合わせ法の信頼性に依拠する。
ビザンティンの貨幣学
コンスタンティノープル公会議(691年)から、皇帝Justinien2世は、聖骸布と同じ額の血流をもつパントクラトール・キリストを描いた金貨ソリドゥスを鋳造させた。Whangerは、このソリドゥスと145の重なりの点を見出す。944年から1204年の間に記録された187枚のビザンティン貨のうち、172枚が標準的なモデルに合致する顔をもつ[74]。
→ 論拠7の要約: 4世紀以来、ビザンティンと中世のキリスト教の図像は、聖骸布に似る15の特徴的徴をもつキリストの顔を呈してきた。シナイのパントクラトール(6世紀)は、Whangerの手法によれば、聖骸布と250の重なりの点をもつ。彼が挙げる閾値の60点と比較される。ビザンティンの貨幣学(691-1204年)も同じモデルを再現する。Whangerによれば、聖骸布は4世紀にはすでに存在し、この図像に霊感を与えていた。この結論は、彼の手法の信頼性に依拠する。
論拠8:復活:科学的な謎
第八の論拠は復活に関する。像の形成そのものが、Secondo Pia(1898年)以来124年の研究ののちもなお、科学的に説明されていない。身体と布の分離の様式(血餅に最小の剥離の痕もないこと)は、物理的に並外れた出来事を示唆する。キリスト教の伝統はそれを復活と同一視する。
剥離の接触なくして形成された像
Petitfilsは第17章のなかでこの謎を要約する。
« 誰も、死者がどうして、血餅にも亜麻の原繊維にも最小の剥離の痕も残さずに、そこから出ることができたのかを、科学的に説明できない。[...]包帯の役割を担う裏布の場合、血の斑は布の表にも裏にも見える。血はしたがってそれを通り抜け、36時間のうちに、無数の傷に裏布をくっつける十分な時間があった。裏布を検査しても、何百もの斑の一つとして、不規則な縁も破れた縁もない。認めざるをえない。身体は、分離の最小の痕も残さずに、裏布から離れたのである。 »
- Jean-Christian Petitfils、前掲書、p. 412[75]
これは、通常の死体にとっては法医学的に不可能な現象である。傷が葬儀用の布に貼りついた死体の、いかなる通常の搬送も取り外しも、血餅を剥がし、原繊維に裂け目を残す。裏布の何百もの斑のいずれにも、剥離が認められない。
セルロースの謎めいた熱分解
この像は絵画ではない。セルロースの酸化的脱水であり、25-40マイクロメートル(二〜三本の原繊維)にしか浸透しない。この部分的熱分解は、死んだ身体からは物理的に説明できない。死体は、そのような反応を生み出す熱エネルギーをまったく放出しないからである。
UVフラッシュ:唯一の再現可能な技術:入手不可能
Paolo Di Lazzaro(ENEA 2011年)は実証した。聖骸布の像を(部分的に)再現することのできる唯一の技術は、非常に短時間(約10⁻⁸秒)で非常に強度の高いUVフラッシュである。これは、像が身体そのものから発する強烈で短い放射によって形成されたことを示唆する。死んだ身体から栄光の身体への瞬間的な移行として理解されるキリストの復活と物理的に整合的な現象である。
Paul Claudel:「臨在」
詩人Paul Claudelは1935年、ピアの写真を熟視して書いた。
« あまりに重大な意味をもつので、私はそれを第二の復活にしか比較できない。[...]十九世紀の隔たりが一撃のうちに消滅し、過去が即座に移される。[...]これは単なる公文書ではない。たとえば議事録や、正当に署名捺印された判決の謄本のようなものではない。これは複写であり、自らの保証を携えた像である。像以上に、これは臨在である。 »
- Paul Claudel(1935年)、Petitfils、前掲書、p. 413により引用[76]
→ 論拠8の要約: 像の形成と、血餅の剥離を伴わない身体の分離は、既知の自然な手段によっては法医学的にも物理的にも説明できない現象を構成する。像を部分的に再現する唯一の技術は現代のUVフラッシュであり、分離の瞬間に身体そのものが発した短く強烈な放射を示唆する。キリスト教の伝統は、この現象をキリストの復活と同一視する。
懐疑論者の反論と回答
真正性の真剣な調査は、最良の反対の反論と対決することなしには完結しない。19世紀末以来、五つの主要な懐疑的命題が唱えられてきた。いずれも現代の科学的データの試練には生き残らないが、回答する前に、最も強い形でそれらを提示することが重要である。真正性という結論がカトリックの先入観に基づくのではなく、独立に同じ結果に到達する学術的分析の収束に基づくことを示す唯一の方法だからである。
反論1:Pierre d'Arcisの書簡(1389年):「巧妙に描かれた」
反対の命題。 1389年、トロワ司教Pierre d'Arcisは、アヴィニョンの対教皇クレメンス7世に、リレでの聖骸布の公開を糾弾する意見書を送った。この文書によれば、裏布は*« 巧妙に描かれ、真実はそれを描いた芸術家によって証明された »*という。これが懐疑論者の古典的な歴史的論拠である。
回答。 歴史家・文書館員Emmanuel Poulle(1928-2011年、学士院会員、元国立古文書学校長)は、2006年にリレの事案の見事な復権を発表した。彼は実証する。Pierre d'Arcisの書簡は、トロワ教区文書館で発見された、日付も署名も宛先も不明の草稿であること。その内容は、いわゆる芸術家の名前を挙げることなく、« こう噂されている »、*« 私にこう言われた »*という流言に基づいていること。そしてさらに深刻なことに、教皇クレメンス7世は、1390年1月6日の勅書によって公開を許可し、この意見書と矛盾していること[77]。結論:
« リレの事案は、長らく詐欺の歴史的証拠として提示されてきたが、実際には、公開の権利をめぐるPierre d'Arcisとリレ参議会との管轄権紛争の表現である。遺物の真正性についての証言ではない。「自白した芸術家 »は決して名指しされない。」
- Emmanuel Poulle、Revue d'histoire de l'Église de France、第92巻、2006年[78]
これに加えて、Codex Pray(1192-1195年)の図像的論拠がある。リレでの公開より165年早い。裏布は、Pierre d'Arcisが糾弾したいわゆる*« 製作 »*の二世紀も前に、ハンガリーで文書化されている。
反論2:Walter McCrone(1980年):「酸化鉄の絵画」
反対の命題。 米国の微細化学者Walter McCrone(1916-2002年、STURPの元メンバー)は、1980年9月19日、『Times』誌上で、裏布の原繊維に、中世の*« ヴェネツィア赤 »型の絵画に特徴的な酸化鉄(Fe₂O₃)とバーミリオンの粒子を見つけたと宣言した。McCroneによれば、像全体が、ゼラチンを基剤とするテンペラで« 濡れた指で »*作られたという。
回答。 三つの収束した反証が、McCroneを科学的に無効にした。
- STURPの光学スペクトル。 Samuel Pellicori(サンタバーバラ研究所)は、存在する酸化鉄のスペクトルを測定し、それが像の構成にまったく寄与しないことを実証した。像に着色された原繊維はFe₂O₃の分光的署名を含まない[79]。
- 中世の汚染物がない。 Roger MorrisとLarry Schwalbe(ロスアラモス)は、X線蛍光顕微鏡で、非常にまれな鉄の粒子が、布全体に均一に分布していることを示した。1マイクロメートル未満の粒で、マンガンもニッケルもコバルトもない(中世の黄土に必ず伴うもの)。これは亜麻の水浸しの自然な残渣であり、絵画ではない[80]。
- 査読誌での発表がない。 McCroneは、peer reviewを持つ雑誌に決して分析を発表しなかった。彼の論文は、自らの研究所Walter McCrone Associates社が発行する『The Microscope』に掲載された。独立した外部査読委員会なしに[81]。
Petitfilsは、McCroneの命題を「科学的に無効」と判定しつつ、複数の批判的著者がなおそれを引用し続けていると注記する[82]。
反論3:Luigi Garlaschelli(2009年):« 浮き彫りによる再現 »
反対の命題。 イタリアの化学者Luigi Garlaschelli(パヴィア大学)は、2009年に裏布の像を再現したと主張した。その方法は、人体の浮き彫りに赤い黄土を塗り、亜麻布を当て、布を215°Cで三時間老化させ、希硫酸とコバルトブルーで処理し、洗浄する。
回答。 Petitfilsは失敗を要約する。
« 得られた効果がより良くても、Garlaschelliは原本の性質のすべて、とりわけ接触する突出部と接触しない領域との間の半調のグラデーションを再現できなかった。彼の像は大きさの異なる着色点で構成され、この偽聖骸布の血の斑は、本物の電子顕微鏡で観察される漿液の蛍光ハローを呈していなかった。 »
- Jean-Christian Petitfils、前掲書、p. 274[83]
裏布の七つの異なる特徴が、Garlaschelliの複製には欠けている。(1) 完全な写真的陰画、(2) 強度に符号化された3D情報、(3) 像の等方性(筆の跡なし)、(4) 浸透のない25-40マイクロメートルの深さ、(5) 生前の漿液の蛍光ハロー、(6) 裏面に像がないこと、(7) 血中のビリルビンとポルフィリン。中世の手法がこれら七つの性質を同時に備えることはできなかった。
反論4:Nicholas Allen、Picknett&Prince:« Leonardo da Vinciによる原始写真 »
反対の命題。 南アフリカの教授Nicholas Allen(1995年)と、超常現象の講演家Lynn Picknett & Clive Prince(1994年)は、裏布がLeonardo da Vinciによって作られた原始写真であると提案する。石英のレンズの前に吊るされた死体をcamera obscuraのなかに置き、硝酸銀とアンモニアを染み込ませた布に像を印す。Picknett-Princeによれば、裏布の顔はLeonardo自身の顔である。
回答。 時代の不合理(Leonardoは1452年4月15日に生まれた。一方、裏布は1357年頃にリレで文書化されており、ほぼ一世紀早い)に加えて、Petitfilsは三つの致命的な反論を挙げる。
« 大口径の両凸レンズは当時は存在しなかったし、そのような発見は火薬の導火線のように広がり、偽聖骸布の量産を不可避免にしただろう。この系で作られた茶紫色の原始写真は、裏布の像とは対照的に、比較的くっきりとした輪郭を呈し、そして何より三次元性という特徴を備えていなかった。 »
- Jean-Christian Petitfils、前掲書、p. 274-275[84]
実際の試験は、2005年、『History Channel』のドキュメンタリー(Unraveling the Shroud of Turin)のために、プロデューサーのSean Heckmanによって再実施された。得られた像はぼやけて3Dの浮き彫りがなく、裏布とまったく似ていなかった。
反論5:Joe Nickell:« 粉をまぶした浮き彫りの擦り »
反対の命題。 米国の懐疑論者Joe Nickell(Skeptical Inquirer)は、1983年にはすでに、裏布の像が擦りによって作られたと提案した。浮き彫りに当てた濡れた布に、褐色の粉を上からまぶす。
回答。 この仮説はGarlaschelliの場合と同じ点で失敗するが、さらに三つの固有のデータでも失敗する。
- 完全な等方性。Donald J. LynnとJean J. Lorre(ジェット推進研究所)が実証。像は方向性の痕跡をまったく持たない(摩擦、線、打撃)。ところが手作業の擦りは、顕微鏡で検出可能な軌跡を残す[85]。
- 3Dの浮き彫りの像がない。Nickellの手法には、試験の布が聖骸布の褐変に符号化された距離情報を生み出したことが決してない。
- 像の前に血。蛍光性の漿液ハローと血の斑の下の白い亜麻は、血の痕跡が像に先行したことを証明する。層を重ねた絵画とは両立しない。
総括:五つの反論がともに失敗する理由
各反論は、単独では、頑固な懐疑論者が弁護しうる。しかし、いずれも裏布のデータの累積的な束を説明しない。下の表がそれを示す。
| 説明すべきデータ | Pierre d'Arcis 1389 | McCrone 1980 | Garlaschelli 2009 | Allen/Picknett 1994 | Nickell 1983 |
|---|---|---|---|---|---|
| Codex Pray 1192-1195 | ❌ 165年早い | ❌ | ❌ | ❌ Leonardo未出生 | ❌ |
| 写真的陰画 | ❌ | ❌ | ❌ | ✅ 部分的 | ❌ |
| 3D情報 | ❌ | ❌ | ❌ | ❌ | ❌ |
| 25-40 μmの表層の像 | ❌ | ❌ | ❌ | ❌ | ❌ |
| 実在の人血 AB型 | ❌ | ❌ | ❌ | ❌ | ❌ |
| 近東の花粉 | ❌ | ❌ | ❌ | ❌ | ❌ |
| エルサレムのアラゴナイト | ❌ | ❌ | ❌ | ❌ | ❌ |
| 生前の漿液ハロー | ❌ | ❌ | ❌ | ❌ | ❌ |
| 血餅の剥離がない | ❌ | ❌ | ❌ | ❌ | ❌ |
| 古代のchevron織 3/1 | ❌ | ❌ | ❌ | ❌ | ❌ |
| WAXS 2022(1世紀が報告) | ❌ | ❌ | ❌ | ❌ | ❌ |
Petitfilsと真正性の擁護者の読み方では、対立する仮説は、11の枠のうち2枠を超えることはない。この表は擁護者によって構築されたものであり、彼らの説明的非対称性という論拠を示す。単独では証明を構成せず、確率も計算されていない。
Jean-Christian Petitfilsの総合(Tallandier、2022年)
フランスの歴史家Jean-Christian Petitfils(ルイ14世の伝記作者、学術界の顕著なメンバー、フランス学士院と道徳・政治学アカデミーの複数の受賞者)は、2022年に『Le Saint Suaire de Turin. Témoin de la Passion de Jésus-Christ』(Tallandier、パリ、480ページ)を発表した。この著作は、裏布に関するフランス語圏の参照的総合であり続けている。1898年から2022年までの間に発表された科学研究のすべてを、六十以上の収束する論拠(歴史的、考古学的、法医学的、生化学的、図像的、貨幣学的)とともに集めている。
上記の八つの主題的論拠は、Petitfilsが文書化した主要な論拠の総合である。詳細(とりわけC14年代測定の批判、裏布のビザンティン史、聖骸布の独自の特徴をC14年代測定の六十年前に忠実に再現する1192-1195年のハンガリーのCodex Pray、Emmanuel Poulle2006年によるリレ事案の復権、3D写真彫刻に関するQuidor1913年の特許など)については、完全な著作に読者を送る。
Yves Delageの確率計算(1902年):100億分の1
1902年にはすでに、ソルボンヌの動物学者Yves Delage(著名な不可知論者・唯物論者)が、聖骸布に厳密なベイズ的推論を適用した。五つの例外的状況(エジプトを除く東方、右脇腹の傷、茨の冠、埋葬の期間24-72時間、顔の高貴さ)が別の犠牲者に同時に現れる確率は:
« ここに五つの状況の符合がある[...]。それぞれについて、他の人物のなかに出会う確率が百分の一であると仮定しよう。したがって、それらが同時に出会った確率は、100の5乗、すなわち百億分の一にすぎない。もちろん、私はこれを、正確さを主張する数値として示すつもりはない[...]。 »
- Yves Delage、Revue scientifique、1902年5月、Petitfils、前掲書、p. 209により引用[86]
この計算はわずか五つの特徴に基づくものであった。Petitfilsと真正性の擁護者は、この推論を上記の現代の八つの論拠に延長し、偶然の一致は非常にありえないと判断する。これら八つの論拠の全体について、手順と頻度を伴う新たな計算は行われていない。この判断は擁護者のものであり、確立された確率ではない。
Yves Delageが1902年4月21日にパリ科学アカデミーに発表を提出したとき、そのテキストは『Comptes rendus』に掲載されなかった。終身書記Marcellin Berthelotが掲載を拒んだのである[87]。
八つの論拠の要約表
下の表は、八つの論拠を参照可能な形式で総合する。それぞれ単独では、特定の批判に抵抗するかもしれない。まとめてみると、収束によって現実のあらゆる次元(歴史的、解剖学的、物理化学的、考古学的、図像的、神学的)を飽和させる。
| 論拠 | 学問領域 | 中心的なデータ | 主要な出典 |
|---|---|---|---|
| 1、実在の磔刑 | 法医学 | espace de Destot、心膜水症、収縮した親指 | Barbet(1950年)、Rodante(1988年)、Giraud-Castex(2017年) |
| 2、再現不可能な像 | 物理化学 | 写真的陰画、3D、等方性、25-40 μm | Jackson-Jumper NASA VP-8(1976年)、STURP(1981年)、Di Lazzaro ENEA(2011年) |
| 3、実在の人血 | 生化学 | ポルフィリン、AB型(議論あり)、ビリルビン、フェリハイドライト(撤回された研究) | Heller-Adler(1980年)、Baima Bollone(1982年)、Carlino-Fanti PLoS One(2017年) |
| 4、年代測定 | 年代測定 | 議論のあるC14 1988;WAXS 2022:1世紀が報告(確認を要する) | Casabianca Archaeometry(2019年)、Rogers Thermochimica Acta(2005年)、De Caro-Fanti Heritage(2022年)、Codex Pray(1192-1195年) |
| 5、パレスチナの痕跡 | 考古学 | 花粉、アラゴナイト、書(読解が議論中) | Frei-Sulzer(1973年)、Kohlbeck-Nitowski(1986年)、Frale(2009年)、Lucotte(2007年) |
| 6、遺物の収束 | 比較 | 聖骸布+オビエドのスダリウム+アルジャンテイユの聖衣 = AB型(報告、議論あり) | Goldoni(1993年)、Marion(1997年)、Lucotte(2007年) |
| 7、図像 | 美術史 | Vignonの15の徴、シナイのパントクラトール250点 | Vignon(1938年)、Whanger(1998年)、ビザンティン貨幣学 691-1204年 |
| 8、像の謎 | 物理 | 剥離なし、説明のつかない熱分解、UVフラッシュ | Petitfils(2022年)、Di Lazzaro(ENEA、2011年)、Claudel(1935年) |
証拠としての収束
単独では、八つの論拠のそれぞれは議論しうる。これが懐疑論者の常套の反論である(« この特定の論拠は争える »)。Petitfilsと真正性の擁護者は、体系的な収束(歴史的、考古学的、法医学的、生化学的、図像的、貨幣学的、遺伝学的)によって応答し、偶然あるいは中世の製作による出現は非常にありえないと判断する。束の全体について手順も計算も与えられていない。このありえなさは彼らの判断であり、確立された確率ではない。
Petitfilsが著作の結びに書くとおり:
« 信仰者であれ不信仰者であれ、この時代を越えてきた墓の彼方の顔の熟視に、魅了されなかった者があろうか。苦痛から解放され、高貴で静かで、重々しく崇高な威厳をもって、彼は私たちに同じ問いを投げかけるようである。イエス・ナザレの人ご自身がガリラヤとユダヤの道の上で弟子たちに投げかけた問いに:「では、あなたはわたしを何者だと言うのか。 »」
- Jean-Christian Petitfils、前掲書、p. 413、結論[88]
カトリック教会の立場
教会は、聖骸布の真正性を教義としては定義しない。牧会上の慎重さから、いかなる物質的対象にも信仰を条件づけないためである。しかしそれを崇敬に値する遺物(Reliquia)として敬い、現代の教導権はそれを何度も、ますます敬意のこもった調子で語ってきた。根本的な神学的区別が必要である。裏布の真正性は教義ではなく、そうなる運命もない。しかし公的信仰と私的崇敬は、一世紀以上にわたって奨励されてきた。
聖ピオ10世とピオ11世:教導権の変遷
聖ピオ10世(1903-1914年)は、Secondo Piaの最初の写真を公然と崇敬した。ピオ11世(1922-1939年)(以前はAchille Ratti司教、ミラノのアンブロジアーナ図書館の元館長)は、当初むしろ懐疑的であった。しかしGiuseppe Enrieの写真(1931年)の検査、科学研究の読解、そしてPierre Barbetら複数の学者との対話が、彼を納得させた。1934年3月23日、聖骸布を崇敬する信者に全大赦を授けた。Petitfilsはさらに、1936年にピオ11世がトリノの遺物への崇敬を非常に強い言葉で表したと伝えるが、その正確な表現は教皇の一次史料のなかに見つからなかった[89]。
聖ヨハネ・パウロ2世(1980年、1998年):「知性への挑戦」
聖ヨハネ・パウロ2世は、裏布を二度崇敬した(1980年4月と1998年5月)。1998年の公開に際して、裏布にささげられた最も正確な教皇演説を述べた。
« 聖骸布は知性への挑戦である。それはまず第一に、あらゆる人、とりわけ研究者の関与を要求する。その理性とその生活に向けられた深いメッセージを、謙虚に捉えるために。聖骸布が及ぼす謎めいた魅力は、聖なる布とイエスの歴史的生活との関係についての問いを定式化するよう促す。信仰の主題ではないので、教会はこれらの問いに関して述べる固有の能力を持たない。教会は科学者たちに、研究を続ける義務を託す。伝統によれば、我らの救い主の身体が十字架から降ろされた際にそれを包んだとされるこの布に関連する問いに、適切な答えを見出すために。 »
- 聖ヨハネ・パウロ2世、トリノ訪問の際の演説、1998年5月24日[90]
ベネディクト16世(2010年):「並外れたイコン」
ベネディクト16世は、2010年5月2日に公開のためにトリノを訪れた。展示された裏布の前で聖ヨハネ洗礼者大聖堂で述べた黙想が、その神学的意味を照らす。
« 聖骸布は、この秘跡のイコン、聖土曜日のイコンであると言える。[...]聖骸布は、血で書かれたイコンである。笞打され、茨の冠をかぶせられ、十字架につけられ、右脇腹を槍で貫かれた一人の男の血で。 »
- ベネディクト16世、聖骸布の前での黙想、トリノ、2010年5月2日[91]
250万人を超える巡礼者が、この公開のためにトリノを訪れた。ベネディクト16世はキリスト論的次元を強調する。聖骸布は魔術的な対象ではなく、死んで復活されたキリストの熟視へと招くしるしである。
フランシスコ教皇(2013年、2015年、2020年):「この愛のイコン」
フランシスコ教皇は、ブエノスアイレス大司教のときにアルゼンチンの聖体の奇跡のAB型の血を分析させていた[92]。2013年3月30日(聖土曜日)のテレビ中継の公開に、ラジオのメッセージで参加した。2015年6月21-22日には、聖ヨハネ・ボスコの生誕二百年のために自らトリノを訪れ、ピアッツァ・ヴィットーリオでミサをささげた。続いてのアンジェルスで、次のように述べた。
« この典礼の終わりに、私たちの思いは聖母マリアへ向かう。十字架の上でイエスがお委ねになった、そのすべての子らに対して、愛に満ち先回りする母へ。そしてイエスご自身が、最も偉大な愛の身振りのなかでご自身を捧げられたときに。聖骸布は、この愛のイコンである。このたびもまた、ここトリノにこれほど多くの人々を惹きつけた愛の。 »
- フランシスコ教皇、ピアッツァ・ヴィットーリオでのアンジェルス、トリノ、2015年6月21日[93]
コビッド19のパンデミックの間、トリノ大司教Cesare Nosigliaは、聖土曜日の2020年4月11日と2021年4月3日に、例外的なテレビ中継の公開を組織した。ソーシャルネットワーク上で世界中に配信された。逆説的にも、パンデミックは裏布の世界的な普及を増大させたのである。
教導権の総括
五人の教皇(聖ピオ10世、ピオ11世、聖ヨハネ・パウロ2世、ベネディクト16世、フランシスコ)が、聖骸布への崇敬を公然と示してきた。ピオ11世は1934年に全大赦を授けた。聖ヨハネ・パウロ2世はそれを*« 知性への挑戦 »と見た(1998年)。ベネディクト16世はそれを聖土曜日の« 並外れたイコン »と呼んだ(2010年)。フランシスコはそこに« この愛のイコン »を熟視した(アンジェルス、2015年)。いずれも、厳密な歴史的真正性については述べていない。それは科学に属し、教義ではないからである。しかし教導権の調子の一致(敬意に満ち、熟視的で、決して距離を置かない)それ自体が一つのしるしである。教会は裏布を疑わしい遺物として扱わない。復活の秘跡へと至る« しるし »*として扱うのである。
さらに知りたい方へ
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参照すべき主要な一次史料
- Jean-Christian Petitfils、『Le Saint Suaire de Turin. Témoin de la Passion de Jésus-Christ』、Tallandier、パリ、2022年、480ページ、フランス語圏の参照的総合、六十の文書化された論拠
- Matthieu Lavagna、『Soyez rationnel, devenez catholique !』、MDN Productions、2023年、*« キリスト教 »*部、p. 245-256
- Tristan Casabianca, Emanuela Marinelli, Giuseppe Pernagallo & Benedetto Torrisi、Radiocarbon Dating of the Turin Shroud: New Evidence from Raw Data、Archaeometry 第61巻第5号、2019年、異質性を示し、再検討を求めた統計研究
- Liberato De Caro & Giulio Fanti et al.、X-Ray Dating of a Turin Shroud's Linen Sample、Heritage 第5巻第2号、2022年、1世紀を提案するWAXS研究(先駆的な手法、確認を要する)
- 公式サイト shroud.com、Barrie M. Schwortz(STURP)が管理する世界的科学データベース
注と参考文献
Matthieu Lavagna、『Soyez rationnel, devenez catholique !』、MDN Productions(Salvator流通)、2023年4月、第II部 « Christianisme »、章 « Le Linceul de Turin, confirmation matérielle de la résurrection »、p. 245-256. ISBN 978-2-491255-51-0.
1Jean-Christian Petitfils, Le Saint Suaire de Turin. Témoin de la Passion de Jésus-Christ, Paris, Tallandier, 2022, p. 190.
2聖ヒエロニムス、『De viris illustribus』、第2章(392年頃)、『ヘブライ人福音書』(100-150年頃)を引用。ラテン語テキストはPatrologia Latina 23, col. 643。Petitfils、前掲書、p. 30により引用。現代研究:Alberto Vaccari S.J.、『La Civiltà Cattolica』、1953年。Robert McLachlan Wilson(編)、New Testament Apocrypha、Westminster John Knox Press、1991年も参照。
3エルサレムの聖キュリロス(315-386年、司教 350-386年)、Petitfils、前掲書、p. 31が報告する言及。正確な引用はないが、『教理講話』と主教就任前の説教に拠る。聖キュリロスは青年時代の説教のなかで*« 復活の証人である裏布 »*に明示的に言及している。
4Ian Wilson、The Shroud of Turin: The Burial Cloth of Jesus Christ?、Doubleday、1978年(2010年にThe Shroud: The 2000-Year-Old Mystery Solvedの題で改訂)。Wilsonは英国の歴史家であり、エデッサのMandylionとトリノの聖骸布の同一性という命題を擁護する。
5Doctrine d'Addaï、シリア語の匿名文書、Joseph Tixeront神父が390年から430年の間に年代測定;シリア語テキストは George Phillips 編、The Doctrine of Addai the Apostle、Trübner、ロンドン、1876年。Michel de Khorène(410年頃-490年頃)、『アルメニア史』第II巻、480年頃に執筆;フランス語訳 Victor Langlois、Collection des historiens anciens et modernes de l'Arménie、第II巻、パリ、1869年。Petitfils、前掲書、p. 48により引用。
6Jacques de Saroug(450-521年)、メソポタミアのévêque de Batna、Homélie sur l'Image d'Édesse、シリア語写本はフランス国立図書館(BnF、シリア語コレクション)に保管。批判校訂版と翻訳:André-Marie Dubarle O.P.、『Histoire ancienne du linceul de Turin jusqu'au XIIIᵉ siècle』、Œil、パリ、1985年、175ページ。Petitfils、前掲書、p. 43により引用。
7シリア語の賛歌、569年に年代測定、大英博物館の写本に保管。525年の洪水の後に皇帝Justinienが再建したエデッサのハギア・ソフィア聖堂をたたえる。Petitfils、前掲書、p. 51により引用、**A.-M. Dubarle O.P.**が『Histoire ancienne du linceul de Turin』、前掲書のなかで論じる。
8Smira、ビザンティン皇帝の侍医。後代の写本(一つはBnFに保管、もう一つはライデンのCodex Vossianus Latinus Q69に収録)によってのみ知られる;Petitfilsは彼に特定の世紀を帰属させない。Petitfils、前掲書、p. 58-59により引用。ビザンティンの伝統のなかで、*« 顔の表情だけでなく、全身の姿も表す »*キリストの像を描写した、最も初期の明示的な記述の一つ。
9Robert de Clary、『La Conquête de Constantinople』(時には『Histoire de ceux qui conquirent Constantinople』の題でも)、第92章、1216年頃に書かれた年代記。写本はコペンハーゲン王立図書館に保管(分類番号 Gl. Kgl. S. 487, fol. 87)。批判校訂版:Philippe Lauer、La Conquête de Constantinople、Honoré Champion、パリ、1924年。Petitfils、前掲書、p. 92により引用。
10 17Théodore Ange Comnène、教皇Innocent IIIへの書簡、1205年8月1日。don Pasquale Rinaldiが1981年にSanta Caterina da Formiello文書館(ナポリ)で発見した文書。1859年にBenedetto d'Acquisto大司教がChartularium Culisanenseの題で発表。Barbara Frale(ヴァチカン使徒文書館)による古文書学的真正認定。Petitfils、前掲書、p. 95-96により引用。
11Romain Iᵉʳ Lécapène(ビザンティン皇帝 920-944年);将軍Jean Kourkouasがアッバース朝カリフAl-MuttaqîとそのワジールAli Ibn Isa Al-Jarrahと行った交渉、944年8月。史料:Acta Sanctorum、Augusti、第III巻、p. 26-35収録のConstantin VII Porphyrogénèteの物語;およびSkylitzès(11世紀)の『年代誌』、Hans Thurn 校訂、Ioannis Scylitzae Synopsis historiarum、De Gruyter、ベルリン、1973年。Petitfils、前掲書、p. 65-66により引用。
12助祭長Grégoire le Référendaire、944年8月16日、コンスタンティノープルのアヤソフィアで、エデッサの像の厳かな即位の際に述べた説教。ギリシャ語写本はGino Zaninottoが1986年にヴァチカン使徒文書館で発見(Codex Vaticanus Graecus 511)。批判校訂版とフランス語訳:André-Marie Dubarle O.P.、『Le Linceul de Turin, l'écriture des sueurs sanglantes』、『Études』、第363巻、1985年、p. 681-690。Petitfils、前掲書、p. 72により引用。
13Constantin VII Porphyrogénète(905-959年)、Proclamation aux armées en Cilicie、958年。Hans-Georg Beck、『Kirche und theologische Literatur im byzantinischen Reich』、C. H. Beck、ミュンヘン、1959年収録のテキスト。Petitfils、前掲書、p. 77-78により引用。Mandylionに加えて、ファロスの遺物のなかの遺物として、« 神を包んだsindon »への最初の明示的かつ区別された言及。
14Nicolas Mésaritès(1163年頃-1216年)、『光の聖母の宮廷礼拝堂の描写』、1201年にビザンティンの反逆者の前で述べた演説。ギリシャ語テキストとドイツ語訳:August Heisenberg、Nikolaos Mesarites: Die Palastrevolution des Johannes Komnenos、ヴュルツブルク、1907年。Petitfils、前掲書、p. 85-88により引用。
15Codex Pray(あるいはHungarian Pray Manuscript)、1192-1195年に年代測定されるハンガリーの典礼書、ブダペストのBibliothèque nationale Széchényi(分類番号 MNY 1)に保管。詳細研究:Thierry Castex, Éric de Bazelaire et Marcel Alonso、『Le Codex Pray et le Linceul de Turin』、『Revue internationale du Linceul de Turin』、第33号、2009年。Petitfils、前掲書、p. 83により引用。
16リレの鉛のメダイ、1855年にパリのポン・オ・シャンジュの下のセーヌ川で発見、クリュニー美術館(中世国立美術館)に保管、蔵品番号 Cl. 4752。紋章学的研究:Noel Currer-Briggs、The Shroud and the Grail: A Modern Quest for the True Grail、St Martin's Press、ニューヨーク、1987年。Petitfils、前掲書、p. 134により引用。
181532年12月4日のシャンベリ聖礼拝堂の火事と、1534年4月14日にLouis de Gorrevod枢機卿(モーリエンヌ司教)が十二人の証人の前で行った厳かな検証の物語。史料:サヴォイア公爵文書館;Henri Chevalier、『L'incendie de Chambéry et le Saint Suaire』、『Mémoires de l'Académie de Savoie』、第4系列、第XIV巻、1934年。Petitfils、前掲書、p. 167-173により引用。
19Shroud of Turin Research Project (STURP)、最終報告、1981年。1978年に120時間の非破壊検査を行った40人の科学者の国際チーム(NASA、ロスアラモス国立研究所、米空軍士官学校、カリフォルニア工科大学JPL)。詳細報告は shroud.com/sturp.htm を参照。
20 41Liberato De Caro, Cinzia Giannini, Sergio Lopez-Pintor, Emilio Matricciani, Giulio Fanti、X-Ray Dating of a Turin Shroud's Linen Sample、Heritage、第5巻第2号、2022年4月11日、p. 860-870、DOI 10.3390/heritage5020047。イタリア国立研究会議(CNR、バーリ)の結晶学研究所で行われた研究。Massadaの陥落(西暦73年)に年代測定された亜麻の試料との比較。Jean-Christian Petitfils、『Le Saint Suaire de Turin』、前掲書、p. 325により引用。
21 57Matthieu Lavagna、前掲書、p. 246:Secondo Piaの発見(1898年5月28日)と聖骸布の最初の写真陰画の物語。
22Yves Delage&Paul Vignon、1902年にパリ科学アカデミーに提出された裏布に関する研究の結論。Matthieu Lavagna、『Soyez rationnel, devenez catholique !』、前掲書、p. 246により引用。ソルボンヌ教授のDelageと、当初は詐欺を暴きに来たVignonは、意に反して裏布の真正性に結論づけた。
23Matthieu Lavagna, Soyez rationnel, devenez catholique !, MDN Productions, dépôt légal avril 2023, p. 246.
24Pierre Barbet(1884-1961年)、パリのサン=ジョゼフ病院の外科医、『La Passion de Notre-Seigneur Jésus-Christ selon le chirurgien』、Procure de la médaille miraculeuse、isodun、1950年、256ページ(Médiaspaul、パリ、1982年再版;Téqui、パリ、1989年新版)。espace de Destotは、リヨンの放射線医Étienne Destot(1864-1918年)にちなむ。Petitfils、前掲書、p. 214により引用。
25Pierre Barbet、『La Passion de Notre-Seigneur Jésus-Christ selon le chirurgien』、前掲書。Petitfils、前掲書、p. 215により引用。Barbetは1933年から1950年の間に、サン=ジョゼフ病院で切断された腕を用いて解剖実験を行った。
26Pierre Barbet、『La Passion de Notre-Seigneur Jésus-Christ selon le chirurgien』、前掲書。Petitfils、前掲書、p. 215により引用。Barbetは、磔刑囚の直立と沈降の交互の段階を記述しており、裏布の上の腕の二方向の血流として具現化されている。
27Pierre BarbetとIudica教授(ミラノ)、脇腹の傷の解剖学的検証、『La Passion de Notre-Seigneur Jésus-Christ selon le chirurgien』、前掲書。Petitfils、前掲書、p. 217により引用。« sang et eau »(ヨハネ 19, 34)は、笞打と磔刑による窒息に続く心膜水症(心膜囊内の漿液滲出)で説明される。
28Pierre Barbet、『La Passion de Notre-Seigneur Jésus-Christ selon le chirurgien』、前掲書。Petitfils、前掲書、p. 216により引用。
29Pierre Barbet、『La Passion de Notre-Seigneur Jésus-Christ selon le chirurgien』、前掲書;および頭皮の傷の詳細研究:F. Giraud, T. Castex et Y.-M. Giraud、『Le mystère du Linceul de Turin à l'épreuve de la médecine et de la science』、Éditions du Jubilé、パリ、2010年。Petitfils、前掲書、p. 212および p. 389-392により引用。
30Frédéric Giraud, Thierry Castex et Yves-Marie Giraud、『Le Mystère du Linceul de Turin à l'épreuve de la médecine et de la science』、Éditions du Jubilé、パリ、2010年(2017年12月科学更新、『Revue internationale du Linceul de Turin』、第47号)。Petitfils、前掲書、p. 389-393により引用。
31Sebastiano Rodante(1924-2011年)、イタリアの医師・研究者、『La Réalité du Saint Suaire à l'aube de la science et de la foi』、Téqui、パリ、1990年(イタリア語原著La realtà della Sindone alla luce della Scienza e della Fede、Salvatore Sciascia、カルタニッセッタ、1988年)。36-40時間の時間窓に関する先駆的研究。シラクサでの新鮮な死体の臨床的試験に基づく。Petitfils、前掲書、p. 240により引用。
32Yves Delage、科学アカデミーでの発表、1902年4月21日。Petitfils、前掲書、p. 206が引き継ぐ論拠。perisoma(腰布)は、聖骸布の中世のすべての複製(例:リエージュの複製1516年、グアダルーペの複製1568年)に一貫して加えられている。反証として、原本が当時の図像的礼儀に反していたことの証拠。
33John P. Jackson & Eric J. Jumper、Three-dimensional characteristic of the Shroud image、IEEE Proceedings of the 1976 Aerospace Conference。Jacksonは米空軍の物理学者であり、のちにSTURP(Shroud of Turin Research Project、1978年)を創設した。
34 35Gabriel Pascal Quidor(1844-1928年)、フランスの画家・彫刻家、1864年に版画のグラン・プリ・ド・ローマ、1913年6月4日に、修正なしで浮き彫りの顔を得ることのできる写真彫刻の方法のフランスの発明特許を出願。Petitfils、前掲書、p. 229により引用。
36Donald J. LynnとJean J. Lorre、ジェット推進研究所(NASA/カリフォルニア工科大学、パサデナ、カリフォルニア)、Image Processing of the Shroud of Turin、トリノのsindon学国際会議で発表、1978年。Petitfils、前掲書、p. 230により引用。JPLは、ボイジャー、マーズ・パスファインダー、キュリオシティ、パーセヴィアランスのミッションを主導する機関であり、科学的画像処理の世界的な参照先である。
37STURP、最終報告1981年。Roger Gilbert(ロスアラモス)とJohn D. Geryanowiczによる像の深さ(25-40マイクロメートル)の測定。セルロースの部分的熱分解の概念はJohn P. Jacksonが展開。Petitfils、前掲書、p. 240-241により引用。
38Silvio Curto(1919-2015年)、トリノ大学エジプト学教授、トリノエジプト美術館館長(1965-1984年)。Humbert2世王の許可により、オランダ裂きの縫い目を解いた際に裏布の裏面を検査、1974年11月24日。Petitfils、前掲書、p. 227により引用。
39Petitfils、前掲書、p. 220が報告する観察。1973年のトリノ委員会が行った、裏布の腹側と背側の面の比較濃度測定法による色度測定。
40Paolo Di Lazzaroほか、Deep ultraviolet radiation simulates the Turin Shroud image、Journal of Imaging Science and Technology、第54巻第4号、2010年。ENEA(Agenzia nazionale per le nuove tecnologie, l'energia e lo sviluppo economico sostenibile、フラスカーティ、イタリア)で行われた研究。結論:非常に強力で超短時間(約10⁻⁸秒)のUV放射のみが、観察された表層の着色を生み出すことができる。20世紀末以前には入手不可能な技術。
42John H. Hellerとアラン・D・Adler、Blood on the Shroud of Turin、『Applied Optics』、第19巻第16号、1980年8月15日、p. 2742-2744。Hellerは生物物理学者(New England Institute of Medicine)、Adlerは化学者(Western Connecticut State University)、いずれもSTURPのメンバー。Petitfils、前掲書、p. 239により引用。A Chemical Investigation of the Shroud of Turin、『Canadian Society of Forensic Science Journal』、第14巻、1981年、p. 81-103も参照。
43Pierluigi Baima Bollone、Sindone e Scienza: Bilanci e Programmi alle Soglie del Terzo Millennio、Effatà、2000年。Baima Bolloneはトリノ大学の法医学教授であり、1981年に聖骸布の血の公式生化学分析を行った。
44アラン・D・Adler(1931-2000年)、裏布の血の痕跡の生化学分析、例外的に高いビリルビンの値の同定、外傷後の黄疸と出血性ショックの古典的バイオマーカー。Petitfils、前掲書、p. 239により引用。
45Barrie M. Schwortz(1945年生)、記録写真家、Shroud of Turin Research Project (STURP)のメンバー。Marie de Nazareth協会が収集した証言(映像« Le Linceul de Turin ne peut venir que de la Résurrection du Christ »)で、Matthieu Lavagna、『Soyez rationnel, devenez catholique !』、前掲書、p. 249に再録。Schwortzは米国のユダヤ人であり、1996年に参照サイト shroud.com を設立した。現在は裏布の科学研究に関する世界で最も完全なデータベースである。笞打されたキリストのビリルビンとアナフィラキシーショックに関するアラン・D・Adler**(ユダヤ人の化学者)の発見の読み取りが、彼の真正性の確信に決定的であった。
46STURP(Shroud of Turin Research Project)、最終報告1981年。Vernon D. MillerとSamuel F. Pellicori(STURPの公式写真家)による紫外線での研究。漿液性ハローの蛍光は、Vernon Miller & Samuel Pellicori、Ultraviolet Fluorescence Photography of the Shroud of Turin、『Journal of Biological Photography』、第49巻第3号、1981年、p. 71-85に文書化されている。Petitfils、前掲書、p. 239により引用。
47Elvio Carlino、Liberato De Caro、Cinzia Giannini、Giulio Fanti、Atomic resolution studies detect new biologic evidences on the Turin Shroud、PLoS One、第12巻第6号、2017年6月、e0180487、DOI 10.1371/journal.pone.0180487。Istituto Officina dei Materiali(CNRトリエステ)と結晶学研究所(CNRバーリ)の共同研究。クレアチニンとフェリハイドライトのナノ粒子の存在を同定、多発外傷と急性出血の主張されたバイオマーカー。一本の繊維の分析のため議論を呼び、一年後に雑誌によって撤回された論文。著者たちは自らの見解を維持。Jean-Christian Petitfils、前掲書、p. 325により引用。
48 49Tristan Casabianca, Emanuela Marinelli, Giuseppe Pernagallo & Benedetto Torrisi、Radiocarbon Dating of the Turin Shroud: New Evidence from Raw Data、Archaeometry(オックスフォード)、第61巻第5号、2019年、p. 1223-1231。三つの研究所(オックスフォード、ツーソン、チューリッヒ)の生データは、2017年に司法手続きによって取得された。統計分析は、単一の試料と両立しない異質性を示す。
50Jean-Christian Petitfils、『Le Saint Suaire de Turin. Témoin de la Passion de Jésus-Christ』、Éditions Tallandier、パリ、2022年、480ページ、ISBN 979-10-210-4934-4。引用 p. 280-281、第XII章 « La crise "épistémologique" du carbone 14 »。Petitfils(1944年生)は経済学博士にして歴史家、ルイ14世、ルイ16世、摂政、鉄仮面の伝記作者。その研究はフランス学士院と道徳・政治学アカデミーの栄冠を受けた。
51Remi Van Haelst、Radiocarbon Dating the Shroud of Turin: The Nature Report、アントワープ、1990年。Jean-Christian Petitfils、『Le Saint Suaire de Turin』、Tallandier、2022年、p. 282により引用。Van Haelstはベルギーの化学者・統計学者であり、1988年のC14分析に関する批判的研究を複数発表した。χ²検定の統計計算は、結果の整合確率を1.3%未満とする。
52Raymond N. Rogers、Studies on the Radiocarbon Sample from the Shroud of Turin、Thermochimica Acta、第425巻、2005年、p. 189-194。Rogers(1927-2005年)はロスアラモス国立研究所の熱化学者であり、1988年に採取された試料が、裏布の他の部分にない綿と染料を含んでいたことを実証した。
53Raymond N. Rogers、Studies on the Radiocarbon Sample from the Shroud of Turin、Thermochimica Acta、第425巻、2005年、p. 189-194。Rogers(1927-2005年)はロスアラモス国立研究所の熱化学者であり、STURPの創設メンバー。vanillineの分析は、1988年に採取された試料が、主たる布とは異なる中世の繕いに由来することを実証する。
54Raymond N. Rogers(1927-2005年)、ロスアラモス国立研究所(ニューメキシコ)の熱化学者、STURPの創設メンバー、1532年のシャンベリの火事の裏布の着色への影響に関する研究。Petitfils、前掲書、p. 230により引用。死後の論文Studies on the Radiocarbon Sample from the Shroud of Turin、『Thermochimica Acta』、第425巻、2005年、p. 189-194も参照。
55Gilbert Raes(1914-1995年)、ゲント大学(ベルギー)の繊維産業教授、古代布の専門家、『Rapporto sui prelievi tessili effettuati sulla Sindone di Torino』、1973年6月13日にトリノ委員会に提出。Petitfils、前掲書、p. 225により引用。*« Z »*撚りはパルミラ、ユダヤの荒野、プトレマイオス朝・ローマ時代のエジプトに文書化されている。中世ヨーロッパの工房とは両立しない。
56Giulio Fanti & Pierandrea Malfi、Multi-parametric micro-mechanical dating of single fibers coming from ancient flaxen textiles、Textile Research Journal、第84巻第7号、2014年、p. 714-727。Fantiはパドヴァ大学(産業工学科)の技術者。三つの手法(赤外、ラマン、機械)は、広い幅(手法に応じておおむね紀元前300年から400年、紀元前700年から300年、1年から800年)を与え、搅乱の可能性と繊維の出所が議論されている。
58Codex Pray(分類番号 MNY 1、ブダペスト、Bibliothèque nationale Széchényi)、遅くとも1192-1195年に年代測定されるハンガリーの典礼書。この写本は、ハンガリー語で書かれた最古のテキスト(« Halotti beszéd »、« 葬儀説教 »)を含む。すべての中世学者が、1196年のベーラ3世によるハンガリー王国の滅亡以前のものと認める。古文書学的研究:György Pray S.J.、De Sigillis Regum et Reginarum Hungariae、ウィーン、1805年;László Mezey、Forrásszemelvények a magyar művelődéstörténet tanulmányozásához、Tankönyvkiadó、ブダペスト、1968年による批判的引き継ぎ。
59Jean-Christian Petitfils、『Le Saint Suaire de Turin』、前掲書、p. 83-84。27丁裏と28丁表の細密画の記述に、外交的文脈が先行する。ベーラ王子(のちのハンガリー王ベーラ3世)は、ビザンティン帝国の皇太子としてコンスタンティノープルの宮廷(1163-1172年)で養育された。その随行員はファロスの宮廷礼拝堂に直接入れた。
60Thierry Castex, Éric de Bazelaire et Marcel Alonso、『Le Codex Pray et le Linceul de Turin』、『Revue internationale du Linceul de Turin』、第33号、2009年、p. 5-24。Petitfils、前掲書、p. 84により引用。« L字形の穴 »(直角に配された四つの小さな焼け跡)は、約218 × 55 cmの四層に折りたたまれた裏布に特徴的である。したがって、裏布が1357年に発明された中世の偽造であったはずはない。偶然の詳細が1192年にハンガリーで再現されているからである。
61Max Frei-Sulzer、Nine years of palynological studies on the Shroud、Shroud Spectrum International、第3号、1982年。Frei-Sulzerはチューリッヒ州警察の科学犯罪学研究所の創設者であり、58種の花粉の同定を主張した。そのうちいくつかは近東(パレスチナ、アナトリア、コンスタンティノープル)に結びつけられた。以来議論され、部分的に再検討されている。
62Jean-Christian Petitfils、『Le Saint Suaire de Turin』、前掲書、p. 320。Petitfilsは、Gérard Lucotte(フランスの遺伝学者、古代ゲノムの専門家)の走査電子顕微鏡による検査を、限定された試料で報告する。および、そこから近東の植物に結びつけた花粉。Max Frei(1982年)のリストを延長するこの結びつけは、なお議論されている。それだけでパレスチナ滞在を確認するものではない。
63Joseph Kohlbeck&Eugenia L. Nitowski、New Evidence May Explain Image on Shroud of Turin、Biblical Archaeology Review、第12巻第4号、1986年、p. 18-29。聖骸布の足元の近くに存在する微結晶性石灰アラゴナイトのX線分析、エルサレムの墓と同一の化学的署名。
64Barbara Frale、La Sindone di Gesù Nazareno、Il Mulino、ボローニャ、2009年。Jean-Christian Petitfils、『Le Saint Suaire de Turin』、前掲書、p. 312-314により引用。Fraleはヴァチカン使徒文書館の考古学者であり、Simone Venturini(Santa Croce教皇庁立大学)、Marco Buonocore(ヴァチカン図書館、碑文)、Émile Puech神父(エルサレム聖書考古学学校)と協議した。古文書学的年代測定:1世紀から4世紀、2世紀に消えた角のあるシグマ Σ。Petitfilsは完全な復元を« 明らかに過剰解釈 »と判定し、パレイドリアの批判(Di Lazzaro、Muller、Schwortz 2013年;Jordanら 2015年)を報告する。
65 66Shimon Gibson、The Final Days of Jesus: The Archaeological Evidence、HarperOne、サンフランシスコ、2009年;およびHaceldamaの墓(« champ du Sang »の墓地、Hinnom、エルサレム)の発見の発表、PLoS One、2009年12月。Petitfils、前掲書、p. 27により引用。Gibsonは英国の考古学者、ノースカロライナ大学シャーロット校(UNCC)およびエルサレムのAlbright考古学研究所の教授。
67Carlo Goldoni、オビエド会議(1994年および2007年)での発表;Centro Español de Sindonologiaの雑誌Linteumに掲載された報告。Jean-Christian Petitfils、『Le Saint Suaire de Turin』、前掲書、p. 334により引用。聖骸布とオビエドの聖骸布との間のAB型と顔の傷の一致は、中世の詐欺という命題に対する最も強力な論拠の一つである。Mark Guscin、The Oviedo Cloth、Lutterworth、ケンブリッジ、1998年も参照。
68Jean-Christian Petitfils, Le Saint Suaire de Turin. Témoin de la Passion de Jésus-Christ, Tallandier, 2022, p. 26–27.
69André MarionとAnne-Laure Courage、理論・応用光学研究所(オルセー)の技術者、『Nouvelles découvertes sur le suaire de Turin』、Albin Michel、パリ、1997年、200ページ、ISBN 978-2-226-09280-3。聖骸布とアルジャンテイユの聖衣の血の斑の地図的重ね合わせの研究。Petitfils、前掲書、p. 339により引用。
70Gérard Lucotte、フランスの遺伝学者(パリ分子人類学研究所)、アルジャンテイユの聖衣に関する分析、2000年代。聖衣を汚した人物の十五の遺伝的マーカー(ハプロタイプ)の走査電子顕微鏡による検出。Gérard Lucotte、『Étude scientifique de la Sainte Tunique d'Argenteuil』、Éditions François-Xavier de Guibert、パリ、2007年を参照。Petitfils、前掲書、p. 339により引用。
71条件付き確率計算:三つの分析の信頼性と独立性を前提とする。この二点はそれ自体議論されている。世界人口におけるAB型の頻度(広い意味で約5%)に基づく。分析:Pierluigi Baima Bollone(1982年);José Villalain BlancoとCarlo Goldoni(Centro Español de Sindonología、1993年);Olivier Saint-PrixとGérard Lucotte(1986-2005年)。Petitfils、前掲書、p. 340により引用。
72Alan D. Whanger(1930-2017年)、医師、メソジスト宣教師、デューク大学(ノースカロライナ)名誉教授、Council for Study of the Shroud of Turinの創設者。偏光画像の重ね合わせ法(Polarized Image Overlay Technique)を、シナイの聖カタリナ修道院のパントクラトール・キリスト(6世紀のエンカウスティックのイコン)に適用。Alan & Mary Whanger、『The Shroud of Turin: An Adventure of Discovery』、Providence House、フランクリン(テネシー)、1998年、175ページ、ISBN 978-1-887905-43-7を参照。Petitfils、前掲書、p. 355により引用。
73Paul Vignon(1865-1943年)、生物学者・物理化学者、Marcellin Berthelotの門下、『Le Saint Suaire de Turin devant la science, l'archéologie, l'histoire, l'iconographie, la logique』、Masson、パリ、1938年;Ian Wilson、『The Shroud of Turin: The Burial Cloth of Jesus Christ?』、Doubleday、ガーデンシティ、1978年;Alan D. Whanger、Justinien2世のソリドゥス(691年)における重ね合わせの計算。Petitfils、前掲書、p. 360-364により引用。
74Jean-Christian Petitfils、『Le Saint Suaire de Turin』、前掲書、p. 412、F. Giraud, T. Castex et Y.-M. Giraud、『Le mystère du Linceul de Turin à l'épreuve de la médecine et de la science』、Éditions du Jubilé、パリ、2010年を引用。身体と聖骸布の分離の際の血餅と亜麻の原繊維の剥離の完全な欠如は、著者によれば、科学的に最も説明不可能な現象である。
75Paul Claudel(1868-1955年)、フランスの詩人、劇作家、外交官、フランス学士院会員、La Photographie du Saint Suaire de Notre-Seigneur Jésus-Christ、1935年、Secondo Pia(1898年)とGiuseppe Enrie(1931年)の陰画の写真についての黙想。Jean-Christian Petitfils、『Le Saint Suaire de Turin』、前掲書、p. 413により引用。Claudelは1886年のクリスマスの夜、ノートルダム大聖堂で回心した。
76Emmanuel Poulle(1928-2011年)、歴史家・文書館員、学士院会員、元国立古文書学校長、Le Linceul de Turin victime d'Ulysse Chevalier、『Revue d'histoire de l'Église de France』、第92巻、2006年、p. 343-358。d'Arcisの意見書の上に懐疑的命題全体を構築したシュヴァリエ(1900-1902年)とThurstonの立場に対する、リレ事案の復権。
77Emmanuel Poulle、Les sources de l'histoire du linceul de Turin : Revue critique、『Revue d'histoire ecclésiastique』、第104巻、2009年、p. 747-782。1390年1月6日のクレメンス7世の勅書がリレでの公開を明示的に許可していることを実証し、聖骸布を*« 偽物 »*として非難するいかなる教皇の判断も矛盾するものとする。Pierre d'Arcisの書簡は、送られなかった草稿であり、公開の権利をめぐる地方的管轄権紛争を表現する。
78Samuel F. Pellicori(サンタバーバラ研究所、カリフォルニア)、Spectral properties of the Shroud of Turin、『Applied Optics』、第19巻第12号、1980年6月15日、p. 1913-1920。STURPの共著者であるPellicoriは、反射分光光度法により、像に着色された原繊維の分光的署名が酸化鉄を含まないことを実証した。Petitfils、前掲書、p. 251-252により引用。
79Roger A. Morris, Larry A. Schwalbe & J. Ronald London、X-ray fluorescence investigation of the Shroud of Turin、『X-Ray Spectrometry』、第9巻第2号、1980年、p. 40-47。ロスアラモス国立研究所(ニューメキシコ)の研究者たちが、鉄が1マイクロメートル未満の粒で均一に分布することを示すX線蛍光分析を行った。中世の絵画とは両立しない。Petitfils、前掲書、p. 252により引用。
80Walter C. McCrone、Light Microscopical Study of the Turin "Shroud"、『The Microscope』、第28巻、1980年、p. 105-113;およびThe Shroud of Turin: Blood or Artist's Pigment ?、『Accounts of Chemical Research』、第23巻第3号、1990年。『The Microscope』は、McCrone自身が設立したWalter McCrone Associates社の雑誌であり、独立した外部査読委員会を持たない。Petitfils、前掲書、p. 236-237により引用。
81Jean-Christian Petitfils、『Le Saint Suaire de Turin』、前掲書、p. 236-237。
82Luigi Garlaschelli、Life-size Reproduction of the Shroud of Turin and Its Image、『Journal of Imaging Science and Technology』、第54巻第4号、2010年。Garlaschelliはパヴィア大学の化学者であり、CICAP(Comitato Italiano per il Controllo delle Affermazioni sulle Pseudoscienze、イタリアのゼテティックに相当する)の創設メンバー。この実験はCICAPが資金提供した。Petitfils、前掲書、p. 274により引用。
83Nicholas P. L. Allen、The Methods and Techniques Employed in the Manufacture of the Shroud of Turin、『The Journal of the Society for the Study of Egyptian Antiquities』、第25巻、1995年;Lynn Picknett & Clive Prince、『The Turin Shroud: In Whose Image ?』、Bloomsbury、ロンドン、1994年。Petitfils、前掲書、p. 274-275によって反駁される。Leonardo da Vinci(1452-1519年)は、1357年頃にリレで、1192-1195年にハンガリーで文書化された物体の作者であることはできない。
84Donald J. LynnとJean J. Lorre、ジェット推進研究所(NASA/カリフォルニア工科大学)、Digital image processing applied to the Shroud of Turin、『Proceedings of the SPIE』、第119巻、1977年。像の完全な等方性(方向性の痕跡の完全な欠如)は、顕微鏡で検出可能な軌跡を残す擦りあるいは手描きの絵画のあらゆる手法を排除する。Petitfils、前掲書、p. 230により引用。
85Yves Delage、『Le Linceul de Turin』、『Revue scientifique』、1902年5月14日、五つの例外的状況の符合に適用した確率計算。Petitfils、前掲書、p. 209により引用。聖骸布の真正性に関する現代のベイズ的論証の先駆(復活については Richard Swinburne、オックスフォード 2003年を参照)。
86Yves Delage(1854-1920年)、動物学者、ソルボンヌ比較解剖学教授、パリ科学アカデミーでの発表、1902年4月21日、のちに『Revue scientifique』、第XVII巻第19号、1902年5月14日、p. 583-586に『Le Linceul de Turin』の題で発表。Marcellin Berthelot(1827-1907年)、化学者、元老院議員、科学アカデミー終身書記(1889-1907年)、『Comptes rendus de l'Académie des sciences』への掲載を拒否。Petitfils、前掲書、p. 202により引用。
87Jean-Christian Petitfils、『Le Saint Suaire de Turin. Témoin de la Passion de Jésus-Christ』、Éditions Tallandier、パリ、2022年、p. 413、著作の結論。最後の引用は、Philippe de Césaréeにおける聖ペトロの信仰告白(マタイ 16, 13-16;マルコ 8, 27-30;ルカ 9, 18-22)に言及する。
88ピオ11世(Achille Ratti、1857-1939年)。1934年3月23日、聖骸布を崇敬する信者のための全大赦。Petitfilsはさらに、1936年にさかのぼる非常に強い表現を報告する。教皇の原本は一次史料のなかに見つからなかったため、ここでは引用としてではなく言い換えとして記す。Petitfils、前掲書、p. 189により引用。
89聖ヨハネ・パウロ2世、ヴェルチェッリとトリノへの使徒訪問の際の演説、1998年5月24日。フランス語公式テキストは vatican.va(同じ文書のサイトが再生成したフランス語PDFは空である。有効なのは travels のページである)。
90ベネディクト16世、聖骸布崇敬の際の黙想、トリノ、2010年5月2日。フランス語公式テキストは vatican.va。
91ブエノスアイレス大司教(1998-2013年)として、枢機卿Jorge Mario Bergoglio(のちのフランシスコ教皇)は、1996-1999年に、ブエノスアイレスの聖体の奇跡(Santa Maria教会、1996年8月18日)の科学的分析を個人的に進めていた。奇跡の聖体は、Frederic Zugibe博士(法医学、コロンビア大学)に提出され、AB+型の人間の心筋組織の存在を確認した。聖骸布とオビエドのスダリウムの血と印象的に一致する。聖体、実在、現代の聖体の奇跡の節を参照。
92フランシスコ教皇、ピアッツァ・ヴィットーリオでのアンジェルス、トリノ、2015年6月21日(ミサの後に、説教のなかでは)。フランス語公式テキスト(vatican.vaのPDF)。2015年の公開は、聖ヨハネ・ボスコの生誕二百年(1815-2015年)に際して組織された。200万人を超える巡礼者が出席した。
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